欠陥男

みっくー

第1話

 四十歳になる俺はある重大な欠点を抱えている。きっとそれは人として生きていくうえで、重要なことの一つなのだろう。

 俺は著しく感情が希薄であるのだ。それが欠陥の正体で、特に他人の心のことになるとお手上げだ。何を言われようがどんな表情をされようが、俺にはその人がどんな気持ちで、どんなたくらみを抱えているのか全く察することができず、理解ができない。「それじゃあ人間関係に苦労しただろう」と思うかもしれないが、それすらも感じられずに生きている。

 俺はとんでもない奴だ。

 そんな欠陥男の俺が、今日は過去の記憶に浸っている。柄にもない、こんなことをしてしまう原因はただ一つ。それは二日後に控えている一人娘の結婚式だ。この子とは血の繋がりがあるわけではない。しかし、自分なりの生きる指針である彼女が、明日にはここを出て行く。そうなると、やはりあの日を振り返らずにはいられなかった。

 真冬のベランダに薄着で佇み、タバコに火を点けて高々と噴かす。漂いさまよう紫煙に一瞬、娘の母親の顔が浮きあらわれた気がした。

 「無事、綺麗に育ったぞ。見てんのか?」

呟いた程度の声で、近況報告をした。こうして立派に育ってくれることを心から願っていた唯一の肉親だ。こんな蚊の鳴く声であっても、漏らすことなく掬って歓喜することだろう。

 「もう二十四だぜ。早いよな」

 娘に出会ったあの日。俺が人生の指針を手に入れて、感情無しが初めて覚悟を決めた。俺にとって一番大切な日であり、忘れられない一日譚である。


それは二十四年前の夏の終わりの放課後の話。日付は覚えていない。ただその年は冷夏だったことは鮮明に覚えている。

当時すでにタバコが好きだった俺は、人気のない小さな公園で度々吸っていた。そこは狭い敷地のくせに大きな木が植えられているため、その陰に隠れて吸えばバレることはなかった。

しかしその日は珍しく先客がいた。中にひとつしかないベンチに腰かけていた。

特に俺の目標とすることに支障はなさそうなので目もくれず、そそくさと木の陰に隠れ潜む。タバコに火をつけて、間隔短くプカプカと吸っていると、

 「ちょっと、煙が風に乗ってこっちに来てるんだけど」

 顔をひどく歪めて言うのだった。

 俺とほぼ同じくらいの少女だ。制服を着ている。どこにでもいるような容姿で、またいつか街中等で見かけたら気づけないレベルの平凡さだ。これといって特徴がない。それでも無理矢理記憶に刻もうと頑張るなら、後ろへ大きく垂れた襟の空色を目に焼き付けることぐらいしかできないだろう。顔や身体では到底不可能だ。実際今、詳しく言えと注文されても、容姿系統では何一つとして残っていない。

 「ちょっと何ボーッとしてんのよ、早く消しなさいよ! 赤ちゃんがいるでしょう」

 腕にまだ光を宿してない赤子が抱かれていた。彼女はそれを深く守るようにして身構え、俺に強く言いつけるのだった。

 何故とてつもなく強い悪者に立ち向かうような姿勢をとるのか、俺には何一つとして理解出来ないが、やめて欲しいとのことだから下に落として踏みつけた。消火すると妙な体勢は解かれ、短い息をホッとはいた。

