第八話 九頭龍と衣姫
8-1 「まさか九頭龍がよみがえったの?」
いざ来よ少女、
ああ、瑠璃丸さま……!
「おや、ジュースが余ってますねぇ」
宿のロビーに悠然と腰かけ、生徒たちと言葉を交わしていた菅谷先生の笑顔が、パックジュースを詰めた段ボールの上に屈みこんだその拍子に、ふっと途切れた。菅谷先生は定年間近のベテラン国語教師で、みごとな禿げ頭と授業中に突如としてさしはさまれる
「はて、誰がもらっていないのでしょうか」
「だいぶ降ってきましたね、外」
鳥居みちる先生が菅谷先生のそばに寄ってきて言った。背のすらっと高い、ガゼルやインパラといった草食動物をどことなく彷彿とさせる女性の先生で、生徒たちからは親しみをこめて「みちるちゃん」と呼ばれている。菅谷先生も段ボール箱から窓の外へと目をやった。
「もうっ、こんな予報じゃなかったのに。明日は大丈夫ですかね?」
「……鳥居先生、すみませんが女風呂をのぞいてきていただけませんか?」
菅谷先生が立ち上がって言う。鳥居先生はぱちぱちと目をしばたかせた。
「女風呂ですか?もう生徒は全員出たはずですけど……」
「一応ですが確認をお願いします。いえね、何人かジュースを取りに来ていない生徒がいるようなので。まっすぐ部屋に戻っただけならいいのですけれど」
「なら部屋の方も見てきますね。そろそろ就寝準備の時間ですし、ロビーの生徒も部屋に戻しましょうか?」
「そうしましょう」
はい、ではそろそろ九時になりますから部屋に戻りなさいね、ロビーでくつろぐ生徒をみまわして言う菅野先生は、すぐ隣を通り過ぎていった結城と東野を見てふと気づく。そういえば京野と青木の姿がない。それからずいぶん前から佐久間の姿も見ていない気がするが……
「翼が危ないってどういうことなの?!」
煎湖へと続く林のなかを京姫は駆け抜けながら怒鳴るようにして尋ねた。つい語調が強くなるのはなにも篝火に対する警戒心からばかりではない。急な斜面になっている林を乱立する樹々を交わしつつ滑り降りていかなければならないため、かなり神経を使っていたのである。暗闇に紛れる木の幹に何度ぶつかりそうになったことか。一方で、化生の身である篝火は気楽にも常に京姫の斜め前あたりをゆらりゆらりと浮遊して、立ち群れる樹々を巧みに交わしている。小癪にも、進行方向に背を向けて宙にあぐらをかいた姿勢で、篝火はにやっと笑った。
「舞お姉ちゃん……じゃなかった。今は京姫のお姉ちゃんって呼んだほうがいい?でも言いづらいから舞お姉ちゃんでいいや。舞お姉ちゃんはさ、九頭龍の伝説、聞いた?衣姫っていうお姫さまが嫉妬に狂って龍になっちゃったってやつ」
「知ってるけどそれがどうし……」
「あの伝説だと衣姫は湖の底に潜ったんだよね?誰かに倒されたり封印されたりしたわけじゃなくて……だからさ、よみがえることもできるよね?よみがえろうと思えばさ」
篝火の言わんとすることが漠然とだがつかめてきて、京姫ははっとする。その時、白い閃光が目の前に迫り来る大木を照らし出した。姫は慌てて避けた。雷鳴は少し遅れてやってきた。
「まさか九頭龍がよみがえったの?今?」
その通り、とうなずく篝火。
「そっ。厳密に言えばまだよみがえってないけど、もうすぐってところ。よみがえってこの
「じゃあ、翼はそれに気づいたの?それで、ひとりで九頭龍を倒しにいったの?」
食いつくように尋ねる京姫に、篝火は木の枝のあいだをすり抜けて肩をすくめた。
「それはちょっと違うかな。たぶんだけど、九頭龍がよみがえるってことに気づいたの、ボクひとりぐらいなんじゃない?翼お姉ちゃんだって気づいてないよ、きっと。だからこそ、翼お姉ちゃんは九頭龍の
「ニ、エ……?」
聞き慣れない言葉に戸惑う京姫。
「そっ。舞お姉ちゃんも生贄って言葉は知ってるでしょ?贄っていうのは神さまへの捧げもののこと。ボクもその昔は……まあいいや。とにかく、翼お姉ちゃんは九頭龍復活のための贄にされそうってわけ。ねっ、危ないでしょ?」
「そんな!どうして翼が……?!」
龍の唸り声のごとく黒雲が轟く。林を抜け出た京姫の瞳は不安げに空を見上げた拍子に、夜空を駆ける稲妻の線を見た。降りかかる雨はいよいよ激しさを増していく。まるで煎湖に向かう京姫を阻もうとするかのようだ。
実際に京姫の行く手を阻むものがあって、姫は足を止めた。もっとも、それは踏みつけさえすれば、あるいは飛び越えれば、容易に行き過ぎることができるものであった。いや、そんな手間さえ必要ない。ただ、気づきさえしなければよかったのだ。
