SS1 彼らの日常
♪1 章灯、スマートフォンを買う 1/3
俺もいよいよスマホデビューだな。
そんな決意をするに至ったのは、長年愛用していた折り畳み式の携帯が満を持して――というのか、少々調子が悪くなってきたからである。本格的に壊れてしまう前に手を打たなければ中のデータを移すことが出来ない。こまめにバックアップはとっているものの、周囲のガラケー人口も急激に減り、日の出テレビの局内でもまさにガラパゴス状態だったこともあって、いよいよ自分も後れ馳せながらスマホデビューしてみよう、とその重い重い腰を上げたというわけだった。
とはいえ、何をどうすれば良いのか正直さっぱりである。
まだまだ若者の部類のはずなのに、この分野に関してはもうほとんどシニアレベルと言って良い。いや、スマホをすいすいと使いこなしているシニアも今日日ざらにいるわけだから、どちらかといえば赤子レベルの方が正しいかもしれない。
まぁ、とにかく、だ。
いよいよもって、
満を持して、
自分もあのボタンも何も無いつるつるの画面を指ですいすいなぞる日が来たのだ。
聞いた話によると、ちょっとでも落としたりぶつけたりすると、あの画面はすぐに割れてしまうらしい。
だから、必ず保護フィルムを貼るんですよ、なんて後輩達からアドバイスも受けた。子ども扱いして、と多少憤るところなのだが、こればかりは、「勉強になります」と素直に頭を下げた。
「とうとう
「そうなんだよ。でも正直、何を買ったら良いか……」
そう言って、長年愛用して来た傷だらけの折り畳み携帯を見る。使用年月から考えればまだまだきれいな方だろう。けれども確かに最近は充電もあまり持たなくなって来た。
公私のパートナーである
そうでなくとも晶は普段からあんなわけのわからないボタンやらレバーやらのついた機材を使いこなしているのである。そう考えれば、何のボタンもない、ディスプレイだけのスマホなんて簡単なのかもしれない。
いや、そうだよ。
ボタンも何もないんだからな。
逆に簡単なのかもしれない。
先入観にとらわれるのは良くない。
よし、俺もスマホだ。
そうして、章灯が大型家電店へとやって来たのは、それから3日後、その日の業務を終え、翌日にオフを控えた金曜日のことだった。
「いらっしゃいませ」
三軒茶屋の自宅の近くにある携帯ショップには、実はまだ一度も行ったことがない。いま使っている折り畳み携帯も、仕事の帰りにここで買ったものなのである。だから今回もやって来たのはその大型家電店なのだった。
しかし、それを少々後悔しているのは――、
「おお、噂通りの吸引力……」
気付けばもう1時間、こうして目当てのものとは違うコーナーをついついはしごしてしまっている。吸引力に定評のある掃除機を体験し、マッサージチェアを堪能し、洗濯機もいっそドラム式に……、なんてことまで考えてしまう。
いやいや、そうじゃなくて。
本来の目的を思い出せ、俺。
まぁ確かに、長いこと使っている掃除機だって少々吸引力が落ちてきているし、毎回マッサージに通うくらいならいっそチェアを買ってしまった方が良いかもしれない。ドラム式の洗濯機も新製品が出たとかで、型落ちのものがかなり安くなっている。だからそれらを吟味することは決して悪いことではないのだ。ただ、緊急性が高いのが
逃げているのだ。それはわかっている。どうにもあの携帯ショップ店員のぐいぐいと来る接客が苦手なのである。彼ら彼女らは、何やら小難しい専門用語やらプランやらを次々と並べ立て、あれよあれよという間に契約させようとするのだ。少々警戒すべき部類の人達、というのが章灯の認識なのだった。
けれど、今回の場合は――、
そうだよ、今回は全くの無知なんだから、むしろ向こうから色々話しかけてくれる方が良いのかもしれない。
そう思って上げた顔は、
いや、こんなスマホなんてもう当たり前に使いこなしてそうな年齢の男が、何もわかりません、なんていうのもどうなんだろう。
そんなことが頭をよぎり、再び、かくりと俯く。
と、そこで、とんとん、と後ろから肩を叩かれた。
ぎくり、と全身を強張らせる。
やばい、バレたか、と。
これでも一応彼は全国区のアナウンサーであり、さらに言えば、かなり知名度の高い男子アナウンサーなのである。朝の情報番組のメインMCを務め、クイズ番組やら音楽番組の司会に、ドキュメンタリー番組のナレーションも担当しているし、それに――、
武道館を埋める人気ロックユニットのヴォーカルでもあるのだ。
アイドルや俳優でもあるまいし、ガチガチに変装なんて自意識過剰だろうと彼はいつも自分を見くびっていて、せいぜいアナウンサー時のトレードマークの伊達眼鏡をはずす程度である。何せ数年前の彼ならば、これだけで十分だったからだ。
けれどいまとなってはその眼鏡なしの顔の方が知れ渡ってしまっている。アナウンサーのイメージとはまったくかけ離れた私服姿――多少派手なTシャツと軽くダメージの入ったジーンズ――というのも、ステージ上の彼に近い。
つまり、いまの章灯は完全にロックユニット『ORANGE ROD』のSHOWなのである。スーツに眼鏡ならばアナウンサーとしてバレ、眼鏡をはずして私服になればロックスターとしてバレる。正直八方ふさがりな章灯なのだった。
もういっそ上下ジャージか女装するしかないのかもしれない。
そんなことを考えながら、恐る恐る振り向く。
どうか、あまり大声で騒がないタイプの人でありますように、と。
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