 「あんたさ、背高くてふてぶてしくて、怖い顔してるけど高校生でしょ。その歳からタバコって身体に悪いことこの上ないわよ」

 「まあ、でもいい。別にそんなに生きるということにこだわりはないし、指針もない。早く終わるなら案外楽かもとさえ思っている」

 「そう……」

 もう一本、つい癖で吸おうとすると「赤ちゃんのためにやめて」と今度は少し優しく言われた。

 「妹か?」

 首を振った。

 「正真正銘、私の子よ」

 「名は?」

 「彩日(あやか)よ」

 丸々と太っていてハムみたいだ。生まれたての赤ん坊を見るのは初めてである。

 「あんたも私の生きる指針に触れてみる?」

 進めてくるのを一度は断ったのだが、しつこくされたので抱き方を教わりながら手に治めた。

 「どお? バリバリ生きようとか思った?」

 正直なままに答えた。

 「……まったく感じないな」

 「これだから男は……」と溜息をつき、我が子を再び腕へと戻す。二人の間を行き来したのに、全く起きる気配がない。深く深く寝付いている。

 そうこうしているうちに日が暮れるころだ。残暑が全くない今年のこの時期は、ここから急激に気温が落ちるため、注意を促してやった。

 「帰らなくていいのか。もうすぐ日が暮れて一気に夜が来る。寒くなるぞ」

 きょとんとして返される。

 「帰るってどこに?」

 「子供がいるんだから帰る場所くらいあるだろう? 旦那のところとか、家族のところとか」

 「旦那に当たる人は逃げちゃったんだ。金だけ置いていってね。」

 顔色一つ変えずにハキハキとためらいなく答えてくる。珍しい女だ。

 視界に覗き込むように入ってきて、細い目を少し持ち上げて言った。

「あんた驚いたり、哀れんだりしないのね」

「当然だ。何も感じない俺には他人を評価することなどできん」

「変な人」

 きっとそれはお互いさまである。

 周りは完全に暗くなった。ちょうどここいらが良い引き際だろうと思い、帰ろうしたのだが止められた。

 「この後時間があるなら付きあってよ」

 暇なら腐るほどある。家に帰ったところで何ら楽しいことはない。むしろ逆で、毎日がお通夜みたいな家庭だから帰らないほうが全然ましである。最後に家族と喋ったのは、おそらく小学校二年生の時だろう。

 彼女に連れて行かれたのは駅前の喫茶店であった。他の所でもよく見かけるチェーン店だ。彼女はコーヒーを二杯頼むと、スクールバッグから油性ペンと紙を取り出して何かを書きだした。その際、赤ん坊は俺の腕にいた。感心するほどよく眠っている。

 「何を書いているんだ?」

 答えないどころか、目すらもこちらに向けずに一心不乱に書き込んでいる。店員さんが注文のコーヒーを持ってきてもその姿勢は崩れることはなかった。

 湯気が薄くなり、そろそろ手をつけようかなと思っていたら急に顔が上がった。そしてそれを素早く折りたたみ、よれよれの茶封筒にしまって閉じた。

 「変な人」

出会って間もなく二度も言われた。こんなことは人生初だ。

 「彩日はあんまり他人には懐かないのよ。病院で私以外の人が触れるとすぐ泣いて大変だったわ」

 そんな風には微塵も感じさせない眠りっぷりだ。この子が泣く姿など想像できない。

 「そんなに見つめて、可愛い?」

 「いや、これといって感想はないな」

 「空のコーヒーカップを口へ運ぶくらい見入っているのに?」

 いつの間にか飲み干していたようだ。だが照れ隠しで言ったのではない。本心からそう告げたのだ。こうして手の中で小さく息をする赤ん坊をいくら凝視しても、情が湧いてこないのだ。

 「まあいいわ、もう一つのものんでいいわよ。あんたのだから」

 「お前は飲まなくていいのか」と聞くと、「いいの、私コーヒー飲めないから。元々二つ奢るつもりで頼んだのよ」と返ってきたので、遠慮なく二杯目を流し込んだ。何故二つもくれるのかと疑問には感じるが、他人の心内にはめっぽう弱いので、仮説すらも立てられなかった。

