むりやり探偵と百の愛

エイジ

第1章 むりやり探偵部に入れられて

1-1 変な人

 

――……こわいよー、おとうさん、こわいよー……。わたしを一人にしないで……。こわいよー、おとうさんどこなの……こわいよー……。――

     ※

 一人になるのがずっと怖かった。

 母親が亡くなったのは桃子ももこが幼稚園のときだった。

 幼い頃に目の前で起こることは、今にして思えば奇跡の連続だった。湯気の立つ美味しい食事が、笑顔と共に用意され、何を言っても肯定される。

 おもちゃ。

 お菓子。

 それらは望めばすぐに目の前に現れた。

 記念日が祝われる。

 誕生日だけではなく、「お花」と、自分が初めて発した言葉も記憶され、その言葉を話した日が記念日となり、自分が初めて立って歩いた日も記念日となって家で祝われた。

 桃子は自分のことを、ごく自然にお姫様のような存在だと思った。世界が自分を中心に回っている。

 そのとき桃子は六歳。

 自分がお姫様でも、天使でもないことを冷たい食事が教えてくれた。そこには会話も笑顔もない。

 笑顔なのは絵本の向こうの世界だけ。

 写真の中の、桃子たちだけ。

 あの事故のタイミングがほんの少しずれていたら。母親の運命がほんの少しだけ変わっていたら。今でもそんなことを考えながら生きている。桃子は高校二年生になっていた。

     ※

「さよなら」

 桃子が手を振った。通学鞄を手にして教室を出ようとする。

 クラスメイトの花歩かほが、

「ばいばい」

 と手を振ってくれたが、忙しそうにまばたきをして、不思議そうにこちらを見つめた。

「なに?」

「桃子って何部だっけ?」

 運動部員らしいショートカットの顔を斜めにする花歩。今さら……と、むしろ桃子の方が不思議に思った。いつも真っ直ぐに帰宅している。

「私、部活してないよ。高校に入学してからずっとしてない。しらなかった?」

 もう二年生になる。

 帰りのホームルームが終わり、橋内はしうち高等学校二年三組の教室は喧噪がはじまる。その騒がしい中を、桃子はいつも真っ直ぐに下駄箱を目指し、そして真直ぐに帰宅する。

 教室の時計を見ると午後三時二十五分。

 帰宅を急いでも父親はまだ家にいないはずだが、もしもということもある。

「バイトなの?」

「バイトもしてないよ。お父さん、仕事が不規則だから、夕飯の支度を早くしてあげたくて」

「えらい!」

 花歩はそばかすの頬を丸くした。感心したように何度もうなずく。

「えらいっていうか、しょうがないっていうか」

 しまった……。

 つい、苦労アピールのような家庭の事情を語ってしまった。

 桃子は父親と二人暮らしで、家事は桃子がしなければ仕方がない。でも本当は、父親が世話をかけることを極端に嫌がっていて、なんでも一人でやろうとするためにそれほど忙しくはない。

 父親はクリーニング屋の常連。洗濯物を桃子に任せたくないからだ。

 スーパーのチラシの愛読者で、スーパーごとにある「火曜市」や「ポイント五倍デー」などに異様に詳しく、買い物は父親の役目になっている。家の冷蔵庫などは、隙間があれば即座に壊れてしまうかのような配慮で食材がいつもいっぱいに補充される。夕飯は桃子の役目で、食材を無駄にしないように古いものから使わざるを得ないから、それが悩みだ。

「あ、部活に遅れるから行くね」

 白い手を水平にして、花歩が敬礼の形を作った。桃子もそれを真似て敬礼を返す。花歩は陸上部の部員。練習が辛いから、自然と戦争に行くような気分で敬礼したのだろうか。花歩は三段跳びなどの跳躍系の選手と聞いている。バネの利いたその足で、軽々と廊下を蹴って走り去った。

(運動部員ってかっこいいなあ)

