勿忘ノ物ノ怪
白木 咲夏
出逢い
昔々、あるところに男がおりました。
男は少々身体の弱い若者でしたが、幼い頃から書物を読みふけることが楽しみで、その頭にはあまたの知恵が詰まっているのでした。
また草花を愛でる心に長けていたゆえ、男は父母亡き後、山の方で薬を作り、花を眺めて暮らしていました。
ある時、男が薬を作っていると、男を訪ねるような女の声がありました。
時おり、男の薬の評判を聞き、こんな山奥にまで訪ねてくる人がいるのです。
男は応えて、声の方に身を向けました。
そこに見えたのは確かに女でしたが、肩に垂れた錦のような髪は、雪のように白いのです。
そしてその顔ばせも絵に描いたように美しく、髪の色に合わず、男と同じような年ごろに見えました。
しばらく、男は女から目を離せないでおりました。
女の不思議そうな声で我に返った男は、慌てて何が入り用かを尋ねます。
ところが女は、男が薬を作っていることを知らぬようでした。
ではどうしてここを訪ねたのかと聞くと、女は、自分は道に迷ってしまったうえ、足をひねってしまった。だからどこか、このあと日が落ちてから昇るまで、休める場所を探していたと話しました。
男は、わずかに答えに迷いました。
いつであったか、ここの辺りでは神様やおきつね様が人に化けるのを面白がった物の怪が、同じようにして人の家を訪ね、厄を置いて帰ってしまうという言い伝えを、母から聞かされていたからです。
けれども、男は女を休ませてやることにしました。
足を気遣いながら家に上げてやると、女は懇ろに礼を言います。
男は威張るような心のない者でしたから、頓着せずともいいのだともの柔らかにまなじりを下げてやりました。
なにぶん男は、薬を作る身です。
自分の力で痛みを軽くしてやりたいと思いましたし、母の言い伝えを信ずるにしても、善いことをしたのならばきっと、きちんと見ていたお天道様が厄など追いやってくださるでしょう。
それに、惑いそうなほど美しいとて、物の怪ではなく、人や神様、おきつね様かもしれないのです。
とかく、女が何者にせよ、情けをかけずにおくのは、何かばちが当たるような気がしたのです。
女に足の手当てをしてやってしばらくすると、雨が地を打つ音が聞こえてきました。
天からのお恵みだと穏やかな心持ちの男に、女は気をもんでいるような調子で、いつ頃やみそうかと聞くのです。
できるなら女を安心させてやりたい男でしたが、神様でない自分には、分からないと答えるほかにないのでした。
雨はその後も降り続き、ついには女が帰るはずの折になっても、ざんざんと屋根に落ちていました。
さすがに約束通り女を帰すわけにはいかないと思った男は、肩を狭めている女に声をかけます。
帰るのは、雨がやんで土が乾くまでではいけないかと聞くと、女はその通りにしたいようでしたが、ことさらに男の手を煩わせはしないかと、気が気でないようでもありました。
男はそれを聞いて、そんなことはないと落ち着きはらった調子で答えましたが、腹の底では仰天していたのです。
なにしろ女は、男が自分にはもったいないと思うほど、惜しむものなど何もないというふうに尽くしてくれていたからでした。
そんなに働かなくてもいいと言っても、女は好きでやっているのだからと笑ってみせるばかり。
男は時として、いつか身を壊さないかと案ずることもありましたが、それでも女といると不思議なことに、花や空を眺めるように、心が穏やかになってゆくのです。
そうして雨がやみ、土が乾いたからと帰り支度をする女に、男はこれからもそばに居てくれないかと頼んだのでした。
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