 もう一つも飲み終えると、彼女に子を返した。

 「有難う。長い時間抱いていると手がしびれちゃって。だいぶ休憩になったわ」

 彼女に比べたらほんの一握りしか抱っこしてないが、腕はかなりしびれていた。

 「もう一杯いいの? 奢るよ」

 「いや、いい。もうだいぶ舌が苦い」

 どこもおかしな点なく普通に断ったのだが、変な顔をされた。

 「何か気に障ったか」

 「あんた、疑わないの?」

 「何をだ」

 「ふつう、出会ったばかりの女に奢られたら、何かあるなと構えるでしょ」

 真意がこれっぽっちも読めないが、とりあえずこの女は腹の中で何かをたくらんでいるらしい。

 「何かあるのか」

 こんな意味深な発言と表情を、俺が読み解けるわけがない。

 彼女はにっこりと,「あんた毎日暇でしょ?」と言ってきた。その通りだから頷くと,

 「この子,私と一緒に育ててよ!」

 語尾を上げて,明るく元気に言い切ったところで返事など決まっている。

 「嫌だ」

 「どうしてよ! 女手一つしかもこの歳じゃかなりキツイのよ,だからお願い」

 名も知らん他人の経済状況を知ったところで,感じるものはない。いやおそらく俺は,名を知っていてお世話になったと自覚がある相手でも、同じ申し入れをされたら断るだろう。

 「他の奴を当たったらどうだ。両親,親戚,もしくは路線を変えて収入のある年上の彼氏をつくるとか。明日に絶望しているような高校生に頼る前に方法はあるだろう」

 首を強く強く振って否定された。表情は真顔に戻っていた。

 「私,捨て子だから両親や親戚なんていないわ。年上の彼氏をつくるのは正直論外だわ。運に任せるような選択じゃ困るの。極端な話,今日どうするか明日どうするかの世界なのよ」

 息を深く吸い直す。目にシワが寄り集まる。腫れぼったい一重瞼からは普段放たれないであろう眼差しを向けてくる。

 「この子は日々物凄いスピードで成長してゆくわ。私にとってそれが何よりの宝なの。と言うかむしろ,それ以外には何も要らないと胸を張って言えるわ!」

 真剣さが欠陥持ちの俺にでさえわかる程だった。

 「なあ,餓鬼一人にどうしてそんなに必死になれるんだ。」

 不思議でしょうがなかった。死んだっていいと思っていても,血の繋がりがあると言っても,他人の為に本当に命を捧げることができるだろうか。自分の為に自殺するのはわかる。だが自分以外の人の幸せを願って死ぬというその感覚がわからない。

 「そんなの聞くこと? 至極当たり前のことよ。私の可愛い娘なのよ? 私の生きる指針なのよ? 捨てられて止まっていた時間を動かしてくれた天使なのよ?」

 必死になって同意を求めて来られるが,正直俺にはわからない。その後も産んだときの痛みや感動をつらつらと並べられるが,特に涙を誘われることは無かった。あまりにも顔色を変えないから途中で,「あんた聞いてるの!? 何か感じた!?」と熱い吐息撒き散らしながら詰め寄って来たので,

 「特に」と逸らした。

 「そう……もういいわ」

 頭に上っていた血が一気に冷えた様だ。生き生きしていた声も弱弱しく衰退していった。

 「男なんてそんなもんよね」

 「全員が俺みたいと言うわけじゃないだろう」

 「どいつもこいつも一緒よ」

 視線を大きく下へ外すと長髪が顔をおおう。そうやって沈黙が過ごしやすさを奪う。

 「なあ,もう一度だかせてくれないか」

 無言で渡してくる。その時は目を合わせてくれなかった。

 微妙な重さだ。重いものと言えば嘘になるが,軽いものと言えば尊さに欠ける。どんなに小さくても同じ空気を吸い,共同の社会で生きている。仮に,この無垢な存在を育てる手伝いをしたとして,俺自身はこの子に対して何が出来て何を叱れるのだろう。指針なく進むこの帆船に彼女を乗せて,目の前にいる母親が望むような幸せを与えてやれるのだろうか。感情の欠陥がうつらないだろうか。

 「なに頼りない顔して悩んでるのよ,あんたがこの子の指針になるんじゃなくて,この子があんたの指針になるのよ」

 珍しく悩んだものだから顔に出ていただろうか。迷いの核心を突いてくる。

 「時間は捨てても捨てきれない程ある。だから手伝いをするのはいいと思い始めている。でもやはり不安……なのかもしれない。その赤ん坊に触れれば触れる程に迷ってしまうんだ」