 溜息が出た。

 自分も入るなら運動部がよかった。今からでは遅いだろうか。

 一瞬、陸上部のユニフォーム姿の自分を思い描いてみて、片頬を膨らませて小首をひねり、それをすぐに打ち消した。

 自分は部活には入れない。

 わかってはいるが、部活に急ぐ生徒たちを見て寂しくなった。

(しょうがないし……)

 やれやれ、と思って下駄箱に急ぐ。


 下駄箱に、きらきら光る鍵がいくつもぶらさがっている。また増えたようだ。

 最近、靴への悪戯や盗難が流行っている。

 桃子たち二年生の下駄箱だけではなく、一年生や三年生の下駄箱も荒らされ、教師や事務員が休み時間や放課後に見回りをしているのだが、犯人は神出鬼没で捕まらない。

(犯人は、きっとこの学校の生徒だよ)

 桃子はそう思っていた。

 だから内部事情に詳しくて、教師の見回りなど搔い潜れて捕まらない。

 もしかすると犯人は一人だけかもしれないが、その不届き者のせいで防犯意識を高めるしかないことになり、桃子も自分の下駄箱に鍵を付けた。

(でも、これじゃだめね)

 桃子はがっかりしていた。

 これさえあれば下駄箱には悪戯ができない。

 だが、これでは鍵が邪魔をして下駄箱にラブレターを入れる定番ロマンスが発生しようがない。せめて下駄箱に、ポストのような隙間があれば手紙を入れられるのに。と、そんなことを考えていた。

(……あれ?)

 下駄箱の扉を見て思った。

 扉の端にわずかだが隙間があり、もしかしたら手紙を押し込むことができるかもしれない。

 桃子は鍵の番号を合わせる前に、その隙間に顔を寄せた。三ミリくらいの隙間があり、これならあるいは手紙が――。

「おい!」

 隙間を覗いていたら、大きな声が後ろでした。

 桃子は肩をびくっとさせる。まさか、この声をきっかけに、自分の運命が大きく回転を始めるとは思わない。

 桃子は前かがみで自分の下駄箱の隙間を覗いていたところで、その姿勢のまま肩をすぼめて後ろを見た。鼻に絆創膏を貼った男子生徒が立っていて、眉を吊り上げた怖い顔で睨んでいる。

(えー?)

 と、思った。思わず周りを見てしまう。

 すー、はー、と内心で深呼吸。落ち着こう。

 きっと、鬼ごっこに熱中している通りすがりの男子生徒だ。すぐに知らない人に声をかけてしまったことに気付いて、彼はバツの悪い顔を作ってどこかへ行くだろう。桃子はなにごとも無かったように鍵の番号を合わせる。

「おい!」

 びくっとして、「えー?」と、また思った。

「……なに?」

 これはまさか下駄箱荒らしが、ついに発狂して絡んできたのか。見回りの教師が居ないかと周りを見たが、教師どころか他の生徒もいない。

「ちょっと来てくれ」

 と言われて、

「ふぁひ……」

 と、小さな声で「はい」でも「いいえ」でもない曖昧な返事を桃子はした。

 そして桃子は、くるっと回転して背中を向けた。

 構うと相手をしてくれると誤解される。

 変人を刺激しないように、桃子は静かな行動を心掛けた。舞いを舞うように、ひらひら花びらが落ちるように――。

 鍵を合わせて下駄箱を開ける。

 もともと、一番下の番号をひとつずらしてあるだけだから、すぐに番号を合わせることができた。

「ちょっとまてよ」

 と、男子生徒に言われても、ひたすら無視を決め込む。

 異世界の雄叫びだと思おう。

 自分には関係ないから関わってはいけない。

 静かに上履きを脱いで下駄箱に仕舞い、そして通学用の靴を指にひっかけて持つ。

「おい!」

 と、男子生徒に制服の袖をつままれた。

「おい! どこ行くんだよ! 寝ぼけてんのか!」

 犬が吠えるよに区切って怒声の音量が増した。

 怒声の主は桃子から靴を奪い、仕舞ったばかりの上履きを床に置いた。そして通学用の靴を元の場所に仕舞い、下駄箱の扉を閉めてしまう。鍵を合わせる様子を見ていたのか、彼は元のように番号の一番下の数字をひとつだけずらしてロックの状態にした。

