もの思う身は

@Nadja

第1話

 紺碧の大海原に水彩の雲が波打ち、太陽の欠片が机上の上に散乱していた。黒板とチョークが擦れる音が教室に響き、葉音のような喧騒が後ろから漏れていた。

 午後の気怠い陽気の中で柔らかい眠気に包まれて、意識の波打ち際に横たわり、ゆるやかな波が私の身体を浸して引いて、感覚だけが現実に取り残されて、心地良さが間延びしていた。

 しかし突然、ぼんやりとした言葉の影が聴覚を刺激すると、波の反復が突如消え去り、ぼんやりと佇んでいる私を発見する。教室の隅にポツンと座っている自分の実在の重さに気がつく。

「……り……ますか?」

 女性の声が私に向かって投げかけられている。判然としない意識が未だに空中に漂っているせいか、言葉の意味が理解出来ない。なんとなく頷くと、彼女は私の隣に腰を下ろした。すると、桃色の香りが僅かに匂い、それにより、意識に伴って身体が緊張していくのを感じた。

 女性の臭気に縛られてしまった私は、目線を横に遣ることも出来ず、ただ周りを見渡した。

 そこには大勢の学生が席を埋め尽くており、見ていると息が詰まるような感覚に陥り、先ほどの眠気の恍惚へと身を投じたくなるのであった。しかしもう眠気は緊張のせいで消えてしまった、仕方なしに思考への逃亡を試みていた。そしてその思考の端緒は、直前の出来事である隣の女性の発言であった。

 ――さっきはなんと言ったんだろう……。

 ぼんやりと考えていると、感覚の奥深くから、先ほどの言葉が浮き上がっていた。

 ――隣空いていますか、って言ったのか。

 周りの様子と現在の状況を含めると合点がいった。私は謎を解いた優越感からか緊張が瞬間的に解れて、女性の方をちらっと見た。

 長い黒髪が垂れ下がり、横顔を覆い隠していた。黄色いカーディガンを纏い、細い手首が袖から覗いていた。その時、視線を感じたのか、女性は私の方へ顔を向けた、その柔らかな瞳が私の瞳とぶつかり、思わず顔を背けた。僅かな瞬間は私の瞳に烙印を押し、私の身体を更に緊張させたが、そこには感情の高まりが含まれていた。私は彼女の顔を何度も思い起こそうとするも、そこには印象の残滓しかなかった。もう一度見ようと思ったが、そんな勇気はなかった。

 教授の言葉は空気の中で解けて、耳へと伝わることはなかった。


 次の週から、彼女は私の隣を定位置としていた。そのおかげか、私は彼女を盗み見することが出来た。そうして何度も彼女の丸くて可愛らしい鼻や、牡丹色に染まる唇や、眠たげな眼を眺めて、その度に薔薇の棘に刺されたような小さな傷に胸が痛めつけられて、疼いた。

 そしてよく、図書館の本を読んでいることも分かったが、題名までを把握するほど見ることは出来なかった。

 私の瞳は段々と彼女に吸い寄せられて、視界から外れなくなってしまった。

 窓辺の陽光の浴びる白い肌の彼女は、一面の菜の花に咲く一輪草のように思えた。心は幸福感に漂っていたが、苦しみがぼんやりと付着した。その苦しみとは、彼女との接点が存在しないことだった。彼女と私は幾度目が合っただけで、二人の間に言葉はなかった。

 私は彼女に話しかけようと何度も試みたが、劣等感を克服できず、ただ嫌われるのではないかという不安に襲われて何もしなかった。それは毎週彼女に会えるという保証のようなものがあったからかも知れない、そしてこの習慣の中で彼女から話しかけてくれればとひたすら願うばかりであった。そうして考えているうちに、何週も過ぎ去っていった。


 ある時、授業時間の半分が過ぎ去っても、彼女の姿は見えなかった。私はあまりの退屈さに椅子に凭れかかり、脚を限界まで伸ばしていた。彼女の不在は私の心に大きな空白を生んでいた、この授業の存在意義は彼女だけに有ったのだ。しかし彼女が何故いないのか、分かる手段は存在しなかった、そしてこの時ほど、私が彼女といかに関係が希薄かを痛烈に感じることはなかった。私は教室を見渡し、彼女がいないことを確認したあと、授業中の教室を抜け出した。