それを聞いた彼女は,「私も今できる最善のことをするから,あんたはあんたなりの出来る限りの支援をしてくれればそれでいいのよ!」

 立ち上がり深々と腰を折る。「それだけでいいの」を連呼してずっと,ずっとしていた。

 「わかった。やるだけの事はやる」

 この言葉を聞くまで,辛抱強く頭を下げ続けていた。

 店を出るともう真っ暗で,時刻はじきに今日を終える。終電が近づいているから,その後は素直に帰路につくこととなった。

 上り方面のホームへ降りようとすると,「あんたもこっちなの? じゃあ抱っこしてよ」と差し出してくるのを自然に抱きかかえてしまう。まだ出会って数時間と言うレベルなのに異様に手に馴染んでしまう。

 「それとこれも持ってて」

 よれよれになった茶封筒を赤ん坊のお腹に乗せた。さっき喫茶店で一生懸命に綴っていたものだ。なにこれと尋ねたのだが,遮られた。

 「タバコちょうだい」

 「駅のホームでは駄目だ。」

 「何言ってんのよ。こんな小さな駅で。しかも,歳で法には触れてるし、いいいでしょ? 経験までに吸ってみたいのよ」

 終電まで,残り二本と言う構内は嫌に静かだ。俺ら以外に誰も居ない,寂しいプラットホームで彼女は初めての喫煙をする。

 「ゲホッゲホッ……不味い!! しかもなんかクラクラする」

 初めてなんてそんなもんだ。それに慣れるとようやく本物のタバコ吸いになれるらしい。俺はとうにそんなものは感じなくなっていた。

 「要らないなら残り吸うぞ」

 いい。ともう一度口にした。

 「離れてて,彩日に煙が掛かっちゃうから」

 二,三歩引いた。どこにでも目にする黒髪を風に遊ばせて,無言で佇んでいた。

 「ねえ,あんた。その子,絶対に立派に育てなさいよ」

 「ああ」

 何故わざわざ繰り返したのかは不明だが,ここであれこれ言う気にもなれなかった。約束してしまったのだから致し方ないと開き直る。

 「その子の晴れ姿,どこの誰よりも楽しみにしてるんだから!」

 闇によく似た彼女の髪が大きく上下に揺れ動いた。それは俺の目前を快速の電車が走り去るのと同時だった。

 「ドンッ」

 それはあまりにも嫌な音で,命が有機物に換わる瞬間だった。そしてすぐに耳障りな金属摩擦音が後を追い,腕の中の赤ん坊が泣く。

 その時,俺は恐ろしく冷静な判断が出来た。と言うより目の前の死体に何一つと思うことが無く,動揺せずにスムーズに行動へ移行できた。今,物となったそれでは無く,幼い姿で泣くこの子の不快感を除去してあげることが最優先だ。しかし,俺ではどうして泣いているのかわからない。

 頭の細胞すべてを使って考えたところ,大いに頼りになる奴が幸いにも近所に住んでいることに気付く。お腹に乗る茶封筒をグチャリと握り締め,子供を守るように深く優しく抱き包んで,ホームの階段を駆けあがる。

 紫煙にやられている肺で,一駅間を全力で走る。とてつもなく胸が痛いのだが,泣き顔が目に入ると足を止めることなど出来なかった。

 甚だしい酸素不足に目の前がチカチカなりながらも目的地に辿り着く。

ここは俺の唯一の友達の家で,名を淡月(あわつき)と言う。築何年ですか? そう問いたくなるこのぼろアパートで一人暮らしをしている。それに一人っ子の俺とは違い,兄弟が何人もいるらしいから,赤ん坊の扱いは慣れているとみた。

