ノアの方舟

nobuotto

第1話

 リー神父はテサロニケ人への第一の手紙を引用して日曜ミサの説教を終わりにした。


「それから生き残っている私達が、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」


 知り合い同士が挨拶を交わしながら礼拝堂を出ていく。

「私生き残りたい。生き残れるかな」

 小さな女の子が母に怖そうに聞いた。

「大丈夫、心から願えば必ず叶うから」

 母は優しく答えるのであった。


 礼拝堂の一番うしろの長椅子にいた少年が、礼拝堂から出ていく人をかき分けるようにリー神父の前に歩いてきた。見たことがない少年だった。

「あなたは、一人ですか」

「はい。いえ、昨日引っ越してきました。今日は母が都合がつかなかったので僕だけミサに来ました」

「そうですか。一人でですか。偉いですね。これからも宜しくお願いしますね」

 神父の差し出した手を少年は強く握り締めた。

「神父様。生き残ることは、意味があることなのでしょうか」

 唐突な質問であったが、少年が真剣に尋ねていることは、神父を見つめる少年の目で分かった。

「そうですね。一緒に考えてみましょうか」

 神父は長椅子に少年を座らせた。

 横に座った神父は静かに話し始めた。

「昔、ずっと昔のことです。そう神様が人間をお作りになって、まだ間もない頃です」


***


 昔、ノアとクルスという者がいた。

 ノアは神に選ばれし者だと自ら名乗っていた。

 自分で名乗るだけでなく、街の誰もがノアは人間の中でも特別の存在であると認めていた。ノアは正しいことしか言わない。ノアに従っていれば誰もが幸せになれると思っていた。

 そんな街の片隅で、クルスは生きていた。人と会うことを避けて、人に気づかれることを恐れるかのようにクルスは生きていた。

 ノアが神に選ばれし者であれば、自分も神に選ばれし者だとクルスは思っていた。

 けれど、身体も声も大きく存在感の塊のようなノアに比べて、クルスは魔女が猿から作った人間のような奇っ怪な身体で、誰もクルスを相手にしようとはしなかった。クルスが何を言っても誰も信じることはなった。

 だからクルスは隠れるように生きていた。


 ある日のこと、ノアがおかしなことを言い始めた。 

「神は人間の不遜な行いをお怒りになった。神はこの街、いや街どころかこの地全てを覆う大洪水を起こすことを決めた。生きとし生けるものは神の洪水で滅びるのだ」

 ノアの気が狂ったと誰もが思った。声を限りに「ノアは神ではなく悪魔が選んだ人間だ」とノアを罵り馬鹿にした。しかし、ノアはそんな声を無視して親族一同で小高い山の上に方舟を作り、手当たり次第に動物のつがい、植物の種を運び込んでいった。

 ノアが真実を語っていることをクルスは知っていた。そしてノアを嘲笑する者たちこそ未来がないことも。

 クルスもノアと一緒に神の言葉を伝えれば、未来も少しは変わるかもしれない。しかし、ノアだけを預言者として崇めている者たちを救う気持ちなどクルスにはなかった。


 ノアの予言した大洪水は国を丸ごと飲み込んだ。ノアの方舟にいた人々、ノアの親族と動物は生き残った。

 

 クルスは方舟に乗ることはなかった。けれど、クルスも生きていたのだった。クルスは魚のように水中で呼吸する能力を持っていた。大洪水の中を漂い続けた方舟の底にしがみついて、クルスは生き続けたのであった。


 大洪水から長い時間が過ぎた。ノアの一族で新しい国ができていた。  


 クルスはノアの一族をいつも遠くからみていた。ノアの一族以外生き残ったものはいない。そう信じられていた。だからクルスは世界に存在しないのであった。

 ノアの国は繁栄を極めていった。賑やかで華やかな国民の生活と、その頂点に経つノアの姿をクルスは国の片隅から見続けていた。


 またも、ノアは予言を始めた。今度は大旱魃が襲ってくるというのである。大洪水で生き残り繁栄した国民はノアを信じた。国中の者が水と食料を蓄えて大旱魃に備えた。


 クルスも大旱魃が来ることを知っていた。ただ、クルスにはノアとは違う未来が見えていた。

 ノアの予言、ノアが見ている未来は間違っている。この備えでは、大旱魃に耐えられない。真実の未来を見る力をもうノアは持っていない。国民も、動物達も死に絶えるに違いない。

 それが分かっていてもクルスは黙って見ているだけであった。ノアのように予言し、皆を助けること、ノアに力を貸すことなど自分のプライドにかけてできない。ノアなぞは自分の足元にも及ばない預言者でしかない。そのことさえ確かめることができればそれでいいのであった。


 クルスが見た未来は正しかった。ノアが想像していた以上の旱魃が襲ってきた。蓄えた水も食料も直ぐにそこをつき国中が砂漠化した。ノアから始まった種族は一人また一人と死んでいった。そして、ノアもこの大旱魃の中、寿命が尽きて死んでしまった。

 しかし、クルスは生きていた。

 大旱魃が来たときクルスは土の中に潜っていた。そこでまるで植物のように土から栄養をとって静かに生きていたのであった。


 長い時間が過ぎ、クルスは地上に戻った。そこにはあの宿敵のノアはいない。

「俺はノアに勝ったのだ、俺こそが本当の預言者であり、能力者なのだ」 

 クルスは、腹から絞り出すように叫んだ。 

 しかし、すべての人が死んでしまった砂漠でクルスの声を聞く者はいなかったのであった。


 天から神の声が響いてきた。

「これから新しい世界を作ります。とても長い時間がかかるが、お前はそれを見続けるのです」

 クルスは全ての力を使い果たしたかのように砂の上に横たわった。

 誰もが汚くて邪悪だと嫌っていたクルスの目から涙がこぼれ落ちた。

「神様、もう世界が滅びるのを見ることに耐えられません。最後まで生き残ることに疲れてしまいました」

 神の声が聞こえた。

「最後に残ったお前は見続けなくてはいけない。ただそれだけなのです」


***

 リー神父は「ふー」とため息をはくと、長椅子から立ち上がり礼拝堂のステンドグラスの像に向かって跪いた。

「さて、私の話はここまでです。この話しで神は私達に何を伝えようとしているか、実は私もよく分かりません。ただ、クルスがどんな人よりも生き残ろうとしたし、その力も持っていた。そのことだけは分かります。先程のあなたの質問ですが、少しはお役に立てたでしょうか」

 返事はなかった。

 リー神父が振り返って見た長椅子には、誰も座っていなかった。

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