「あ……」

 ずらした数字が元と同じで、番号を覚えられてしまったようだ。もう鍵を交換しなければならない。

「桃子、俺についてこい。頼むから」

「え?」

 桃子は驚いて彼の顔を見つめた。よく見れば、同じクラスのふくゆうだ。なんの用かと思い、念のため彼が手紙を持っていないか見たが、特に何も持ってはいない。彼の制服の一番上のボタンがなぜか赤くて、

(どうしてそんなに目立つボタンを?)

 と、不思議だった。

「憂くん?」

 ――福憂。

 彼とは小学校、中学校、高校とずっと一緒だった。仲が良いわけではぜんぜんないが、小学生の昔から彼を呼ぶときは下の名前で呼んでいた記憶があり、そう呼んでみた。

「ふざけんのは終わりだ。俺と一緒にこい」

「いまから?」

「あたりまえだ」

「言ってること、よくわからないんだけど……」

「こればわかる」

 とにかくすごい剣幕で、湯気が立ちそうな顔をしている。

 彼とは家が近いから通学の道でたびたび見かけているが、幼馴染というほど親しかったわけではなく、今でも友達ではない。最近は口をきいたこともなく、必死に頭の中を検索してメモリー全開で考えてみても、何の因縁もフラグも発生していないと思った。

「ふざけんなよ……。だから、ふざけんなって……」

 なにやら、ぶつぶつ独り言を言いながら歩く憂。

 桃子は首を傾げながら怒り肩の彼について行った。ここで会ったが〇年目……という感じの怒りで、感情のエネルギーを放出して拘束してくる。だが、少しも意味がわからない。

「私、早く家に帰らないとだめなんだけど……。誰かと間違えてるでしょ?」

 絶対に何かを勘違いしている。口もほとんど利いたことがないのに、恨みを買ういわれはない。

「いいから黙ってこい! このバカ!」

 黙ってついてきてたのに怒られた。

「はあ? 私、いかないよ」

 頬を膨らませて桃子は止まった。目に力を込めて抗議の視線を送る。もう、一歩だって動かない。

「ふざけんな! ふざけんな!」

 憂が踵を返して桃子の元に来た。ずんずん彼の真っ赤な顔がアップになり、

「ふざけんな、ふざけんな」

 と、桃子の周りをぐるぐるする。

「な、なんなのよ。私、あなたに恨まれることをした? 用があるなら言ってよ」

「とにかくこい。ぶっとばすぞ、このやろう」

「ぶっとばす……」

 そう言われた女の子が、世の中にどれだけいるだろう。逃げようと思ったが、どうして彼をこんなに怒らせてしまったのか知りたくなった。向かってこようとする憂に、桃子はちょっと後ずさり。両手を胸の前に握りしめて憂の瞳を見つめる。彼の瞳がなぜか潤んでいて、必死の形相。何かを訴えようと、本気の強い意志を持っているのは伝わった。

「わ、わかったから」

 桃子は大きくその場で三回うなずいた。ついて行くから、泣かないで……。

 彼は渡り廊下を渡って階段を上がり、旧校舎三階の理科室に入った。桃子も無言で続く。

「座れ」

 彼に顎でうながされた。横柄な態度。

 しぶしぶ桃子は放課後の理科室の椅子に座った。背もたれのない丸椅子で、座り心地が恐ろしく悪い。

「ここに名前を書け」

 憂は理科室の黒い机の上に一枚の紙を置いた。「ほら」と、ボールペンを転がす。

「謝罪文なの?」

 なにをそんなに怒っているのか……。しかし、紙をよく見たらそうではないようだ。


 ――橋内高等学校探偵部・入部届


 と、ある。

「入部届? なにこれ? 一粒も意味がわからないんですけど」

 鳥取砂丘とかの砂浜をイメージした。だーっと広い砂浜があり、そこに無限の砂粒がある。それぞれの砂粒に意味があるのだが、その一粒の意味すらわからない。

「憂くん」

 桃子は冷たい理科室の椅子に座って憂を上目遣いに見上げた。

「なんだよ」

 腕組みをした怖い顔……。

 相変わらず怒りに染まり、お仁王様のように眉を吊り上げる憂。

 福憂という生徒は、もっとおとなしい生徒だと思っていた。授業中、教師に指名されても、「あ……」とか言い、恥ずかしそうにぼそぼそ下を向いて答える。そういう感じの生徒。だから危害を加えるイメージはぜんぜんなかった。

