14-2 「お別れを言っておきたかったのかな」
「あっ、お母さん?うん……うん……そうなの。だからね、帰りは遅くなるって……えっ、お父さんが?お迎えに?えー……はーい」
携帯電話を切ったあとで、舞は思わずため息をついた。結城家の留守を預かることとなったわけが不服というのではない。もちろん自らすすんで引き受けた役割ではなかったし、空腹とさびしさとの戦いになることも理解してはいたけれど、結局自分がここにいなければならないことはよくわかっていたから。そして、もしそれが結城家のためになるならば、舞にとっては嬉しいのだ。たとえ自己満足だという誹りを免れなかったとしても。
それに、さびしさの方は堪えられる。トビーがいるから。舞は電話の最中から舞の膝の上に乗って舞のカーディガンの裾をチューインガムのように噛んでいる子犬に微笑みかけながらも、
「トビー、お腹すいたんだよね。カーディガンじゃなくてごはんを食べようね」
パピー用ドッグフードの袋とそのそばに置かれた餌皿が、先ほどから舞の視界に映り込んでいた。早くも「ごはん」の一語を覚えたらしいトビーは、舞の膝から飛び降りると、なにか一生懸命甲高い声でしゃべりながら、立ち上がった舞の
舞はしゃがみこんで、子犬が餌をたいらげるのをじっと見つめていた。黙っていると雨音にたちまち取り囲まれてしまうにも関わらず、雨の音はなぜだかどこか遠い。まるでどこか別の世界に降り注ぐ雨の音を聴いているみたいだ。別の世界――たとえば、水底の国だとか。
硝子戸を開いたらそこに桜陵殿の庭が広がっていたりはしないだろうか。舞は思わず目をつぶる。何も見えなければ、感覚と記憶とは舞をたちまち世間知らずの姫君のなかに引き戻してくれそうだった。今よりほんの少し白く脆くやわらかかった小さな体のなかに。
……いや、やはり駄目だった。先ほどまで雨音に紛れていたのに、秒針の音が淡い優しい靄から抜け出してすっと舞の隣に歩み寄ってくる。そして、その秒針の音もまた、別の物音に押しのけられて急に遠のいてしまう。舞ははっと目を開けた。
物音は家の外の、極めて近いところから聞こえたように思われた。何の音とも舞には判断がつかないが、自然の音とも思われない。カタンという音――人の手が触れて何かが動いたというような音だった。司が帰ってきたのだろうか。それとも……舞はごくりと唾を呑んだ。
立ち上がってしばらく待ってみても司が帰ってくる気配はなかった。子犬もすでに空になっているはずの餌皿から顔を上げようとしない。何の音でもないのかもしれない。偶然と気まぐれが奏でた音なのかもしれない。でも、もしかしたらという思いが舞にはある――桜花市内で人々が次々と行方不明になっている事件の犯人かもしれない。今夜は雨夜である。
その時、再び同じ音がして、今度は子犬の方もさっと顔を上げた。小さな耳がぴんと立っている。まちがいなく玄関からだ。舞は小声で「ここで待っててね」と犬に伝えると、抜き足差し足、椅子とテーブルの間を抜ける表紙に、椅子が床を擦る音さえしないように気をつけながら、居間を出て、廊下をそっと歩んでいった。
速まる鼓動さえ聞こえるのではないかと案じつつ、つま先立ちになってドアスコープから外をのぞいてみるが、街灯だけが照らしている世界は小さなのぞき穴からはうまく捉えられそうにない。しかし、じっと目を凝らしているうちに、舞はある程度規則的な、不思議な音がそう遠からぬところから聞こえてくることに気がついた。舞は思わず眉をひそめる。
「足音?」
やはり誰かがいるのだと確信して、舞の鼓動はいよいよ速まった。掌にじっとりとかいている汗を舞はスカートの裾でそっと拭った。
足音はどうやらこの家の前を行ったり来たりしているようである――すなわち、通りすがりの人間ではないということだ。一体何者だろうか。それは果たして人なのか。この家に何の用があるというのだろうか。