インターフォンを鳴らすと目を大きくして,「どうしたこんな時間に,って! その子どうしたんだよ!」

簡潔にあったことを話すと,赤ん坊を引き取って俺に買い物を指示した。

「そこのコンビニで粉ミルクと紙おむつ買ってこい」

速くな,走れよ。と言われたので「もう足がうごかねーよ」と言ったら

「そうじゃないとこの子泣き止まねえよ」と奥へ消えて行った。

百メートル程先のコンビニから注文通りの物を持ち帰ると,期待した通りの手際の良さでおむつを替え,粉ミルクを作って飲ませる。

「腹が減ってたんだな」

「そうみたいだな」

あっという間に一本平らげて,淡月が上手くゲップを出させると,彩日は再び眠りに就いた。一組しかない布団に横にならせた時,既に夜中の二時だった。

「で,辰比古。これからどうすんの」

母親が自殺した今,俺が育てるしかない。一応約束したからな。

「かなり大変だぞ。住む家は? 学校はどうするんだ? 金は? それとお前みたいな感情無しに子供就かせて大丈夫?」

 現実を叩き付けられるが,そこは何とも思わずに淡々と思いついたことを並べる。

 「住む家はここ,学校辞めて働く」

 淡月はもちろん怒る。

 「ここ使わないで自分家使えよ。学校辞めるのは親が許すのかよ。それにお前が仕事行ってる間,誰がこの子見るんだよ」

 「俺の家族自体が感情無しの集まりだから,その環境は彩日に良くないだろう。逆にそんな親共だから俺が何しようと興味ないだろうから心配ない。俺,夜勤で働くからお前と俺で交互に見よう」

 なんてことないこうすれば大丈夫だ。と言うと溜息をついて視線を右斜め上に外した。

 「お前さ,なんで俺が手伝う前提で話進めてんの?」

 「どうせお前も俺も,生きる指針無しで,きっかけが無いと何も決められないダメ人間だろ?」

 呆れているのが俺にでもわかる。そしてさっきよりもかなり深い溜息を溢れさせた。

 「もう勝手にしろ,この感情無し」


 そうしてなんだかんだで今に至る。概要を振り返ると短く感じるが,一日一日を鮮明に思い出そうとすると異様に長くも感じる。

 「辰おとうさん? いつまでタバコ吸ってるの? そんな薄着で風邪ひくよ?」

 後ろから声を掛けて来たのが明後日式をあげる娘だ。

 「ん? あ,ああ……これで最後にする」

 長い黒髪のストレートヘアーは恐らく母親に似ているのだろう。そんな感じの髪質をしていたような気がする。綺麗な二重は恐らく男の方からだろう。その他を見ても全体的に整っているから,彩日は両親の良いとこ取りをしたのだろう。

 まだ煙が出ているというのに窓を閉めようとしないどころか,そこで大きく深呼吸をし始めた。

 「私,タバコの匂い嫌いじゃないよ」

 「やめておけ,身体に響くだけだぞ」

 すると微笑んで,「吸わないよ~でももうこの匂いもしなくなるんだなと思うと寂しくて」

 今日は火が消えるとすぐに手がタバコへとのびてしまう。しかし一箱吸ってしまっていたようで,中にはライターしか入っていなかった。

 「ほら,丁度無くなったんだし淡おとうさんのご飯食べようよ! 今夜はごちそうなんだって」

 あいつがご馳走と騒ぐときは大体大したことはないから期待はしていない。

夕餉を終えた。一息ついた後,また吸いたくなったので買いに出かけようとすると「タバコだろ?」と淡月も付いてきた。

 あの日お世話になった百メートル程先のコンビニに入る。

 「寒いのにどうしてついてきたんだよ」

 買う気もないくせに雑誌を適当に手に取り,パラパラと立ち眺めしていた。

 「旦那の所,電話かけてたからな。それと一番はなんか落ち着かなくてな。自分のことでもないのにこっちまで緊張しちゃって」

 何となく手に取った雑誌が結婚特集のものであって,ドレスの写真が何枚か載っていた。

 「彩日,ドレスにあうだろうな」

 「安心しろ,俺がチョイスしたものだ。似合わないはずがない」

 淡月は母親代わりだった。服選びとか料理とかはみんなこいつがやってくれていた。と言うよりも家の事はほぼこいつにまかせっきりだった。かなりの努力をしていた。彩日のためにファッション雑誌を,料理本を読み込んで、月並みのお母さんが出来るくらいにはなろうと頑張っていた。