 ひとつ、彼とのことを思い出した。

 二年生になったこの春、掃除当番で一緒になった。

 そのとき、誰がどの掃除用具を使うのかという話になったのだが、ホウキが一番楽で誰だってホウキを握りたい。だが、憂はなにも言わないから女子たちに雑巾を握らされた。

「これでいい?」

 と、一応は女子に確認されて、

「……うん」

 と、うつむく顔が真っ赤になっていた。

 女子とそれだけの会話で顔を真っ赤にしてしまう。

(ちょっと、かわいかった)

 表情のことだが、彼のおとなしい性格は学校生活を送る上ではやっかいそうで、それを思うと可哀想というか放っておいて大丈夫かしらというか、どう回転して自分がそう思うのかわからなかったのだが、ほんのちょっぴりだけ、彼に対して甘い感情が芽生えた。

 ただ、それも春の新学期が始まった頃のことで、そういうことを桃子は忘れていた。

 その存在を忘れてしまうくらい憂は目立たない生徒で、あれから何カ月もたつのに、ほかの憂とのエピソードが思い出せない。掃除当番のときに彼と口を利いたのは他の女子生徒で、桃子は口を利かなかった。それどころか、「おはよう」とか「さよなら」の挨拶はもちろん、憂とは二年生になってから直接口を利いた記憶がない。小学校と中学校でも何度か同じクラスになったことがあるが、おとなしい生徒という印象しかない。

「なにかを勘違いしてると思うのよ……。よく考えてみて、これは私には関係ないでしょ? だって……」

 私とあなたは赤の他人だから――。

 と言おうとして、それは冷たいと思ってやめた。

「ね? 関係ないからさ。私、帰るね」

「座れ!」

 腰を上げたら、怒鳴った憂に肩を押された。

(こんなに乱暴をする人だったの?)

 桃子は椅子に座り直した。

 理科室の丸椅子は座り心地が悪くて、なんど座り直してもお尻が良いポジションにならない。椅子が冷たいうちに誤解が溶けそうもない。

「こ、こ、に」

 憂はゆっくり三つ、指で紙を叩いた。

「名前を書け。もちろんお前の名前だ。二年三組、夏井なつい桃子。さあ」

「これって入部届でしょ? 書いたら、私は探偵部に入ることになるんじゃない?」

「もちろんそうだ」

「というか探偵部ってなに? そんな部活ってないでしょ」

「探偵部は五日前に誕生した」

「五日前?」

「思うところあって、俺の考えで俺が作った部だ。さあ、早く名前を書け。名前を書いたら今日は帰っていい。予定が詰まってるから早くしろ」

「忙しいの?」

 時間が惜しいのか、憂は桃子を睨みながら理科室の隅に移動した。そこに釣り鐘のようなものがあって、天井から太い鉄の鎖でぶら下がっている。

(忙しかったら、私なんかに構わなければいいのに)

 と思っていると、憂が制服の上着を脱いだ。赤いボクシンググローブを手にはめ、その釣り鐘の前に立つ。

「これは、サンドバッグっていう。ボクシングで使うやつだ」

 聞いてもいないのに憂が答えた。

 そして赤いグローブをはめた手で「ボスッ!」と、そのサンドバッグを叩く。身体を捻って渾身の一撃。右腕を伸ばし、正拳突きの姿勢のままで桃子を見た。

「いいな……。今のはいい……」

 納得したパンチを繰り出せたのか、満足した表情。

「なに?」

「いや、こっちの話だ。いいか、かなり堅いから真剣に叩かないと手首を痛めるぞ」

「え?」

「ボクシング部からお古を貰ったんだ」

「サンドバッグのことなんてどうでもいいんですけど……」

「どうでもよくはない。探偵部員は格闘能力が高くなければならない。お前も時間を見つけてこれを叩け。これから大変になるから」

 ぼす! ぼす!