いざとなったらいつでも変身できるようにと鈴を取り出しつつ、舞はゆっくりと扉の鍵を回した。慎重に、静かに回したつもりだった。だが、やはりカチャンという音が鳴るのは避けられなかった。
足音が止まった。
舞はこの機を逃すまじとばかりに勢いよく扉を開いた。灰色の闇のなか、結城家の塀の向こうに、ビニール傘の白い突端がのぞいているのが見えた。その光景は今までのひどく切迫した予感からすると、妙に間が抜けているように思われて、舞には拍子抜けだった。ビニール傘?黒や紺の傘ならいかにもという感じがするけれども。
「あの……!」
と、勇気を出して呼びかけるそばから、その脇をなにかが弾丸のようにものすごい勢いで駆けていくのを、舞は感じた。はっとして見遣ると、子犬がきゃんきゃんわめきながら門から玄関へと至る階段を雨に濡れるのもかまわず駆け降りていく。舞は慌ててその後を追った。門の前で捕まえようと思ったのに、子犬は門の下をするりと抜けていく。「嘘でしょ!」と舞は思わず叫んだ。
「トビー!」
トビーを追って門を飛び出した舞は、結城家の塀の前にビニール傘を持ってしゃがみこむ男性の姿を認めた。手に子犬をじゃれつかせつつも男性がおもむろに顔を上げると、舞のなかで水面が波立ちはじめた。街灯の光のなかで目を凝らすこと数秒間、舞は思わず「あっ!」と叫んだ。舞を認めてから明らかに当惑していた男性は、舞の声の大きさにびくりと肩を跳ねさせた。
「結城君の、お父さん……?!」
「君は……?」
いよいよ当惑する男性に、舞は急いで言った。まるで男性が逃げ出そうとするのを必止めようとするかのように。
「おぼえてますか?私、舞です!あの、つ、司君の、幼馴染の……!」
眼鏡の奥から遠くを見るような目つきで舞を見遣った男性は、長い沈黙ののちに、「ああ」と低くつぶやいた。そこに込められた感慨は、舞には聞き取れなかったが。
男性は――否、司の父親は犬を片手に抱きかかえておもむろに立ち上がり、舞の方に傘を差しだした。そして、ふっと微笑んだ。
「たしか司の友達に、同じ病院で生まれた女の子がいた気がする。君がその子なんだね。京野舞ちゃん」
「あっ……」
覚えててくれたんだ。舞の胸がじわりと温かくなる。
「でも、なんで君がここに?」
ただ留守を預かっているだけの身には、いくら司の父親とはいっても、家のなかに人を上げる権利はなかったので、舞は玄関前の軒下に司の父親を招いた。肌寒いことには変わりないが、傘を差し続けている手間を省くことはできたから。
近くで見る司の父親は、舞の記憶より背が高く、おまけに記憶より幾分痩せているように思われた。しかし、やつれた様子はない。むしろ健康そうで、充足しているように見える。シャツは皺だらけ、髪にも寝ぐせがあって、と、身だしなみに無頓着らしいことには舞もやや驚いたが(かつての司の父親はしっかりしていたから)、それも荒んだ印象は決して与えなかった。司の母親の、病に弱った様子を思い出すと、舞はなんだか複雑な気持ちになった。
舞の胸中も知らぬまま、司の父親は落ち着かなさげにそわそわと周囲を見回していたが、やがて自分からこう切り出した。
「ここには司が住んでると思ったんだけど、どうして君がここに?司と、その……司の母親はいないみたいだね。今、どこにいるんだい?」
「司君のお母さんは病院なんです。夕方に急に倒れて、それで救急車で運ばれて。司君も一緒に救急車に乗って病院についていきました。私はただの留守番です」
「そうか。司の母親は重病なのかい?」
司の父親は眉をひそめつつ、深刻になりすぎないように気をつけてるらしいなにげないトーンで尋ねた。それでも胸のなかでうたたねしている子犬の上で、舞の表情は曇った。