 大学の構内ですれ違う生徒の中に彼女がいないか、探しながら歩いていた。そして彼女と似ている人を見かける度に心は揺れ動いて、目を伏せてしまい、しっかりと確認することは出来なかった。私は彼女を一目見たかっただけで、会いたくはなかった。会ってしまえば私の心は張り裂けてしまい、恥辱と困惑の螺旋に落ちてしまうと確信していたからであった。

 結局、彼女を見ることが出来ずに大学を抜けると、近くの公園に足を運んだ。

 私は池の隣に佇んでいるベンチに腰掛けた。正午を二時間ほど過ぎた頃だったから、太陽は天頂で燦々と輝き、鬱蒼とした木々を光の剣が差して、地面に透き通るような光の綾が浮かんでいた。池の鏡には青空が映し出されていたが、底は暗く、不気味に光っていた。

 ――私から彼女に話しかけるしかないだろう、それしか私のこの心の虚無を埋める手段は存在しないだろう、虚無は全て彼女の影で埋め尽くされていて、彼女以外を必要としていないのだ。

 温い風に誘われた梢の葉がそよいで、心地の良い音楽が聞こえると、私はひどく寂しい気分に襲われた。それはまるで魂の谷底まで響き、その空虚さを音に乗せて、私の耳に届けたようにも思えた。

 私は手提げ鞄からメモ帳とペンを取り出し、魂の音色を記そうとする。それは彼女への気持ちだった、そしてこの時になってようやく私はこの想いに名前を名付けた。

 ――好き……。

 私は心の中で唱えるだけで頬が紅潮し、熱くなっていくことを感じた。胸の奥まで熱が浸透し、心臓の鼓動の刻みが速度を増していた。得体の知れない、あるいは認識しないように努力していた感情の正体が露わになった途端、溢れて止まらなくなった。

 好きで、好きで、たまらない。

 私の心の中で人知れず咲いた花は絹のような光を浴び、その花弁を色鮮やかに震わせていた。そして茎から伸びる葉は、土を嗅ぐように侘しく垂れていた。

 シジュウカラの鳴き声が公園にこだまする。私はメモ帳を開いたまま、ぼんやりと辺りを眺めていた。すると風に溶けた甘い匂いが仄かに香った。その瞬間、彼女の顔がぼんやりと浮かんで、風と共に去っていた。

 私はハッとして、周りを見渡した。植物の生い茂る場所は、池の奥に小さな花壇のようなものしかなく、今は誰も手をつけていないせいか、様々な花や草が自分勝手に息づいていた。

 私は腰を上げて向かった。途中、池を覗いてみたが水底は見えず、どこまでも深淵が続いているようであった。水の流れはなく、全ての時間が降り積もっているような気がした。

 そしてようやく花壇の目の前まで来ると、思いの外小さかったが、草花は咲き乱れて自然の豊かな臭いを感じた。この中から先ほどの仄かな、甘く桃色の香りの正体を見破ることは難しいように思えた。

 最初に目についたのは、青や紫の色彩を鮮やかに放つ紫陽花であった。鼻を近づけると、青臭い香りがした。

 私は花壇から顔を離し、目をつぶって臭いを嗅いだ。すると、そこには豊かなに色付く様々な臭いの中から、桃色の匂いが香り、彼女の黒い髪がさらさらと光沢を放ちながら空中を流れていく情景が浮かんできた。それは彼女の髪の匂いと同じだった。

 私は目をゆっくりと開けた。太陽が散りばめた宝石が輝いて、視界を純白に染め上げた。私は薄目で眺めていると、段々とはっきりと見え始め、その時に彼女の細い手首のようなジャスミンが一番に目に飛び込んできた。

 私はジャスミンへ顔を近づけその香りを嗅ぐと、彼女の印象と共に彼女に恋する自分の気持ちがまざまざと心の中に映し出された。

 私はメモ帳に彼女へ恋文を綴ろうと思った。それは好きという気持ちの結晶であり、彼女との間を隔てる川に架かる橋でもあった。

 文言が頭の中を飛び交い、様々な形や色に変化し、あるいは消え、現れ、私の感情を表現しようとするものの、構築に至るほどのものはなく、ボロボロに腐ってしまった。私には、好きという言葉以外に見つからなかった。それでも好意が伝わればいいのではないのかと思い、筆を入れようとした時に、そもそも宛名すら書くことが出来ないことに気づいた。