 と、鈍い音が響きはじめた。一心不乱に憂がサンドバッグを叩く。「予定が詰まってる」とは、トレーニングのことのようだ。サンドバッグの脇には鉄アレイや縄跳びが置いてあり、これらで身体を鍛えている様子だった。

(逃げよう)

 桃子は理科室の入り口を見た。

 ある種のキチガイだと思って彼のことを理解して完結した。これ以上、彼のことを知りたくないし関わりたくない。

「あれ……」

 入り口に、三人の生徒が扉を守るように立っていた。ここは三階で、窓のほうに行っても外には出られない。

「逃げようとすると、その一年生たちがお前をぶっとばす」

「一年生?」

 どうやら、探偵部の部員のようだ。

 女子が二人と男子が一人。

 男子はひょろっと背が高く、女子はオカッパ頭とポニーテール。そうは言っても、強引に割って入れば一年生たちは上級生の自分に何もしてこない気がした。もしも何かされたら、大声で助けを呼んでやればいい。

「やめとけ。みんなもサンドバッグを叩いて訓練してる。ひどい目に遭うぞ」

 桃子の考えを読んだように憂が言った。

(これは、監禁事件……)

 ここでようやく、自分の身にとんでもない災難が起こっていることに気付いた。連れてくるのは誰でもよかったのかもしれない。むりやり部員にして、退部するのに金銭を要求するつもりか。

「ここの署名蘭に名前を書けばいいのね?」

 桃子はペンを取った。

 名前を書けば帰ってもいいようで、帰ってしまえばこっちのもの。

 部屋さえ出れば、この足で職員室に行って彼の罪を訴えることができるし、退部がこじれて、もしも本当にぶっとばされて怪我でもしたら、警察に行くという手もある。

「あ……」

 ペンの先が小刻みに震えている。桃子は震える指先を握りしめた。鼓動が早くなっている。

 いつもそうだ。

 早く家に帰らなければならない。

 不安で不安で、家を出ている間に父親が死んでしまう疑心暗鬼に包まれる。小学六年生のときの担任に、この不安をうちあけたことがあって、そのときの担任は笑ってこう言った。

「――人は、簡単には死なない」

 桃子はそのとき思った。お母さんは死んでしまったではないか……。

 留守にすると、お父さんまで死んでしまう。

 一人ぼっちになってしまう。

 家に帰っても父親は仕事中で、まず家には居ないのだが、早く帰宅することもある。

 もしも自分が家に居ないことで父親の運命が変わってしまったら?

 自分が家に居なければ、父親が再び外出して、どこかで交通事故に遭って死んでしまうかもしれない。いつも自分が家にいれば、父親もいつも家に居てくれるかもしれない。だから、早く家に帰らねばならない。取り返しのつかないことが起こってしまう前に。

「書いたけど」

 そわそわする桃子。

 額に汗を浮かべた憂が近づいてきて、手のグローブを外して桃子から紙を奪うように取った。不機嫌そうに入部届に視線を落とし、署名を確認する。いちいち行動が癪にさわった。

「よし、これでお前は探偵部の部員だ。今日から探偵部の副部長」

「いきなり?」

「ちなみに俺が部長。俺たちを入れて、部員は全部で五人」

「ということは……」

 探偵部の部員は、憂と扉を守る一年生の三人だけらしい。二年生の桃子が入部すれば、いきなり副部長になるようだ。

「うん」

 桃子はなるべく心を読まれないように明るくうなずいた。

「じゃあ私、帰るね」

 笑顔を忘れずに……。口角をむりやり上げた。桃子の破れかぶれの笑顔に気を許したのか、一年生たちの守りが溶けて、扉の前がガラ空きになる。

(走ろう――)

