021  春に眠る命のかたまりⅤ

「はい! 私が桜の父、菅谷宗次郎すがやそうじろうと言います。美羽さん、今晩どうですか? 私と一緒にお食事でも……」


 どこから持ってきたのか一本のバラを美羽みうさんにプレゼントする親父は、娘の迎えよりもナンパが先らしい。


「菅谷さん、そのお誘いは今度ゆっくりと言うことで……。それよりも娘さんの事についてお話があります」


 さすが、美羽さんだ。


 この病院に通い出してから三ヶ月間、俺の親父から毎回会うたびにこうして相手を傷つけずに爽やかに嫌な顔を一つもせずに断っているのだ。そして、しつこい親父もまた、何度も誘いをするのもどうかと思う。


「分かりました。お誘いはまた今度にします。それで桜の容体はどうなんですか? 目覚めたとは電話でお伺いしましたが……」


 持っていたバラを懐にしまい、そして、話を元に戻す。


「はい。そこに座っています桜さんは現在、記憶喪失です。恐らく、今までの記憶を失っていると思われます。ああ、別に対策が無いとはありませんが……しばらくは通院の繰り返しと、リハビリの日々が続くと思われます。それにいつ記憶自体が回復されるのかも分かりません」


「あ……そうですか。良かった、良かった。命に別条が無ければ俺はそれでいいんです。例え、記憶を無くそうが、俺にとっては生きてくれることが願いですからね」


 ————嘘だ。


 親父は嘘をついている。俺には分かる。目蓋の回数、それに右手で握っていた右太ももがシワになっている。あれ、自分の本心を隠している証拠だ。


 確かに生きて欲しいと思っているのは本当だが、今までの記憶が無くなっていると言われたら誰だった動揺する。俺だったそうだ。でも、あの作り笑いに感情を押さえているところによると、物凄い精神力だ。内心、相当つらいだろう。本当の娘でもないのに、本当の娘として思っている親父は誇らしく思っている。


「親父、桜を車に乗せてやってくれ。くれぐれもいつの感じで優しくな」


 俺は親父の左肩にそっと手を置く。


「で、お前はこれからどうするんだ?」


「俺は薬代や入院費などを受付で済ませないといけないんだよ。親父、こんな細かいことできないだろ? それに昼飯も食べてないからな。自転車に乗って家に帰るよ」


 そう言って病室を出ようとした時、


「あ、あの! 後ろから桜に呼び止められる。わ、私も……ついて行っていいですか?」


 言葉を絞り、勇気を出して俺にそう告げる。


「…………」


 俺は振り返って彼女の目を見る。


 怯えて震え、そして、その真っすぐとした目は今、自分が何者なのか分からない彼女にとっては唯一の救いだ。


「はぁ……。親父、美羽さんと一緒に担当医に会って来てくれ。俺は用児が済んだら桜と一緒にゆっくりと家に戻るからさ……」


「お前がそう言うならそうするが……。しっかりと桜ちゃんを家まで送ってやるんだぞ。じゃあ、美羽さん。俺達は先生の元へと行くとしましょうか? ほら、早く!」


「す、菅谷さん! ちょっ、ちょっと!」


 と、親父はいつもの調子で美羽さんの手を握ってスキップしながら先に病室から姿を消した。

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