 名前すら知らないという事実が、恋文の重要性を高めて、早く書かなければならないという焦りが生じた。

 その時、ふとジャスミンの匂いが鼻先をくすぐった。彼女の名前の代わりに、ジャスミン薫る乙女と書いた。

 ――もしかして茉莉という名前かもしれないな。

 そう思うと彼女の存在を身近に感じることができた。私はその後に、好きです、と書き加えた。

 私はもう一度、ジャスミンの匂いを嗅いだ。甘く優雅な香りだった。

 帰りしなに何気なく、池を眺めた。太陽が照りつけるせいか水面には光輝の足跡が残されていた。そして端に自分ののろけた表情が浮かんでいた。

 ハッとした。自分の醜悪な外見を見過ごしていたことを思い出し、自分の好意が他者にとって不快になる可能性があるのではないか、という不安が心の大部分を占めた。くだらない、と吐き捨てて、恋文のページを破り、くしゃくしゃにして池に投げ捨てた。紙は水分を吸収して段々と沈んでいき、底の見えない深淵へと吸い込まれていった。


 私は家に帰ると、二十歳の誕生日プレゼントとして叔父から頂いたウイスキーの瓶を戸棚から取り出した。つい一ヶ月前の誕生日に、酒には弱いことが判明していたから、決して飲むことはないだろうと思っていたが、迫ってくる苛立ちと拭いきれない不安を押し殺す手段がなく、どうしようもない時に、自己をぼやけさせるアルコールは途轍もなく魅力的だった。

 私は自信がなかった、彼女に好意を伝えたところで、何が起こるのか。あくまで自己満足に過ぎないのではないだろうか。そもそも私の好意を彼女が知った瞬間、彼女から嫌われてしまうのではないだろうか。この想いは心の奥底に秘めておく方が良いのではないだろうか。でも、それで私は満足なのか。何が正しいのか。

 煩悶の嵐に心が荒んでいく、私は手にしていた瓶を口に着け、傾けて喉に流し込む。火炎が身体に走り、胃の中で暴れている。何かが逆流する兆しに襲われながらも必死で堪えると、頭に靄がかかる。仄かに昂ぶっていく神経をよそに、靄が眠気へと変化していく。

 ベッドに身体を預ける。高揚感を伴いながら、ぼんやりとした意識の底へ埋もれていく。


 草の絨毯の上で仰向けに倒れていた。土と草の匂いが噎せ返るように香り、太陽は未だに顔を僅かに覗かせるばかりだった。虫の音がこだまし、遠くから川のせせらぎが聞こえてきた。星辰が冷たい空気の中を透き通って瞬いていた。

 すると突然、目の前に彼女が現れた。彼女は微笑んでこちらを眺めると、屈んで私を覆うように身体を密着させた。私はあまりの出来事に身体が固まってしまって、言葉も出てこなかった。彼女は私の耳元へ口を近づけた。暖かい吐息がくすぐったく感じた。彼女は優しい声で、私もあなたを愛しているのよ、と囁いた。身体が熱く火照るが、針金で縛られてしまっているみたいに動かない。私は彼女の吐息だけを感じていた。そしてその柔らかい息から、薄紅色の唇を想像し、接吻したいという強い衝動に駆られた。その時、太陽の光が急激に強くなった、眩しくて目を閉じた。


 目を開けると、ベッドの上に独りきりだった。微かに匂う酔いが暗闇の中で香っている。

 ――夢か……。

 僅かに残念に思う気持ちが生まれた。しかし心は途轍もない幸福感に浸っていた。彼女の吐息の余韻が、未だに耳の中で渦巻いていた。

 胸の音が鳴り響いて、その日は眠れなかった。


 次の週、彼女は定位置に座っていた。私は彼女の隣に腰を下ろすと、顔が綻ぶ。先週会えなかっただけで、こんなにも嬉しいだろうか、心の泉に透き通った喜びが湧き上がってきた。目を遣ると、熱心に本をめくっていた。

 ――図書館で借りた本だろうか。

 彼女の纏う薄くて白いカーディガンからしなやかな腕が透けて見えた。彼女の垂れた髪から貝殻のように白く綺麗な小さな耳が覗いていた。

 私はぼんやりと眺めていた。彼女の全てが輝きを放っているように感じ、彼女の美しさに新鮮に驚き、また魅了されていた。

 私はどれほど彼女に恋をしているのだろう、胸が締め付けられる。心の中が甘い香りで満たされていく。

 この想いは伝えなければならない、と強く確信した。そしてメモ帳にもう一度、恋文を書こうと決意した。しかしまた、宛名の前で止まってしまった。ジャスミン薫る乙女は、流石に気障であり、今思うと恥ずかしい言葉であると感じたのだ。

