15-2 トビー奪還作戦《会議編》
「ルカせんせーい、玲子せんせーい、京野さんがさぼってます!」
「ちょ、ちょっと、言いつけないでよー!」
慌ててパソコンの画面に覆いかぶさる舞であったが、翼と奈々が脇から容赦なく引き剥がそうとする。それは、とある午後、もう日が傾きかけてきたころの白崎家の一部屋でのできごとである。
「なに見てたの舞ちゃん?エッチなサイト?」
「エ、エッ……?!ち、ちがいます!そんなの見ません!」
「ほら、仕事さぼってた罰だから。見せて見せて」
「だいじょーぶ。ルカさんも玲子さんも今いないから怒られないって」
翼と奈々に説得されたのだかそれとも強制されたのだか、舞は羽交い絞めにしていたノートパソコンを仕方なく解放して、こっそりと眺めていたものをおとなしく翼と奈々の前に示した。ぱちぱちと睫毛をしばたかせながら見つめるその先には眼鏡をかけた品のよい男性の写真が掲げられている。
「誰これ?
「もしかして結城のお父さん?」
翼の声に、舞はこくんとうなずいた。結城要――水仙女学院大学公式サイトの写真は今より少し若い頃のものだろうが、微笑み方がどことなく覚束ないようにみえる。まるで心から笑ったことのない人が、笑いの形をなぞっただけとでもいうような。写真と名前のかたわらに書かれた紹介文を奈々が声に出して読み上げる。
「えーっと、英文学部准教授、専門はブロンテ姉妹を中心とした19世紀英文学、っと。ふーん……まっ、とにかくよくわからないけど、顔は結城に似てる感じがするね。目元とか」
「水仙女学院の先生なんだ。すっごーい」
「うん。でももう来年からは他の学校に行くんだって。結婚して、もうすぐ他の街に引っ越しちゃうし……だから、結城君にちゃんと伝えてほしいなってそう思ってるんだけど…………」
舞の目は、結城要の名の下に示されたアルファベットの羅列を知らず知らずのうちに辿っていた。yukiからはじまるその文字列は結城要准教授の大学のメールアドレスであり、准教授に連絡がとりたい者は誰でもそのアドレスにメールを送れるようになっていた。誰でも――たとえ個人的な要件で話したい者であっても?
(余計なおせっかいだよね……結城君だって絶対嫌がるもの。それに、そもそも私に何ができるっていうの?)
思いつめたような舞の表情に、翼と奈々は顔を見合わせる。
(でも、伝えてほしい。ううん、絶対に伝えないと――お父さんの言葉)
「なにか動きはあって?」
背後から突然声をかけられて三人は飛び上がった。なにも仕事をさぼっていたのは元はといえば舞だけなのだから、翼と奈々はびくびくする必要はなかったのだが。ルカに扉を支えてもらいながら部屋に入ってくる玲子の目が、眼鏡越しにほんの一瞬、パソコンの画面をとらえたような気がしたが、翼のすばやい動きがすぐさま画面を切り替えた。
「う、ううん。と、特にはなんも……!」
「先日調べて知ったんだが、狼というのは薄明薄暮性といって、明け方や暮れ方に活動するそうだ。琥珀のやつもそろそろ動きはじめるころかもしれないな。注意して見ていなければいけないよ、舞」
ルカにウィンクされて、舞は思わず顔を赤らめて目を逸らした。どうやらばれていたようだ。
舞たちの目下の任務は、北山にある琥珀の縄張り近くに仕掛けられた十数台のライブカメラ(ルカが購入し、左大臣と柏木が命がけで設置した)の映像をノートパソコンから常時監視することで、琥珀が街へ降りるようなことがあればすぐさま対応できるようにしておくことなのである。
が、一日中眺めていても琥珀の姿は映り込まない。ならばリスでもタヌキでも映ってくれれば少しは退屈がしのげそうなものであるだが、何か動いたかと思って期待してみると風が木の葉をそよがせているだけなのである。健全なる中学二年生の少女が飽きはじめるのも無理はないのであった。と、そんなところで舞はチョコレートクッキーをかじりながら、昨夜母親に聞いた話を思い出したのだ――そういえば、司君のお父さんは水仙女学院の先生だったわね。
「さて、玲子とも今話していたんだが、相談がある。パソコンから目を離していいからこちらに集まってもらえるかい?」
