いつもの、あの喫茶店で

 いつも行くその店は路地裏の少し奥まった場所にあった。

「いらっしゃい」

 老齢のマスターは、いつしか常連になった自分に丁寧に挨拶してくれる。

「ホットで」

「はい、はい」

 俺は早速煙草に火をつけると、コーヒーが出てくるまでの間に紫煙をくゆらせる。


 自分以外の客は見当たらなかった。

 邪魔にならない程度の音量でジャズが流れ、このひとときが、仕事で疲れた自分の憩いの場でもあった。

「おまちどうさまね」

 ミルクと砂糖はついていない。俺がブラックしか飲まないことを、マスターは知っていた。


 スマホで今日のニュースなんかを流し見しながら、コーヒーをすする。

 うん、この味だ。俺はこのコーヒーがすきで、わざわざわかりにくい立地にあるこの喫茶店に来ているのだ。

 どんな豆を使っているとか、淹れ方がどうとか、そんなことには興味はなかった。

 ただ美味いコーヒーが飲めて、優しいマスターがいて、騒がしい客もいない、そんなこの店が好きだった。


 昔一度だけ、マスターに聞いたことがある。

「どうしてこんな場所に店を開いたんです?」

 もっと客足がのびるような、少なくともここよりはいい立地はいくらでもあるはずだった。

 内装だって最近流行りのお洒落なカフェ風ではない。いかにもな純喫茶というかんじで、悪く言えば古臭い、少なくとも若者受けするような店ではなかった。

「昔はね、もっとこのあたりももうちょっと栄えてたんだ」

 マスターは思い出話をするように続けた。

「でもみーんな年食っちまって、後継者のいない店はたたむしかなかったんだよ。ウチもね、まだそんな当時はそれなりにお客さんも来ててね、それがこのあたり一帯が寂れちまって、細々とやってくしかなくなったんだよ」

 目を細めながら、マスターは寂しげに微笑んでみせた。

「でも、アンタみたいなお客もいる。それだけで、ここを続けていく意味はあるとおもっているよ」

 胸が熱くなった。それ以来、前にも増して店に顔を出すようになった。


 ここは秘密基地のような場所だ。

 もっと店が栄えて欲しいとおもう気持ちと裏腹に、誰にも教えたくない、自分だけの居場所にしたいという気持ちのほうが強かった。


 マスターはのんびりとカウンターの奥にある椅子に座り、新聞を読んでいた。

 白髪に眼鏡、物腰の柔らかい出で立ち。

 俺はここのコーヒーと、店構えと、なによりこのマスターが好きなんだと実感していた。

 足繁く通ったところで別段なにか変わったわけではない。

 あくまでお客と店主の関係であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。


 コーヒーを飲み干したところでまた一服する。

 どうしてこうもコーヒーと煙草の相性はいいのだろう。

 ゆっくり煙を吐き出しながら、ぼんやりとこれからのことを考える。

 静かなこの場所で、自分の在りかたをおもうのは、自分にとっては自然な流れだった。


「ごちそうさま」

「はい、今日もありがとうね」

 勘定を済ませて店を出る。

 西日が眩しかった。

 明日も仕事、か。マスターの、最後の笑顔を思い出しながら、裏路地を抜けて大通りに出る。そうだな、頑張るしかないんだよな。

 最後の一杯にするつもりだったコーヒーの味を噛み締めながら、俺は帰路についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る