 と思っていると、オカッパの一年生がにこにこ近寄ってきて、

「綺麗な髪ですね、先輩」

 と、いきなり髪を触られた。

 あとから考えたら、桃子を逃がさないためのチームプレイだったのだ。桃子を探偵部にむりやり入れるために、みんなで計画を練っていた。そんな蟻地獄みたいな場所に入ってしまったのなら、容易に開放されるわけがない。

「ひっ?」

「あー、でもちょっと痛んでますね。保湿をもっとしたほうがいいですよ。前髪、切りますか?」

 スカートのポケットから、そのオカッパ一年生がハサミを出した。にこにこしている。桃子は内心で身構えた。彼女の笑顔の意味がわからない。フレンドリーなのか、切り裂き魔の微笑みなのか。

「どうぞ、先輩」

 その一年生がゴミ箱を持ってきて桃子に持たせた。

「ちょっと、うっとうしいですよね」

 桃子の前髪に櫛を通す。

「まあ……」

 前髪がうっとうしいとは思っていた。ちょきちょき音がして、どんどん前髪が切られていってゴミ箱に落ちる。ばさ。ばさ。

「私、家が美容院なんですよ」

「そうなのね……」

 だからなんなのか。高校一年生で美容師の免許は持ってないはずだ。

「こんな感じになりました」

 手鏡をかざして、その切り具合を桃子に見せてくれた。

「あら……」

 上手。自分で切るとパッツンになってしまうが、綺麗に切って貰えた。さっぱりして、光りが顔に当たって明るく見える。

「ありがとう」

 つい、お礼を言ってしまった。

「これを」

「ひゃっ?」

 その子が何かを取り出した。得体の知れない生き物でも出したのかと思い、桃子はびくっとしてしまった。

「スリーピンです」

 髪留めのようだ。

 赤の毛糸で編んだハートマークの飾りが付いていて、それを桃子の耳の少し上に挿し込んだ。そして、髪に付けた様子も手鏡で見せてくれた。

「似合います! 先輩が来るの聞いていたんで、これを用意して待っていたんです。これで私たちと一緒です」

「え――?」

 彼女の髪にスリーピンは付いていなかった。

 桃子が髪を見ていることに気付いたのか、彼女は自分の髪を指さした。そこに赤いヘアピンが幾つか付いている。

「ということは……」

 憂の制服のボタンにひとつだけ赤い物がついていた。

 ボタンが取れて無くなって、間に合わせにお母さんが付けてくれたものかしら……と、ちょっと想像したが違うかもしれない。もう一人の女子生徒はポニーテールに赤いシュシュを付けていて、男子の一年生の胸のポケットに赤いペンが差してある。どうやら、探偵部の部員は赤い物を見えるところに付ける決まりがあるようだ。赤いハートマークのスリーピンを付けて、桃子も仲間入りということらしい。

「そんな感じです」

 スリーピンを挿してくれた子が笑った。

「その子は、水崎みずさき優菜ゆな。一年二組の生徒。おい、ちょっと集まってくれ」

 憂が一年生たちに集合をかけた。

 赤いシュシュの女子生徒が窓ガラスを拭き始めていて、それを切り上げてこちらに来ようとしている。赤いペンを胸に差した一年生の男子は、桃子の髪が切られてゆく様子を横でずっと見ていた。その一年生の男子が、来たというか一歩前に出た。

 窓ガラスを拭いていた女子生徒の顔が険しい。眉を寄せ、何か言いたそうに桃子の足元を覗いた。目の前で、その子の赤いシュシュを付けたポニーテールが揺れた。

「……下に落ちて……ないですよね?」

 ひそひそと小声で言って、桃子が抱えていたゴミ箱を取り上げる。ゴミ箱の中をちらりと覗き、腰を折り曲げて桃子の足元を見つめる。おもわず、桃子は座ったままで両足を揃えて上げた。

