【書籍化記念SS】クトゥルフ神話TRPG ノベル オレの正気度が低すぎる 番外編
内山靖二郎/アーカム・メンバーズ/DRAGON NOVELS
オレの正気度が低すぎる 番外編
彼は探索者だ。
職業は登山家――という設定。
『クトゥルフ神話TRPG』では、スポーツ選手に分類される。
さっきまで彼の中の人――プレイヤーは、自宅のノートパソコンの前に座っていた。
しかし、いま彼が立っているのは自宅とは違う。暗い森の中。
いや、場所だけでなく、なにもかもが違っていた。
自分の姿形さえも。
彼の目に見える自身の腕は、屈強で丸太のように太い。
胸板は厚く、腹筋も硬い。
視界は元の体より、ずっと高い位置にあった。
彼が作成した探索者のデータによると、この登山家のSTR(筋力)とCON(体力)は人間の能力値の最大に近い。
剛力と頑健さを兼ね備えた、フィジカル無双の人物。
彼はそんな『クトゥルフ神話TRPG』の世界における、プレイヤーキャラクター――探索者となっていたのだ。
それだけではない。
背負ったリュックサックには、あらゆる状況に対応できる道具が満載だった。
救急セット、工具箱、万能ナイフ、ライター、携帯浄水器、雨具、携帯用非常食……彼の探索者を作成するとき、ネットでサバイバルグッズのまとめサイトを調べて、それを見ながら、手当たり次第に所持品として書き込んだものだ。
いまそれらの道具はすべて実体化して、彼に背負われている。
とりあえず、彼はリュックの脇に差し込まれていた懐中電灯を手に取った。いざというときは警棒にもなる頑丈な造り。
明かりと、武器。
その二つを得て、彼はほんのわずかだが心強さを感じた。
これからなにが起きるかわからない。
ならば、背中の荷物は絶対に手放せない。
これが命綱となるはずだからだ。
中の人の体力では持ち上げることも難しそうな大荷物だが、この体であればなんとか運ぶこともできる。
彼は肩に食い込むリュックのベルトをたくましい両手でつかむと、まずは移動しようと思った。
こんな異常な状況だったが、〈正気度〉ロールをさせられなかったのは幸いである。
〈正気度〉ロール――それは人間の正気と狂気をつかさどる、『クトゥルフ神話TRPG』における恐ろしいルール。
そう……『クトゥルフ神話TRPG』とは、ホラーをテーマとしたゲームだ。
このゲームに参加する探索者は、恐ろしい事件に巻き込まれるのが定番の展開。
そして、〈正気度〉ロールによって、探索者自身の精神さえも翻弄される。
いくら懐中電灯を手にしたとはいえ、あたりの闇すべてを照らすことはできない。
森の奥にどんな怪物が潜んでいるかわからない。
ここにいてはいけない。
事件に巻き込まれてはいけない。
急いで、人のいるところに行かないと。一人でいるのは絶対にまずい。
コロコロ……
そのときのしかかってくるような深い闇の中で、妙に軽い音がした。
それは『クトゥルフ神話TRPG』で行動の成否を決定するのに使用されるダイスが転がる音。
続けて、彼の目の前に光り輝く文字が表示された。
【〈追跡〉ロール:成功率50%:出目「42」=成功】
彼の「人がいる場所に行きたい」という考えに、世界のルールが反応したのだ。
この〈追跡〉とは、『クトゥルフ神話TRPG』における技能の一つ。
これに成功することで、人や車などが残した痕跡をたどることができる。
もちろん、中の人にそんな特技はない。自分の探索者がアウトドアで活躍できるよう、〈追跡〉が得意という設定しておいたせいだ。
技能に成功した途端、いままでただの森にしか思えなかった風景が違って見えるようになった。
地面に道筋が見えるのだ。
長年に渡って踏み分けられたような跡。
それは獣道よりもしっかりしており、人の気配を感じさせるものだった。
この変化が技能に成功したことで得られた効果だということに疑いの余地はない。
つまり、この道筋を進めば、人のいる場所に行けるはず。
彼は救われた気分で、急いでその道をたどった。
――そして、見つけたのだった。
森の中に立つ、急角度の切妻屋根を持つ古びた洋館。
二階には明かりが灯っている。
それは誰かがいる証拠。
だがしかし……その洋館を見て、彼は顔を青ざめさせて、こう叫んだ。
「こっ、こんなところにいられるかぁ!!」
彼は知っている。
あの洋館は危険過ぎることを知っている。
なぜなら、この世界に放り込まれる前に読んだからだ。
『クトゥルフ神話TRPG』のプレイヤー募集告知に書いてあったからだ!
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【クトゥルフ】【プレイヤー急募】
シナリオ:闇が潜む森(オリジナル)
日付:今日の九時から
人数:1~4人
備考:継続探索者可。洋館の探索メイン。
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「洋館の探索メイン」――それはつまり、あの洋館がゲームの怪事件の舞台であるということ。
ならば、いますぐ離れなくては。
あの洋館こそが、死地なのだから。
洋館に背を向け、彼は脱兎のごとく駆け出した。
いまの屈強な肉体は、重い荷物を背負っていても疲れることを知らない。
ところが、やがて奇妙なことが起きた。
つま先が地面を蹴らずに、足が空転したのだ。
なんと言うことか……彼の体が浮いている。
何者かに背中の荷物をつかまれて、空中に持ち上げられていく。
すでに両足は完全に地面から離れ、それどころか彼の体は森の木々よりも高さを増していく。
なにもすがれるものもなく、なされるがままに。
だが、彼は頑なに後ろを振り向こうとはしなかった。
自分を持ち上げる、「何者か」の正体を確認しようとはしなかった。
ああ、いやだ! いやだっ! いやだっ!
見たくない! 後ろを見たくない!
〈正気度〉ロールなんてしたくない!!
だから、彼は振り向くことなく、力任せに必死にもがいた。
きっと振り向けば、いまよりも恐ろしい目に遭うはずだから。
すると、不意に彼の体がふわりと宙に舞った。
フィジカル無双の巨体で暴れたせいか。
はたまた、背中の大荷物の重量のせいか。
それはわからない。
ただわかるのは、後ろにいた何者かが、彼の体を空中で手放したということ。
せっかく解放された彼だったが、それはさらなる悲劇を生むだけだった。
落ちていく。
速度を増して、一気に落ちていく。
もはや、どうすることもできない。
すべては自ら招いた結果。
だったら、どうすれば良かった?
どこが悪かった?
なにもわからぬまま、逃げ出そうとしたのがいけなかったのか?
状況を知ろうともせず、闇雲に暴れたのがいけなかったのか?
眼下の暗い森は、みるみる迫ってくる。
彼が死を覚悟したとき、木々の合間に小さな人影が見えた。
ああ、あれは。
たぶん、このゲームに遅れて参加したもう一人の探索者。
たしか十二歳の小学生という設定で、能力値もかなり低かったはず。
よりによって、こんな『クトゥルフ神話TRPG』を冒涜する世界に、小学生で挑まねばならないなんて……
「あの探索者は、もっとうまくやれるだろうか」
それが登山家の最期の言葉となった。
――DEAD END
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