 ――そもそも宛名などいるだろうか、彼女に直接手渡せば、彼女への想いだと伝わるはずだろう。

 私は、言葉を書き連ね始めた。しかし好きという言葉を書くことは出来なかった、最近暑くなってきたということ、私がこの授業であなたの隣に座っている男であること、そんな建前ばかりを並べていたのである。

 公園ではそれ以外書こうとは思わなかったのに、彼女を目の前にすると気後れして言葉にすることは出来なかった、漠然と心に漂う好意が煙のようにうつろうばかりであった。

 ――こんな想いをしたのは初めてだからかもしれない、仕方ない、仕方ない……。

 そう自分に言い訳をして、恋文を書き終えた。

 私はもう一度、彼女に目を移した。すると、こちらを偶然見ており、目が合ってしまった。私は彼女の薄く紅の引いた唇を見た後、すぐさま目線を別の方へ遣った。

 ――目と目で心が通じ合えば、私の想いが、この想いが言葉の制約を受けずにあなたに伝われば、どれだけ嬉しいだろうか。

 私の心は一面の咲き狂う花に満たされており、自身で捉えて伝えることが出来るのは、淡い光に照らされた一輪程度でしかない。もし、彼女がこの光景を眺めてくれたら、この香りに鼻を寄せたら、甘い蜜を舐めてくれたら、私はそれだけで、どれだけ幸せだろうか。

 メモ帳から恋文を静かに切る。

 頭の中で、夢に埋もれた甘い囁きと温い吐息が繰り返し再生されて、私の心は高まり、そうして今さっき見た彼女の唇と合わさって、溢れんばかりの幸福感を生み出していた。

 私の想いに彼女はきっと答えてくれるはずだと思った、彼女も私自身を嫌っているはずがないという考えが夢という不安定な基盤を支えとして、存在していたからである。

 そうして私が妄想に浸っている間に、授業は終わり、学生が椅子を引く音が響き、まばらに立ち去る影が見えた。私は皆から遅れて、帰り支度をしていた。そしてその間に、また彼女に何も出来なかったという後悔と、彼女も自分を想っているという期待が交錯し、来週、手渡せばいいという結論に至った。

 私は恋文をポケットに畳んで丁寧に入れると、教室を後にした。

 外に出ると、鮮やかな日光が降り注いでいた。遠くの空に船の形をした黒みがかった大きな雲が航海していた。世界が眩しく煌めいて、白黄色に染めていた。仄かに汗ばんだ身体を微風が包み込み、心地よく感じた。足取りは軽く、心も軽やかに舞い上がっていた。

 そうして次の授業が行われる教室へ向かう途中、彼女の後ろ姿を見つけて、私は足を止めた。カーディガンが風に揺れてはためき、丸みを帯びた肩に日が反射していた。その姿は神々しさを感じさせるほど美しく、思わず見惚れてしまった。

 彼女は、図書館の中へと入っていった。私は呆然としたまま、眺めていた。そして彼女が視界からいなくなったと気付いた時、付いて行き、恋文を渡そうと自然に考えていた。しかしすぐに行くのは、止した方がいいと思った。自分の好意が行為となって露呈するのは恥ずかしく思えて、もし彼女に気が付かれたら私は駆けて逃げ出してしまう気がした。

 ――私もあなたを愛しているのよ。

 彼女の言葉が耳の中で渦巻いている。

 私は彼女の柔らかく湿った蕾のような唇に接吻する想像を思い描いたが、絵として現れることはなかった。ただ言葉のみで、気持ちが高まるには十分であった。

 こうした思考の間に数分の時間は流れて去っていた。私は大きく息を吐くと、ゆっくりと図書館の中へと入っていった。

 図書館はとても広く、地下二階から地上六階まであり、休み時間なので非常に混んでいた。人の顔は無数に存在し、動き回っているから彼女を探すのは困難であった。私は彼女を追ってすぐに入らなかったことを後悔した。

 仕方なく私は一階の出入り口で張っていようかと思ったが、それだと待っていた印象が強くなり、気色悪いと思われてしまうと考えて、六階から順に下へ見回ることにした。 

 六階までエレベーターで上がると、誰もおらず、電気すら付いていなかった。どこからか漏れる外光が僅かな明かりとなっており、目の前に部屋らしき空間と扉があるのが見えた。ゆっくりとドアノブを捻るが、閉ざされていた。少し歩くと、また同じような扉があった。これも閉ざされていた。角を曲がると電光が漏れており、私は夏の虫のように飛んでいくと、下へと続く階段であった。

 ――ここは入ってはいけないところだったか。

 私は階段をゆっくりと歩みながら、彼女にどうやって恋文を渡すかを考えていた。受け取ってください、と言う。それだけでは不審ではないだろうか。何か言葉を交わすのが普通だろうか。しかし渡した後、俯いてしまう自分しか想像できなかった。

 ――悲観的に考えては駄目だ、彼女に悪い印象を持たれているはず……。

 そう言い聞かせていると、五階に到着した。目の前は書棚で、フランス語で書かれた書物が並んでいた。電気は点いているが、一階の盛況は嘘のように人影は無かった。私はゆっくりと書棚の間を練り歩いた。フランス語の題名は頭の中で翻訳されることなく、入ってきては抜けていった。私は彼女のことで頭も心も充満していて、他の事柄に割く容量はなかった。

 そうしていると、人の声が僅かに耳に入った。私は足を止めた。すると、また囁く声が近くから聞こえた。私は忍び足で、音のした方向へと歩いて行った。書棚の端から、白いカーディガンの裾と、細い手首が覗いていた。

 私は彼女だとすぐに分かった。

 異様な興奮が身体を襲った、こんな広い場所の中から彼女を探し出せるなんて思わなかったのである。そして私は彼女がその優しい声で居場所を教えてくれたと思った。

 ――私もあなたを愛しているのよ、私もあなたを愛しているのよ……。

 夢の囁きが頭の中でリフレインしている。

 抑えきれない想いが突風のように吹いて、何かに導かれるように彼女の隠れている書棚へと向かっていた。

 しかしその時、彼女以外の声色が混ざっていることに気がついた、そしてそれが男の声色であることが身体を震撼させた。心に咲き乱れていた花に霜が降りた気がした。

 私と彼女は書棚を挟んだ位置に居た。本と棚の僅かな隙間から向こう側を見ることが出来たから、少し腰を落として気がつかれないように覗いた。

 彼女の肩にごつい男の手が見えた。私は思わず目を伏せた。心が割れていく音がした。私は考える間も無く、踵を返していた。

「さっき足音がしたわ」

「ほんとかい? それじゃあ六階へ行こうよ」

「嫌よ」

 そんな囁きを背中に感じながら、足早に階段へ向かうと、急いで一階へと降り、外へと出た。

 暗雲が空を覆い、大粒の雨が降っていた。

 私は何事も無かったかのように折り畳み傘を鞄から取り出して、差した。そして次の教室へと向かった。

 私は普段通りに振舞おうと試みた、そうじゃないと自分の心は崩れてしまう気がした。しかし何も身に入らなかった、扉のすぐ近くの窓側の席に座ると倦怠感が身体を襲った。雨の飛沫が窓に叩きつけられ、時折吹く強い風が窓にぶつかって吠えるような音が響いていた。


 授業はいつの間にか終わり、そして雨もいつの間にか止んでいた。

 外に出ると、葡萄酒色をした空が広がっていた。その色彩は胸に染み入るようで、見ていると思考まで全部染めてくれるように思えた。そうして空を見ながら何も考えずに歩いていると、前に恋文を書いた公園に辿り着いていた。

 そして、あの花壇へ向かうと、紫陽花は錆びた鉄のような赤色に変化しており、前のような華麗な色彩を帯びてはいなかった。しかし白いジャスミンは未だに咲き誇っていた。先ほど降った雨が露となって、淡い夕暮れの光を反射していた。雨上がりの匂いに含まれた甘い芳香が心の割れ目に忍び寄り、行き場の失くした恋心を強く刺激した。

 私は何故彼女に恋人がいないと考えていただろうか。そんなこと、容易に想像つくはずではないだろうか。

 彼女の美しい顔が、見知らぬ男の影に呑まれていく。

 ――そもそも私は誰かと結ばれるような人間ではないのだ、何の価値もない人間に過ぎないのだ、誰が私を好きになると勘違いしていただろう、ただの大馬鹿者じゃないか。

 私はジャスミンの花弁を一枚剥くと、ポケットに入れた。その時、ポケットに隠していた恋文の存在に気が付いた。

 ――私もあなたを愛しているのよ。

 彼女の温もりが耳の奥でこもる。

 ――こんなもの、こんなもの……。

 私は鮮やかな黄昏を映している池に、投げつけた。白い紙は紫陽花色に染まった水面を僅かに漂った後、水底の深淵の引力に引かれて消えていった。

 薄明の空が、天高く広がっていた。


 私が家に着く頃には、外は真暗闇に包まれており、家の中も暗闇が侵入していた。私はすぐさま電気をつける。部屋の中が明るく照らされると、なんだか腹立たしく思えた。

 何にも考えたく無かった、全て忘却の河へと投げてしまいたかった。心に僅かでも隙間も作ってしまえば、崩壊してしまうのは分かっていた。そんな時に頼りになるのはアルコールだった、夢の彼方へ逃亡してしまえば良いと思った。

 戸棚の前に行くと、ウイスキーの瓶とグラスを取り出して、氷を入れた。

 僅かに水嵩の減った瓶を傾けると、琥珀色のウイスキーがグラスを満たしていく。氷の割れる音が誰もいない部屋に物悲しく響く。注ぎ終わると、電気を消す。静寂が身体の周りに纏わり付く。しかし暗闇は訪れない、幽かに揺らめく蝋燭の灯火のような、柔らかい月光が窓から零れて、仄かな光が散り砕けていた。

 窓に面した机にグラスを置き、椅子に腰を下ろす。机には佗しい光が生み出す翳が浮き上がっていた。

 大きく溜息をついて、窓に映る絵画のような満月を眺める。満月の周辺を流れ行くちぎれ雲を見ていると、静けさの充満した部屋では時間が凍りついてしまったように感じる。煙のような雲が立ち込めて、満月を隠していく。不透明な光が窓から差し込み、私をぼんやりと照らす。

 もう一度、溜息をつく。その息の中に空虚になった魂の殻が含まれているようであった。空白になった魂を埋めるように、過去の思いが流動する。それは雲よりも儚く、緩やかに流れている。思い疲れて、背もたれに寄りかかる。椅子の軋みが寂たる空間を震わせるように響き渡った。しばしの間、目を瞑る。心に真空の蓋をするために、思考を溶かす。しかし、心は何度も疼く。

 諦めて目を開けると、月を覆っていた雲は流動し、月の円周を囲って幻のように浮いている。満月の光はヴェールを脱ぎ、輝きを増し、頬を照らす。月光に浸された魂は水中花のように解れて、緩やかに開く。佗しい匂いが鼻を震わせる。

 そこにあるのは孤独ばかりだ。

 薄い花弁が剥がれて、夜の底へ落ちていく。透明な静けさがあたりを包み込んでいる。時と時の狭間に埋もれてしまったように感じた。

 月夜をぼんやりと眺めていることに疲れて、机の上に目を遣る。そこにはグラスのウイスキーに満月が映り、残り火のように幽かに閃いている。  

 グラスを手に取り、月光に翳す。そして一気にウイスキーを呷り、満月を飲み干そうとする。喉が焼けていく。思わず途中でグラスを戻す。気管に入ったわけではないのに、むせてしまう。

 アルコールの臭気とウイスキーの臭気が混じり合って、鼻を抜けていく。アルコールによって緊張が緩んで、思い出したように、ポケットからジャスミンの花弁を取り出して、鼻を近付けると、幽かに芳香が残っていた。彼女の顔が浮き上がってくる。頬から一筋の涙が滴り落ちる。それは今まで凍結していた感情が、崩壊していく合図のように作用した。

 私は彼女と何の関係もない人間に過ぎない、悲しむのはおかしいと自分を馬鹿にして、何もなかったように振る舞うことで自分の傷口から目を逸らして、ここまで耐えてきたのに、もう我慢するのは不可能だった。瞼の亀裂から漏れ出した水は、感情までも流していった。

 涙がポロポロと頬を伝っていく。

 私の心は空っぽになっていた、今まで彼女を考えることが生き甲斐と言っても過言では無かったのだ。この強い想いは一体どこにぶつければいいのだろう、居場所のない想いは月夜に呑まれて消えるほど、酒で流せるほど小さいものではないのだ。

 彼女に何故この想いを伝えなかったのか、別に恋人がいようがいるまいが関係ないのではないだろうか。

 そんな後悔しても遅い、もう終わってしまったことなのだ。

 心に咲き乱れた花も、今はもう全てが土に向かって頭を垂れてしまった。悲しみが食い荒らして、哀れな惨状を月光が晒すばかりである。

 悲しくて、悲しくて、たまらない。

 ジャスミンの花弁をグラスの中に入れた。花弁は黄金色の水面を滑ると、月夜の淡い光の吸収して白く輝き、恋文のように沈むことなく、漂い続けていた。

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