 「もういいか?」

 肩を叩き,ここを出る意思を伝えると,眺めていたそれを優しく棚に戻した。

 淡月はまっすぐ家へ帰ろうとするが,おれは「寄るところがある」と右へ逸れた。

 「何処行くんだよ」

 落ち着かない気持ちが足取りを変えさせたのか,付いて来てタバコを求めてくる。こいつは彩日がここに来てから止めていたから,二十四年ぶりの喫煙だ。

 「あんなに吸ったのにもう吐くぐらい不味いな。時が経ったもんだ」

 俺も吸おうとしたら,「そういえばいつものと違くね?」と言われた。そう,わざと変えたのだ。今回俺が買ったのは高校の時吸っていたものだ。彩日と俺らとを結び付けた形見の品だ。

 「なるほどね,行先はあそこか」

 母親が轢死したあの上りホームを目指していた。明日彩日が籍を入れることと,約束を果たしたことの報告をしようと思ったのだ。

 一駅間歩く。沈黙を淡月が破った。

 「なんで自殺しちゃったのかな。俺,もっといい方法あったと思う」

 「まあもっともだな。だが誰よりも娘の事,大切に思ってたぞ。」

 「そうかもしれないけど,これじゃあ近くにいたお前に育児を丸投げしたようにしか思えないよ」

 多分,こいつの言う事は正しいのだろう。出会って数時間と言う男子高校生に我が子を預けて,目の前で飛び込みをしたと言うところだけをとれば,誰がどう見てもそう思う。

 「まあ,でも金は置いてったからな。多分,彩日に貧しい生活をして欲しくないが為の身投げだったんだろうな」

 あの時渡された茶封筒は遺書とキャッシュカード,それと一言メモだった。「保険金と遺産とを娘の為に使って欲しい。これが今できる一番の事だと思うの」と書いてあった。

 「それにしたって死ぬことはないだろうにな。彩日,母親に会いたかっただろうに」

 最もだ。だが彼女が死なないと。今日の俺らはいない。

 終電の近いホームはあまりにも静かで寂しく,俺ら二人以外は誰も居ない。あの時と重なる。だが明らかに違うのは,彩日がここにいないことと,俺が歳をとったと言うことだ。  

タバコに火を付けて,線路の砂利脇に落としてやる。線香の代わりだ。

 「お前にとってこの二十四年間は,周りの人がたくさん死んだ期間だったな」

 実は彩日の母親の他に後二人,この世を去った者たちがいる。俺の両親だ。奴らは俺が学校を辞めて働くから家を出る。と告げたその日に心中した。原因不明とされているが,俺には何となくわかっていた。恐らく二人は「俺がここを出て行くまで育てる」と言う事だけを生きる指針にしていたのだ。それを失った時には二人死のうともう前々から決めて結婚したのだと思う。あくまでも推測にしか過ぎないが,日々お通夜のような雰囲気から察するとそんなところだろうなと思う。

 「お前,微塵も悲しそうにしなかったよな。関係ない俺が少しうるっとしちゃうくらいだったぜ」

 実際一切悲しく等なかった。それは他人の女だろうと自分の両親であろうと。

 「まあ,命が無くなったらそれはもう物だからな。しかも何にも役にたたない置物と一緒だ」

 淡月は頭を抱えて言った。

 「普通そんな不謹慎な考え方しなんだよ。少しは悲しがれ,この感情無し」

 そうしてこいつも,同じように線路へ紫煙を落とした。

 「お前も両親みたいに死ぬのか」

 「そんなつもりはない。一応,結婚と言うのはしてみたい」

 のけ反る様にして驚き、

 「お前が……結婚?」

 あんな両親でも結婚出来たんだ,俺にできないことはないだろうと一応は思ってはいる」

 「俺ら本当に結婚できんのかな?」

自分と俺とを交互に何度も目を行き来させる。

 「さあ,どうだろうな。お前のせいで婚期を逃したからな」

 「お前,女いたことあった??」と聞くと、

返事は返ってこなかった。

俺はこの先も,欠陥を抱えて生きてゆく。たとえ彩日が嫁に行ったとしても,俺は一応父親と言うことになっているのだから、見守る義務があるだろう。婚期を逃しつつあるおっさん二人が結婚できるかどうかは分からないが,俺は取りあえず孫の顔というものが見てみたかった。

人の感情とは難しい。俺には全く理解できないが、彩日を初めて抱えたあの不思議な重さが、俺から離れることはなかった。 

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欠陥男 みっくー @777_777

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