16-2 「いったい何者に……」

「二人は寝ついて?」


 時計が午前三時の鐘を打っている。薄暗い廊下からシャンデリアが変わらず煌々と輝く部屋に戻ってきたルカに、寝台の傍らから玲子が尋ねた。


「なんとかね。翼の方はミーチャ特製の飲み物が必要だったけど、まあ……」

「お嬢様もそろそろおやすみになりませんと」


 柏木が脇から言うと、ルカはイラっとしたようにその横顔を睨んだが、はなからルカなど気にもかけていない柏木は女主人の方しか見ていなかった。


「姫さまのことは私と左大臣殿にお任せください」

「いやいや柏木殿、貴殿も休まなければなりませんぞ」


 と、舞の汗を拭う仕事に余念なくも左大臣が言う。


「わたくしはこの体ですからな。しかし、柏木殿は生身の人間。それにこのところ寝ずの番が続いておりましたからな」

「柏木、帰宅して仮眠を取りなさい。午前十時に指示を出すわ。それから、ルカ、貴女も眠らないと」

「私はいい。明日は欠席するつもりだから」


 玲子の目が眼鏡の奥できらりと光った。


「ルカ、私が言えた義理ではないけれど……出席日数は大丈夫なの?」

「正直大丈夫ではないけれどなんとかなるというところだな。それに我が姫君が生命の危機なんだ。出席の心配なんてしていられないさ」


 ルカは肩をすくめてそう言いながら、舞の顔をのぞきこんだ。途端に口元に浮かんでいた微笑が掻き消えた。まさしく言った通りだったのだ。出席の心配なんてしていられない――


「舞、いったい何者に……」


 左大臣が京姫を発見した時、京姫は倒木のそばに仰向けに倒れていた。意識はすでに遠のいており、左大臣の呼びかけ対する応答もなく、右肩の後ろには突かれたような深い傷があり、そこから流れ出る血が美しい桜色の衣装を染め上げていた。恐らくこの傷口から毒のようなものを体内に注入されたのであろうというのが皆の共通した見解であった。


「琥珀はひとりでに目覚めたわけではないわ。何者かが長い眠りから目覚めさせ、よみがえらせた。まだ私たちの知らない敵がいる――漆は配下を増やしたようね」

「そいつの仕業ということか」

「可能性よ。無論そうではないということも」

「そんなに大勢雇われてかなうものか。よほど人徳があるやつだな、漆も。まっ、元月修院さまともあれば人心掌握など容易いのかもしれないが」

「……ねぇルカ、毒と聞いて何か思い当たることはなくって?」


 無言でじっと見つめ合った後で、やがてルカは丸テーブルのティーソーサーから蝶の形を模した砂糖菓子をひとつ右手で摘まみ上げた。それをまるで手品師のように裏表にひっくり返して玲子に見せつけた後で、ティーカップのなかに放り投げた。砂糖の蝶は冷めた紅茶のなかに沈んでいった。


「こいつだろ?」


 一連の動きを終えて、ルカは溜息をつきながら右手で狐の影絵を作ってみせた。


「えぇ。篝火は毒のクナイを使ったといったわね」

「ああ、それに煎湖せんじこで舞の前に姿を現している。その時は舞を助けたようだが、あいつは信用ならない。あいつの仕業だとしても私は驚かないよ」

「毒消しは篝火自身が持っているのかしら?」

「恐らくは」


 と言ってから、ルカはしばらく考え込んだ後で、


「……実はひとつだけ持っている」

「なんですって?」


 玲子ばかりではない。左大臣も、その場にまだ残っていた柏木も驚いたようにルカを見た。ルカは先ほど砂糖を放り投げた紅茶をぐっと飲み干し、苛立ったように音を立ててけ残りを噛み砕いて顔をしかめた。


「君の言った通り、篝火は以前、青龍を毒のクナイで襲ったことがある。その後で篝火は毒消しと称したものを青龍に手渡したが、さすがに青龍は懸命だ、それを飲むふりをしてみせた。結局毒と思われたものは篝火の幻術でね。青龍が薬を飲むふりをしたらたちまち症状は消えたわけだが……まあつまり、その時に青龍がが残っているというわけだ」