「わかりません。最近はよくなっていたんです。今日だって元気そうだったんですけど……」
はたしてどれだけ司の父親に語ってよいものかわからなくなって舞は歯切れが悪くなる。そもそも結城家が今どのような状態にあるのかさえ舞はよく知らないのだ。結城
「あの、司君のお父さんはどうしてここに?」
「いや、なんというか、その……司たちに会うつもりはなかったんだ。ただ、なんとなく、そうだね。お別れを言っておきたかったのかな」
「お別れ……?」
司の父親は、悲しげに微笑んだ。
「舞ちゃんは、僕たちの家のことをどれぐらい知ってるのかな?」
「えっと……その、あんまりよく知らないです。司君とお母さんが京都に帰ってから一緒に住んでないことぐらい……」
ああ、また質問されるじゃない、私。しかし、司の父親には舞の警戒心をするすると解いてしまうようなものがあった。この人はどこかで疲れ、どこかで傷ついていると舞は本能的に察した。
「そうだね……じゃあもう一つ聞いていいかな、舞ちゃん?舞ちゃんは司のことをどう思ってるんだい?」
「ど、どう、って……」
舞は頬がほのかに赤らむのを感じた。けれども、舞を見つめる司の父の表情には、舞をからかうような様子や、舞の反応を面白がっている様子は微塵もない。眼鏡の奥に凝らされた瞳には何か哀切な光さえもがあった。
舞ははっとした。同じ瞳だったのだ――今まではただ記憶だけが目の前の男性と結城司という少年を結びつけていた。すなわち、舞が司の父を司の父と認めたのは、記憶のなかの司の父親の姿と、門の上に現れた姿が重ね合わせられたからであった。しかし今、舞はこちらをじっと見つめている瞳の、あの宵闇の色によって、司と目の前の男性のつながりを改めて知ったのだ。この人は本当に司の父親なのだと。不思議な感じがした。以前の
「私は……」
皮肉という言葉を上手く理解していない舞にさえ、現状の捩じれが与える痛みはまざまざと伝わってきた。舞はその痛みゆえに、うつむかざるを得なかった。なぜなら、こうして離れて暮らしている今の方が、共に暮らしていた以前よりも、司の父親を父親たらしめていたのがわかったからだ。少なくともこの一瞬は。瞳に光る哀切さは、目の前にたたずむ少女に、息子への情愛を強く深く乞うていた。それが
では、この胸にあるのは――?
舞は静かに顔を上げた。
「私は……」
「……………………」
続く言葉を、通りを過ぎゆくオートバイの音が掻き消そうとする。けれども、薄い唇で懸命に紡いだ言葉は司の父親に届いたようだった。「そっか」と微笑みながら言ったことで舞にはそれと知れたのだった。
司の父親はふう、とひとつ溜息をついた。
「舞ちゃん……僕は今度ね、新しい
舞は声なく声を発した。
「この町も出ていくことになったんだ。だから、司にお別れを言おうと思ったんだよ。おかしいとは思ったんだけどね、今までずっと会ってなかったのにお別れだなんてさ。司からすればいまさら父親面するなって話だよね」
うまく答えられない舞は、スラックスのポケットから取り出されたばかりの封筒が、皺くちゃになってぼんやりと白く光って見えるのに、ただ目を吸い寄せられていた。
「僕は、最低の父親だった。いや、父親と言えるのかさえ怪しいものだ。司のことも、司の母親のことも、突き放して、ずっと放りっぱなしだったんだから。そして今もこうして自分ひとりで幸せになろうとして、最後にいい格好だけしようとして、本当に身勝手きわまりない……」
くしゃり、と手紙が雨に紛れそうな音を立てた。
「でも、僕はそれでも伝えたかったんだ。あの子と会った時、伝えなきゃって思ったんだ。僕があの子を……………………」
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