ツクリモノ
笛吹 斗
第1話 朝灼け
朝、飛び上がるように目が覚める。
意識の覚醒につられてようやく五感が仕事を始めると、冷たい汗で張り付くシャツの感触と、口内で粘つく塊の唾液の堪え難い苦味を捉える。
瞼は快活な朝日に灼かれ、早起きな鳥の
快であり不快である世界の朝に、私の体は容赦なく強襲され、軽い混乱を起こす。
あぁ、またあの夢か、と思う。
近頃奇妙な夢を見るのだ。それも一度ではなく、繰り返しだ。
夢の中で、私は歯医者の治療椅子の様な所に座らされていて、知らない天井を見上げている。目の前には博物館でしか見ないような大きな硝子があって、その向こう側では数人の大人達が私を監視している。
「成功です」
「これは失敗です」
一体何についてかは分からないが、そいつらは私を見て口々にそんな事を言う。
察するに、私は何か恐ろしい企ての被験者なのだが、逃げ出そうにも手足は拘束されていて、私は誰かに助けを求めてみっともなく叫び散らす。すると、天井の方から何か物騒な機械の腕が降りてきて、いよいよ殺される、と思うと決まってそこで夢から覚める。
そう、覚めるのだ。
それはいくら見ようとも夢は夢で、次の瞬間には最も現実らしい現実が現れる。
寝て、夢を見て、そしてまた朝が来る。それが必然であり、当然であり、絶対であり、産まれてから死ぬまで、何千、何万と繰り返す、疑いようの無い摂理なのだ。だからこの夢はほんの一夜に見た幻に過ぎず、気に留める余地もないのだ。
鳴り止まないアラームに催促されるので、私は仕方なしにベッドから降りて、卓上の時計を確認した。小さな黒い板は蛍光色の緑で七時半を表示していた。私はそいつの頭に乗った小さなスイッチを指先でほんの一押しして、甲高い連続音を黙らせる。
まだ十分に血の巡らない気怠い体をのそりのそりと動かし、シャツを脱ぎ捨て、清涼感が心地いいワイシャツに袖を通す。昨晩アイロンをかけられたワイシャツにはシワ一つ無く、それだけで今朝の悪夢も報われる。
すると、そんなささやかな喜びもつかの間に、ズボンに足を降ろすと体がよろめいて、いよいよ四十代に差し掛かった自らの老体を省みる事を迫られる。
近頃この体は上手く言う事を聞かなくなりつつある。体の節々にもガタがきている。毎朝私の脳裏に〝老化〟の二文字が現れては具現化し、重くのしかかるのだ。
壁に掛かったジャケットに手を伸ばすと、ふとその横に掛かった新品のトレーニングウェアが目についた。モノクロの衣装に囲まれた部屋で、ライトブルーとライトグリーンのスタイリッシュなデザインが異彩を放っている。軽い運動でもしようという思いつきから数ヶ月程前に安くない資金を投じて購入した物だが、残念ながら未使用だ。ことの預言者であった妻のなじりがいよいよ
私はため息まじりに持ち腐れた宝から目を背けた。それからわざとネクタイを緩めに結び、ジャケットを小脇に抱えて部屋を出ると、ようやく寝坊がちな嗅覚が目覚め、かすかに漂う卵とベーコンの焼ける芳ばしい匂いを嗅ぎつけた。
「おはよう、絵里子」
「おはよう。先に顔洗ってきなさい」
匂いの元でフライパンを握る妻の
絵里子とは大学の研究室で知り合い意気投合し、妊娠をきっかけに結婚した。いわゆるデキ婚で、もうかれこれ十五年になる。結婚十五年目ともなれば日常のやり取りの単純化は当然だろうが、時々淡白が過ぎる気がして、最近では新婚当初の初々しい生活が恋しいく思っている。
私はそんな幸せな寂寥とともに、掃除の行き届いた水回りで一晩溜めた老廃物を排出し、口周りに点々とする胡麻を刈り取る。最後に前髪を持ち上げて生え際の確認を済ませると、再び匂いの元を辿る。
「パパおはよう」
「おはよう、
洗面の間に先に準備を済ませた娘の
今年から高校に上がった一人娘は、まだ少しだけ体に馴染まないブレザーを着て、煩雑に結われた後ろ髪を揺らしながら歯切れの悪いベーコンに必死に噛みついている。
「こら!お行儀が悪い!」
年頃の乙女らしからぬ様相に絵里子が注意をするが、口に咥えた物を離さないあたり、どうやら反省はないようだ。
最近梨香はバスケットボール部に入部したらしく、今日も朝から部活があるのだろう。そしておそらく遅刻気味だ。
「いっへひまーふ!」
梨香はそう言って朝食を無理やり口に押し込むと、玄関の戸を音を立てて閉め、あっという間に行ってしまった。
そんな、ドタバタ、とでも表現すべき娘の後ろ姿を私は複雑な気持ちで横目に追った。
少々がさつだが明朗な性格の娘が、いつ疎ましげに洗濯物を分けたがるようになるのか、年頃の娘の父親としては一抹の不安を覚えている。
絵里子はやれやれという顔でため息混じりに娘の空皿を片付ける。娘の行く先に不安を覚えているのはやはり同じなのだろうか。
私はその間に朝食を済ませ、最後にインスタントコーヒーを熱いうちに飲み干した。別に好みという訳ではないが、ただこの苦味が意識を家の外に無理やり追い出すのだ。そして、それを追いかけるように自らの身体も席を立つ。
「もう行くの?」
「あぁ。今夜はちゃんと早く帰るから」
近頃勤務先は繁忙期を迎え、最近は残業も多い。昇給昇進は有難い限りだが、ラップをかけられた冷飯を電子レンジにかける深夜はどうにも虚しい。だから今日こそは早く帰ろうという決意表明のつもりだったのだが、妻の信用は得られず「はいはい」と適当にあしらわれてしまった。
玄関に到着すると、私は妻に胸元を差し出す。それを見て、妻が私のネクタイをキュッと締め持ち上げる。
「……はい! 頑張って」
「ありがとう」
首元のこの急激な窮屈感がいよいよ最期の気合いを入れてくれる。これは結婚一年目まで続いた〝行ってらっしゃいのチュウ〟に打って変わった日課である。それにしても、今となってはお互い言葉に出すだけで恥ずかしい響きだ。これが歳をとるということなんだろうか。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
妻の手から鞄を受け取ると、玄関の扉を開け、照りつける朝日を横目にそっと閉める。
ふと、我が家を見上げる。あと十年程でローンを完済する、アイボリーの外装と茶褐色の屋根が可愛らしい一軒家だ。娘が産まれた時に購入を決めて、これまでずっと三人で住まってきた。
思わず湧き上がる感慨を玄関先に置き、それを背に家の敷地を出る。
正面から灼きつける朝日に目を細める。
「朝だ」と、反射的に呟く。
何百、あるいは何千も繰り返してきた、これは紛う事なき世界で一番のどかで平凡な朝だった。既婚四十歳会社員男性、
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