「それは翼が持っているのかしら?」

「いや、私だ」


 ルカは苦しげに息をしている舞の元へ再び歩み寄り、左大臣の手からタオルを取り上げると自分の手で舞の汗を拭った。


「敵のことはひとつでも多く知りたかった。だからそんなつまらないものさえ取っておいたわけだ」

「して、ルカ殿、それはどこにございます?」


 左大臣が黒釦の目でルカを見上げて重々しげに尋ねると、ルカは物憂げに左大臣を見つめ返した。


「私の部屋に保管してある。だが、効き目は保証できない。何も効果がない可能性が極めて高いよ。なにせ以前は毒自体が幻覚だったのだから」

「しかし、少なくとも毒ではありませぬな。篝火はそれを青龍に飲ませようとしていたのですから」

「お使いになるつもりですか、左大臣?」


 柏木が意外そうな口ぶりで投げかける。


「口をさしはさむようですが、まだ篝火の仕業とも決まったわけではありません」

「えぇ、その通りです」


 玲子もうなずいた。


「リスクが高すぎますわ。元は毒ではなかったとしても、今の舞の体に投与したとしてどのような効果を引き起こすかわかりません。薬は毒になり得ます」

「慎重なあなたらしくもない、左大臣」


 ルカは疲労を滲ませながらもいたわるように左大臣に微笑みかけた。


「舞のことが心配な気持ちはわかるが、もうしばらく待とう。今この瞬間にもミーチャが舞の血液を検査してくれている。せめてその結果が出るまでは」


 テディベアは長いこと打ちひしがれたように立ち尽くしていたが、やがて深く息を吐いて、舞の頬の横に座り込んでしまった。


「皆さまの仰るとおりですな。わたくしとしたことが。老いぼれらしくもなく気ばかりが急いて」

「それほど大事なのでしょう、舞のことが」


 ルカがタオルを左大臣に渡しながら優しく言った。


「私たちも気持ちは一緒だが」

「……わたくしはもう姫さまの最期など見たくはありませんからな」


 タオルを抱きしめて左大臣は独りごとのように低くささやいた。ルカと玲子は同時にはっとした顔をした。


「あんな光景を見るのは金輪際わたくしひとりでよいのです」


 沈黙のなかで、玲子がそっと舞から顔を背けたことにルカは気づかないでいたが、忠実な柏木は、続けて玲子がそっと自身の鳩尾みぞおちのあたりをさすり出すのを認めるなりすぐさま尋ねた。


「お加減が優れませんか、お嬢様?」

「いいえ、何でもないわ……それより早く帰りなさい、柏木」

「鳩尾が痛むのは胃だぞ、玲子。手のかかるボディガードとやらのせいでキリキリしてるんじゃないのかい?君も早く休むべきだよ」


 女主人の前では不毛な言い合いを避けるように心がけている柏木は三白眼で冷ややかにルカを一瞥しただけで、玲子の前に畏まって部屋を去った。柏木の足音が完全に遠のくのを待ってから、ルカは玲子の車椅子に手をかけて、玲子の抵抗もなんのその、強引に部屋の外へと連れ去った。


「ルカ」

「駄目だ、君は寝ろ。私も舞を左大臣に頼んで少し寝る……で、君も明日はさぼるのかい?」

「えぇ、もちろん」

「迷いないな。人に出席日数のこと説教できるか?」

「私の欠席は事故だと思われているから問題ないわ」


 深夜の会話はひそやかに、見えない玉となって暗い廊下をはずんでいくようである。不思議なことに、あの明るい部屋から離れることで二人はようやく安らぎのようなものを覚えはじめていた。体がようやくこの時間にあるべき暗さの元に置かれたためかもしれなかった。アーチ型の窓の向こうでは雨の影が降りしきり庭園の芝生をしめやかに濡らしている。今この世界で目を覚ましている者は自分たちだけではないかとさえ思えてくる、夜の静けさの不思議な錯覚……


 この世界の全てのものたちの眠りを覚まさぬように、玲子はいっそうひそめた声で切り出した。

「ルカ、ひとつ相談したいことがあるのだけど……」





「えっ?えっ?トビちゃん?」


 目を逸らしつつ司が子犬を差し出しても、早番の仕事から帰宅したばかりの母親はにわかには信じがたいようすで何度も息子と犬の顔を見比べていた。


「えっ、うそでしょ。なんで……」

「やっぱり育てられないから返すって。元の飼い主が」


 悲しむべきなのか喜ぶべきなのか――母親は一瞬迷った様子であったが、ぴいぴいと犬らしかぬ声で鳴きながら手足をばたばたさせている子犬を見ると、もうたまらなくなったように満面の笑顔を浮かべて、司ごとトビーを抱きしめた。


「な、なんだよ?!」


 意外な事態に今度は司が暴れ出そうとするが、母親は決して離そうとしなかった。


「よかったね、司。よかったね、トビちゃん。これでまたみんなで暮らせるねぇ!」

「ぼ、僕は別に……!」


 子犬のやわらかさと、久しぶりに感じる母親の腕の温もりが胸と背とから司を挟む。トビーが帰ってきた直後は驚きと不安でいっぱいだった。突き返せばよかったとも思った。うちでは育てられないのだと。でも、母親がこれだけ喜ぶのならよかったのかもしれない。司は同じ言葉を胸のなかで何度も反芻している自分に気がついた。



 ――これでまたみんなで暮らせるねぇ……


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