「大丈夫……ですね」

 髪が落ちてないか心配してるようだ。

「この子は、もり京華きょうか。一年三組。ここの掃除はほとんど森がやってくれている。汚すと傷付くから気をつけろ」

「そうなの?」

 憂も片付魔に手を焼いているのか、吹き出すように笑った。

 ちょっとだけ桃子は安心した。片付魔にではない。きょう、初めて憂の笑顔を見た。

 一年生は名前を紹介されるたびに、

「よろしくお願いします」

 と、桃子に一礼をした。

 桃子も一応、

「よろしくね」

 と言ってみた。

 だが桃子は、ここには二度と来ない決意だ。なぜなら、ここの人たちは監禁犯だから。ここを出て彼らの罪を教師に訴える。探偵気取りはよそでやって欲しい。人には迷惑をかけないこと。

「あと、こいつは……」

 と、憂が言ったところでポケットに手をつっこんだ。

「ほらよ」

 と、何かを取り出して一年生の男子に渡す。

「どうもっす」

 渡したのはチョコレートのようだ。茶色の包装紙をすぐにやぶり、銀紙を取るのももどかしく、もしゃもしゃ男子生徒が食べ始めた。呆然として見ている桃子に気付き、「食べるっすか」と声をかけられたが、桃子は首を必死に横に振って断った。

「それ、そいつに毎日一枚、渡すことになってるんだよ。そうすれば探偵部に入ってもいいって言うから。こいつの名前は西尾にしお裕矢ゆうや。一年一組の生徒」

「へー」

 そんなことはどうでもいい。

 だが、桃子は大げさに顔を縦に振って、感心したような顔を作った。

 どうでもいいというか、チョコレート。そういう物で人を釣らなければ入って貰えない部なんて、まったく価値がないと思った。

 退部金を取る詐欺ではないようだ。

 退部金なんて知らないが、丁寧に桃子に紹介して、単純に部員が欲しいだけのようだった。

(一年生が三人か……。この子たちも強引に引き込まれたのね)

 そうにちがいない。三年生が居ないのがいい証拠だ。

 憂とは小学生のときから一緒だったから知っている。目立たない少年で、根が臆病なはずだ。二年生でも手におえず、気の弱い一年生だけをむりやり引っ張って自分の手下の様にしている。桃子のことを押せば通る弱い性格だと勘違いして、このようなことになったのだ。

(こんな人だったとは……)

 おとなしいだけの生徒だと思っていた。

「名前を覚えたか?」

 憂が桃子に確認した。責められているような鋭い視線だ。

「えーと……。髪を切ってくれたのが水崎優菜さんで、窓を拭いていたのが森京華さん。チョコレートの好きな西尾裕矢くん。……で、いい?」

 紹介されたのは今だから、さすがに覚えている。

「よし、俺は福憂だ」

「それは知ってるけど……」

「今日から、この五人で探偵部は活動していく。いいな」

「いいけど、どうして私を誘ったの?」

 桃子は引きつる笑顔で憂に聞いた。もちろん、この場だけの返事で、いいわけがない。逃げようとしない桃子に気を許したようで、憂の怒りが消えて穏やかな顔になってきている。

「ここは、元は理科室だ。ここが探偵部の部室。前は調理実習の時間に使われることもあって、調理器具がまだ奥の部屋に置いてある。自由に使っていいぞ」

「調理器具?」

「お前、料理が好きだろ。きょうから料理担当な」

「なにか作ってほしかったの?」

「家に帰っても、いつも誰も居ないだろ? 父親の帰宅時間が心配なら、ちゃんと父親に帰宅時間を聞け。そういうことを聞くのが親子だ。聞くと向こうは喜ぶぞ。親子なら心配するだけじゃなく、もっと会話をしろ」

「え――?」

「過去の嫌なことがまた再現するんじゃないかって、そうお前が怖がっているのは知っている。でも、過去の記憶に引き摺られ過ぎるは、よくないと思うんだよ」

 頭の中が真っ白というか、意味がわからなくてぼんやりとしてしまった。

 憂は近所に住んでいるが、桃子の家庭の事情を知らないはずで、誰かに聞いたとしても、そんなに踏み込んだことまでわかるわけがない。自分の悩みは特殊で誰にも理解できないと思っていたから、友達にも言ったことがない。