舞たちがノートパソコンをそのままに丸テーブルの周りに集まると、ルカは玲子と自分の分の紅茶を注いでから席につき、脚と腕を組んで切り出した。
「このまま琥珀が動くのを待っていても仕方ない。私たちにはすべきことがあまりにも多く、時間には限りがある。私たちは漆の行方を探らなくてはならないんだ。いつまでもPCの前にはりついているわけにはいかないさ」
それはもっともだと三人の中学生たちもうなずいた。ルカは続ける。
「琥珀はなぜだか動かない。左大臣の話だと、琥珀は結城司からさらった子犬の世話にかかり切りになっていて今は復讐どころではないそうだ。このまま山の中に引きこもっていてくれればいいんだが、そうもいかないだろう。やつは普通の狼ではない。やつは憎悪と復讐の獣――いつ人間を再び襲ってもおかしくはないんだ。そしてもし、新たな犠牲者が出た時は……その時は何もしなかった私たちの責任だ。無論、誰が責めるわけでもないが」
ルカは丸テーブルを囲む少女たちを見渡して低く言った。
「次なる犠牲者が私たちの友人や家族でないという保証はない。以上の理由から、私は一刻も早く琥珀を倒すべきだと考える。異論はあるかい?」
誰も答えなかった。舞だけがきっと胸のなかでこっそりと付け足したのだろう――それに、トビーちゃんを早く取り返さないと、と。
「なら結構。では次の話題に移ろう。具体的な作戦をどうするかということだが、先ほど玲子と相談してひとつ考えてみたんだ。君たちの意見を聞かせてほしい」
「この作戦ではそれぞれ分かれて行動することになるわ。まずは青龍と玄武、あなたたちには勢子の役割をしてもらうわ」
「セ・コ?」
翼と奈々が同時に聞き返す。
「つまりは琥珀を
「街とは反対側の麓、地図でいうとこの辺りだな。ここにちょうど開けた場所がある。ここに私たちが琥珀を追い立てる」
「京姫、左大臣、柏木はこの場所で待機よ。琥珀が山を降りてきたら京姫が琥珀を仕留める。左大臣と柏木が援護をするわ」
「玲子さんは?」
すかさず奈々が尋ねる。
「私はこの場所で指揮をとるわ。現場にいても邪魔になるもの」
と、玲子は自嘲気味にもならずに答えた。それから眼鏡の奥から皆の顔を見回して、
「他に何か?」
はい、と翼が手を挙げた。
「ひとつ気になったんですけど、『白虎たち』だとか『私たち』だとか誰のことですか?皆の名前は全部挙がりましたよね。じゃあ白虎と一緒に琥珀を追い立てるのって……」
ああ、と低くつぶやいたルカが、金のティースプーンでティーカップを叩く。鈴のような音が鳴り響いた後で部屋の扉が開き、二頭のボルゾイ犬が幻影のようにすっと現れて、軽やかな足取りでまっすぐに主人の元へと向かってきた。立ち上がって愛犬を迎えたルカは、二頭の間にしゃがみこみ、その首のあたりに手をかけて微笑みながら、唖然としている舞たちの方を見遣った。
「『私たち』さ。ボリスとアンドレイは狼狩りの名手だからね。きっと力になってくれるはずさ。ああ、心配しないでも、もちろん掠り傷ひとつ負わせるつもりはないよ」
「えぇ……」
一同が呆気にとられているなか、舞は白馬のような美しいボルゾイ犬の姿から似ても似つかぬまん丸の子犬を思い出していた。ふと、舞は気づいた。
「トビーちゃんは?トビーちゃんはどうするの?」
いまひとつ目線を合わしきれぬままに舞が玲子に訊くと、玲子もまた紅茶に目を落としたまま、
「作戦中はひとまずは琥珀退治が優先よ。作戦が終了し次第、山中を捜索しましょう。恐らくは琥珀の塒にいるはずよ」
「こまちゃんに確保しといてもらおうか?あたしたちが琥珀と戦ってるあいだ、こまちゃんがトビーを守ってくれるよ」
「大丈夫ですか、それ?こまちゃん、トビーちゃんを食べたりしませんよね?」
「へーきじゃない?たぶん」
「たぶん……」
青ざめた顔で繰り返す舞に、大丈夫大丈夫!といつもの根拠のない自信に満ちて奈々は笑う。せっかく琥珀を倒せてもトビーが木守に食べられてしまうようなことがあれば……舞は司に合わせる顔がなくなってしまう。それだけは絶対避けたい。こまちゃんには作戦の前にたらふく美味しいものを食べておいてもらうことにしよう、と舞は心に決めた。でも、何がよいのだろう。
「舞」
