15-5 「あー、痛かったですかぁ?」
「お姉ちゃん!!」
京姫の上半身は大きく闇にのけぞってから前方に倒れ込み、倒木の幹にもたれかかった。もう体は動かなかった。
姫は右肩から広がっていく痺れがたちまち全身に伝わり、手足を鉛のように重たくするのをただ待つことしかできなかった。瞬きさえも意のままにならず、呼吸がうまくできなかった。息をしようとして口を開くと舌先がぴりぴりと乾いて、感覚を剥ぎとられていくようだった。それなのに右肩からだけは焼かれるような痛みが留まり続けて去ることがない。乱れた呼吸にあわせて、小刻みに視界が揺れている。樹々と葉と闇。でも、これは風のせいかもしれないし……
『姫さま、応答してくだされ!姫さま!』
左大臣の声がする。
『舞?……舞?!』
これは玲子の声。いつになく取り乱しているようだ。でも返事ができない。
「あー、痛かったですかぁ?ごめんなさいね」
……誰?
京姫の視界に映ったのは、倒木を踏む足であった。爪を宝玉のように白く塗った、褐色の美しい素足だ。細く引き締まった足首には金の環が幾重にも飾られ、その踵は緋色の豪奢な裾が覆い隠している。女の素足だろうと思われたが、無論尋常の女ではない。素足でこんな山道を歩けるはずがないからだ。それにこの足は歩いてきたにしては、あまりにも清潔すぎる。
くすり、と笑い声が頭上から聞こえた気がした。
「こんばんは、お姫さま。そして突然ごめんあそばせ。でも、いまあなたに琥珀を倒されるのは、あたし的にはちょっと困るんですよねぇ。もっと大虐殺をしてもらわないと、人々の『きょーふ』は集まらないじゃないですか。『きょーふ』こそが『信仰』の源ですもんね」
京姫はぞっとした。この女の声は芙蓉の声ともまた違う。芙蓉の声は毒を含ませた絢爛な絹であり、美麗な外見の裏にどこまでも毒の重さを引きずっていた。だが、この女の声はまるで毒の重みをはなから感じていないかのように、鮮やかなまでに跳躍して、軽薄に響く――それは生命の重みを知らぬ、というより全くもって知ろうともせぬゆえに成せる業である。しかし、まるで聞き覚えがない声なのに、すでに知っているようなそんな気がするのは一体なぜだろう。
そこまで考えたところで、一瞬意識が遠のきかける。素足の女は再び笑う。
「ふふ、だいじょーぶ!死ぬほどの毒じゃありませんから。まっ、せいぜい一週間ぐらい寝ててくださいな。あっ、
屈みこむ影が視界に触れた瞬間、ほろほろと崩れ始めていた視界はついに闇に溶け去った。と、同時に激しい痛みが右肩に走り、京姫は「ああぁっ!」という自分の苦悶の悲鳴を聞いた。女の嬌声が毒花の香のように闇に広がって咲いた。
「だーめ、泣かない泣かない。せっかくのきれいな顔が台無しですよー?……あーもうっ!そんなかわいい声出されると、見たくなっちゃうじゃないですかぁ」
褐色の足先が頬に触れたような気がした。そのまま顔を蹴られて、姫の体は仰向けにひっくり返されたようだ。自分の体のことなのにどうなっているかがもうわからない。視覚が失せて、触覚が失せて、最後に残ったのは聴覚だけだ。それも次第に失われつつある。
「ふふ、かわいい顔……もっといじめたく……う……」
トビーが近く唸り吠えたてている声が聞こえてくるが、それ以外の物音は途切れ途切れでうまく聞こえてこない。ああ、トビーお願い。ちょっとだけ静かにしてて……
「あー、うるさ……だか……ぬは……なんで……」
「おね……ん!」
『舞……へん……………こは…………た!』
「……めさ……!……さま……!」
「姫さま!しっかりなさいませ、姫さま!お返事を……返事をなさいませ!」
うつろな瞳で横たわる京姫を揺すぶりながら左大臣が呼びかける時、京姫の唇がかすかに動いた。左大臣にはただ葉を伝って落ちる雨滴を受けただけと思われただろう。たとえ聞こえたとして、左大臣は安堵できなかったことであろう。多くの人が必死に京姫を呼ぶなかで、姫は誰に応ずるわけでもなかったから。姫はただ、遠い夢のなかにいる人の名を呼んだのだ。痛みと苦しみのなかでただ会いたいと思ったその人の名を。
「結城、君……」
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