「いいか」

 と憂は、理科室の椅子に腰をかける桃子に顔を寄せてきた。すでに椅子から冷たさは消えている。

「こんな箱があるとするだろ」

 憂は手を動かし、五十センチくらいの箱の形を示した。

「箱?」

「例え話だ。この箱にゴムボールを投げ入れる。ボールは弾む。入れる角度と速度を知っていれば、撥ね方が計算できる。計算高ければボールが十回弾んでも、すべてを計算して当たる場所がわかる」

 満足そうに憂がうなずく。

 まったく不十分だと思った。

 それが、桃子の家庭内のことや、悩みを知っている説明になるのか。そもそも憂は、桃子の悩みが箱だとして、その種類もサイズも知らない。ボールの大きさも、速度も、箱の壁の硬さも何も知らない。自分の立場や内面を推し量る材料を持っているとは思えなくて、内心で首をひねった。

「悪かったな。強引に誘わなければ、お前がここに来ることはなかった。ああしなければ、お前は家に帰っていたはずだ。探偵部に入る運命は、怒鳴ってここに連れて来なければ始まらなかった。お前の性格的にさ」

「それで、あんなに怒っていたの? 私にここに来てほしくて?」

「探偵は臨機応変」

 誇らしげに憂が胸を張る。

 不十分。

 そんな説明では納得ができなかった。

(でも、もういいや……)

 不思議には思ったが、ここに自分はもう来ないのだから、それほど気にならない。自分の知らないところで探偵でも探検でも好きなことをやればいいと思った。とにかく早く家に帰りたくて、そわそわするばかり。

「帰ってよし」

 憂が腕を広げて道を開けた。署名すれば帰っていいと言ったのは本当のようで、一年生たちも道をさっと開ける。

(命令しないでよ――)

 という、内心の怒りを桃子は隠した。穏やかな様子を作って立ち上がる。

 明日も出席するように思わせなければならない。

 ここを出てしまえばこっちのもので、だいたい、料理が好きだからって、こんな失礼な人のために作る料理なんかない。

「じゃあ、さよなら」

「明日はオムライスを作ってくれ。材料は用意する」

「はあ?」

 怒りが顔に出そうになった。

 勝手なことを言われてるが、ここを出さえすればもう関係ないから気にしない。

(召使いにするつもりかしら)

 ただ働きのお手伝いさん。

 ちょうど、掃除要員はいるようだし、調理器具がたまたま部屋にあるから、それを利用したいだけだと思った。

「僕はチョコレート味がいいなあ」

 一年生の男子の西尾が、へらへら笑って桃子に言った。

「チョコレート味って、オムライスなの?」

 もしやと思って西尾に確認する。

「うん!」

「ご飯に、ケチャップじゃなくてチョコレートが絡んでるの?」

「うん!」

「そういうの、食べたことがあるの?」

「えーと、えーと……。ないけど、あったらいいなぁって」

「おいしそうね。私も食べてみたい」

 そんなわけはない。

「うん!」

 と、西尾が桃子の適当な言葉に元気に返事を返した。

 ここにはもう来ないから、桃子は調子に乗って顎のヨダレを拭く仕種までした。女子の二人が微妙な笑顔を浮かべている。やり過ぎると、来ないつもりなのがバレてしまう。

「じゃあ私、きょうは帰るね」

 桃子は一年生たちにあかるく手を振った。理科室の入り口に急ぐ。

 憂はサンドバッグの前に戻り、鈍い音をさせ始めている。

 髪を切った優菜が、自分の髪に手グシを通す仕草をして桃子に笑顔を送っている。髪のメンテナンスをちゃんとしてね……。という意味だろう。大きなお世話だと思った。

 さらば、探偵部の四人たち。

 桃子はまた消えぎわに手を振る。

 たくさんのむりやり作った笑顔を残して、桃子は理科室を出ていった。

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