玲子の静かな声が舞を不毛な物思いから醒まさせた。いつのまにか、翼と奈々は両隣の席を離れて犬と戯れはじめている。丸テーブルをはさんで向かい合っているのは舞と玲子だけだった。
なにげなく顔を上げたせいで、舞と玲子の目があった。舞は不意を突かれたように「あっ」と思ったが、そのまま目を逸らすことはできなかった。
「手紙は読んで?」
「えっ。あの、その……いいえ」
「そう」
特に驚きも落胆もしないらしい。特に意外にも思わぬということは、玲子は舞の臆病さをよく知っているということかもしれない。舞は玲子の胸のうちをまるで知らないというのに。舞は急に居心地の悪さを感じはじめた。
(玲子さんはどこまで知ってるのかな。司が変わっちゃった原因が玲子さんなら、もしかして玲子さんは……)
「……玲子さんは、この人を知っていますか?」
舞が丸テーブルにノートパソコンを載せて示した画面に、玲子は目を細めた。返事はごく簡潔だった。
「えぇ」
「司の家族はどうして変わってしまったんですか?……ううん、それはもういいの。ひとつだけ教えてください。司を前の司に戻すことはできますか?」
玲子は細めたままの目をゆっくりと舞の方へもたげて、しばらく考え込むような表情をしていたが、やがて言った。
「可能性はゼロではないわ」
「できるってことですか?」
「いいえ、そうも断言できないけれど。言葉通りよ。可能性はゼロではない」
玲子は車椅子の上で居ずまいを正した。
「舞、一人の人間が、経歴から人格まで変わってしまうなんて、かつての私たちには考えられないことだったの。それが現実に起こってしまった。可能性がゼロだと思っていたことが起こった今、その反対のことが――結城司が以前の結城司に戻らないだなんて、誰が断言できて?」
「……私が欲しいのは、そういう答えじゃないんです」
舞は胸のなかに徐々に温かく、そして熱く
「私にその能力があるかということね。あるいは私がその方法を知っているか」
「はい……」
「ならば答えはノーよ。私にはできない。どうすればよいかもわからない」
やはり駄目なのだ。舞はうなだれて太腿の前で細い指をきつく絡め合わせた。もちろん舞だって期待していたわけではなかった。もし仮にそんな方法があるとして、実行したかどうかもわからない。結城司を以前の司に戻す――それはもはや舞にとっては、舞が以前の司を取り戻すことではなかった。ただ司だけが元の明るさと幸せを取り戻せばいいのだ……たとえ舞がその隣にいなくとも。
「舞」
ボルゾイたちと戯れていたはずの奈々たちの歓声が聞こえなくなっていた。部屋の空気が弓弦のように引き絞られて、張りつめている。玲子の声が沈黙をかき鳴らした時、舞はそこに聞き覚えのあるひとつの調べを聞いたような気がして、顔を上げた。
「もし結城司が以前の結城司に戻れば、あなたは幸せになることができて?」
私の幸せ……?
「……わかりません」
「では、貴女はどうすれば幸せになれるのかしら?」
「私は……」
感情とそれ以外の輪郭さえわからなくなってしまった。そもそもなぜこんなことを考えているのだろう。私が幸せになることと、結城君が幸せになることと、どんな関係があるっていうの?そう、私たちの幸せはもう「関係がない」んだから……
『幸せに、なって…………』
舞ははっとした。おぼろげになっていた視界のなかに、こちらをまっすぐに見つめる玲子の姿だけが鮮明に見えた。まるで噴水をはさんで向かい合っていることに気づかずにいたのに、ちょうど水が途絶えたことで、相手の存在をはっきりと認められるようになったみたいだった。その噴水の名はあるいは忘却ともいったかもしれない。
「すざ……」
……けれども、再び水は噴きあがる。
舞のなかにはひとつの感情が確かにそこに存在したのだという
玲子はゆるりと舞から視線を外して、カップのなかの紅茶の波に瞳を預けている。代わりに翼、奈々、ルカの目が心配そうに舞を見つめていた。舞はしたたかに微笑まなければならないことを知った。
「私は……琥珀を倒さなくちゃ」
それから舞はルカの方に向き直って言った。
「ルカさん、作戦はいつなんですか?」
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