殺されたいから殺してほしい

辛口聖希

1

 手に赤黒く染みが付いていた。

 何度ぬぐってもその染みはとれることがなく、むしろ皮膚に伸ばしているのと同じであった。

 トオルは混乱しながらも状況の収拾に努めた。意識は部屋中に飛び散る血に集中しており冷静になるなんて夢のまた夢の話だ。全身に付着した血がまたトオルを混乱させた。

 訳がわからなくなりトオルを頭を抱えて叫んだ。トオルの雄たけびは隣の部屋にさえ、隣の住人にさえ聞こえるほど大きさであり近くで聞けばきっと鼓膜が倒れるに違いない。しまいには、トオルは無我に身体を振り回し始めた。空気を切る音が振り回す身体のアクセントになっていた。

 振り回すうちに体力が無くなりトオルは床に腰を落とした。肩で息しながらカーテンが引かれた薄暗い部屋を見つめていた。呼吸が落ち着いてくれば自然と冷静になった。まるで、小学生が駄々をこねて力尽きたように。

 視線を落としていく、きっとそこには埃が舞った床があるはずだ。トオルは暢気に思った。

 だが、自分の目の前には動物の股にも似た何かが転がっていた。不意に、鼻を隠したくなるほどの臭気が鼻腔を通り過ぎた。顔の半分を覆い隠しトオルは目を凝らしその股の動物の姿を鮮明に見ようとした。ここからでは本当に股が分かれているようにしか見えず、その姿を収めれるには立つしか無かった。

 立てばそれは人間の姿をしている。急に食道から何かが噴き出す感覚に襲われる。何とかこらえることができたが口内から喉の入り口にかけて酸味を感じていた。嘔吐、戻す、吐く。そんな言葉がトオルの頭の中をグルグルと回り始める。トオルは酸味を堪えながらも冷静を保とうとした。

 冷静を保ちながらトオルはそれに顔を近づけた。臭気がより鼻腔を突き刺す。トオルは涙を堪えずには居られなかった。腕により力を入れ顔に食い込ませる。臭気を鼻腔び通さないようにするのではなく呼吸を止めると言った方が良かった。薄っすら闇の中に浮かび上がったのは人間の顔だった。それも、女。

 女、女、女。トオルは息を荒らした。いや、息を荒らしているのに気付いたのは数秒後だった。寒いのか息が白くなっていた。息を吐き出す度、白い息がその顔に当たっているのを感じ取った。

 よく、目を凝らせば見覚えのある顔であった。そうであった?いや、分からない。見覚えがあるにも関わらずその顔のことは全くと言っていい程に覚えていないし知ってもいなかった。しかし、何故か見覚えがあった。どんなルーツがそこにあるのか分からなかった。と同時に血が付着した手が疼くのが分かった。手が自然と震えだす。抑えることも出来ずに。

 突然後ろから音が聞こえた。扉が開くのと同時に床が軋む音に部屋が襲われた。段々と軋む音がこちらに近づいてくる。

 次第に軋む音は小さくなり丁度近くの壁付近で止まった。

 トオルは壁に釘つげになった。蛇が蛙を睨む様、その壁を睨んだ。蛙はじっとその場所でこちらの様子を窺っているように感じた。なら、こちらも窺うのみ。

 そこからしばらくの間、蛇と蛙はお互い息を殺していた。どちらもどちらを視界に収めているのは両者共に認識していたのだった。床が軋む音ひとつせず只、空気が軋ませる音だけが刻み刻み鳴っていた。

 先に動いたのは蛙のほうだった。馬鹿が、蛇は蛙を嘲笑した。

 頭が出てきたそれは女であった。

 一瞬、トオルの思考が停止した。しかし、未だ臭気はトオルの鼻腔をくすぐらした。女は驚愕した表情を顔に浮かべた。女の足は震え始め今にでも顔を引っ込ませ逃げるように怯えていた。否、足はしっかりしていた。

 あまり露出はしていないがトオルの目には綺麗な肌が映っていた。説明するまでもない。よく、小説にみるような艶かしくきめ細かな肌だ。今すぐにでも飛びつきたかった。しかし、今この状況を察すれば自ずと答えは出てくるだろう。

 逃げねば

 それとも、殺すか

 否、殺せない

 殺せる道具が無い

 いや、殴れば、レイプ

 いや、駄目だ

 駄目だ!駄目だ!駄目だ!

 わからないけど、駄目なんだ!

 今は逃げるしかない、逃げるしか、、、

 トオルはそっと身体を起こし、足に力を入れた。今すぐに走り出せるようにトオルはそっと身を屈めた。

 狙うは入り口。きっと、女の後ろにあるに違いない出口を眼光鋭く睨んだ。

 息を殺した。相手の動向を窺った。しかし、女のその足は動くことを知らず身体を動かさなかった。深く言えば、微動にしていなかった。

 トオルはここぞとばかりに身を飛び出せ女の方へと突進した。女は怯えその場で尻餅をついた。

 トオルは女を横切り足音を立てて出口へと向かった。猪のように猪突猛進だった。

 音が鳴り響くほどに強く扉を開けた。開けた拍子に壁に当たり鈍く重く、そしてやかましい音を立てた。もしかしたらこのフロアの住人が顔を出すかも知れない。トオルは焦燥に駆られた。トオルの意図を知らず足は言うことを聞かなかった。

 それでも、無我夢中に足を動かした。バタバタと音を立てて足が重くなっていくことに気が付いていく。それでも、トオルは足を回した。

 気が付けば夜道の中に身を晒していた。裸足でしかも手には赤黒いシミが無数にあるだけ。

 トオルは家路に着こうとした。言うことを聞かない足を強制でも動かし道に足を着けた。


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