数歩歩み出したあとで、朽ちかけた落ち葉の降り積もる土の上から、京姫は震える手で見覚えのある袋を拾い上げた。バスタオルや着替えの詰まった袋からはほのかに石鹸のにおいがした。
「……ねぇ、舞お姉ちゃん。神さまっていうのはさ、すっごく強くて怖い存在みたいに思えるよね?でもさ、ほんとうは人間の方がずっと強いんだよ」
篝火はいつのまにやら大きな蓮の葉を取り出してそれを傘がわりに抱えている。びしょ濡れになっている京姫に憐れを催したものか、それとも狐のきまぐれか、篝火は京姫の方につと寄ると、同じ蓮の葉のなかに姫の頭と右肩あたりをおさめてくれた。雨音にかき消されぬようにか、そのまま京姫の耳元で篝火はささやく。
「少なくとも今の時代はね。そりゃあはるか昔はちがったけど。なんで人間の方が強いかって、人間の『信仰』の力がなかったら神さまは生きていけないからだよ。人間に忘れられてしまった神さまはね、だんだんと弱っていって、最後には空気みたいになっちゃうんだ。もちろん、完全に消えちゃうわけじゃないよ。確かに存在はそこにあるんだ。でも、誰かにそれを伝えることはできないし、感じ取ってももらえない。自分の力で動くこともできないから、風に吹かれるままにゆらゆらとさまようだけ。そして、だんだんと、自分でも自分がなんなのかわからなくなっちゃうんだ……だからさ、ほら、神さまは時に人をこわがらせてみたり、人を喜ばせてみたりするんだよ。そうすれば、忘れられることはなくなるからさ」
一体何を語っているのだろう、篝火は。袋を抱きしめ濡れた落ち葉を踏みしめながら京姫は苛々と物思う。湖面に遠く瞳を投げかけると、波立つ闇は意外に近くにたたずんでいた。翼が昨夜、「なんか穴があいているみたい」と言った夜の湖だ。今は灰色の波が絶えず渦巻いているから穴があいているようには見えないけれど――
(翼……!)
「九頭龍だっていっしょだよ。まあ、神さまって言えるかどうかはビミョーなところだけどさ。ふだんから龍明神社で祀られてるからってさ、それだけじゃだめなんだよね。
「さっきから何の話をしてるの?」
京姫は語気も荒く言った。湖の手前では、老婆の白髪のような葦原が風に吹かれてうねっているのが見える。篝火は白い犬歯をちらっと見せて笑い、まあまあと姫をなだめた。
「まあまあ。確かにちょっと話が長くなったけど、ここからちょうど核心に触れるところなんだから……つまりね、九頭龍がよみがえるためにはものすごい九頭龍に対して執着を持った人間が必要だったってこと。そんな人間がどこにいるのかって話だけど、九頭龍はほら、恋愛の神さまでもあるでしょ?龍明神社のお守り見なかった?恋をかなえるために、九頭龍に縋りつく女の人はたくさんいるんだよ。苦しい恋に悩んだ末に湖に身投げした女性もいるしね」
翼、湖、九頭龍の復活、恋、苦しい恋、身投げ……京姫は思わず袋を取り落としかけた。篝火は慌てもせずに「おっと」とおどけるように言って白い尻尾の先に袋の紐を引っかける。ふしぎなことに、篝火が傘にしている蓮の葉は大風にもそよともしない。
「翼は身投げなんてしないもの!」
京姫はキッと篝火の白い顔を睨んだ。翼は恋に狂ってもいない。翼はそんなにやわじゃない――続けたい言葉を、姫は胸のなかだけで叫ぶ。篝火はわざとらしくしゅんとして狐の耳を垂れさがらせた。
「そう怒らないでよ。ボクだって翼お姉ちゃんのこと少しは知ってるもん……もちろん翼お姉ちゃんはすごく強いよ?でも、今の翼お姉ちゃんは恋のことで悩んでるしさ。九頭龍に呼び寄せられたらどうなるか怪しいもんだよ」
「じゃあ、まさか翼は……」
九頭龍に呼び寄せられるまま湖へ向かったの?そして湖に……揺らぐ京姫の瞳を見て、篝火の表情からにやにや笑いが消えた。狐はこくんと小さく、しかし力強くうなずいた。
「……でも、まだ大丈夫。今から急いでいけば間に合うかもしれない。とにかく急ごう」
……これも嘘なのかもしれない、と京姫は思わなくはなかった。篝火の
(騙せるものなら騙してみなさい!)
葦原を見渡しながら、京姫は言った。
(嘘を見抜くのは前世では得意だったんだから。これが嘘だとしたら、今度は絶対見逃してあげない。私を利用するつもりなら、覚悟しなさい篝火!)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます