第12話気分転換

「うーん……」


 ランスはパレットと絵筆を手にしたまま、十分以上固まっている。作業中は出来るだけ話し掛けないようにしている優だが、さすがに心配になり、おそるおそる声を掛けた。


「ランスさん、どうされたんですか……さっきからずっと止まっちゃってますし……」

「ああ、ユウ……。ちょっと思うことがあってね」

「思うこと?」

「……うん。ちょっとね」

「大丈夫ですか? どこか具合が悪いとか?」


 いつものランスなら、恐ろしい集中力で一心不乱に絵筆を振り回している。ところが、今日のランスは大人しく、いつもの面影がまったく感じられない。

 優の言葉に、ランスは困ったように笑った。


「具合は大丈夫だよ。たまにはこういう日もあるさ」

「そうですか……?」

「心配してくれてありがとう……よし、今日はここまでにしよう!」


 時計を見ると、十四時を回ったところだった。昼の十三時から作業を再開したので、まだ一時間しか経っていない。いつも外が暗くなるまで作業をするランスなのに、こんなことは考えられなかった。


「気分転換に外に出ようか」

「えっ」


 珍しい……という言葉を優は必死に飲み込んだ。

 街の人が言う通り、ランスはほとんどの時間をアトリエに籠っていて、引き籠りみたいなところがある。そんな彼がこんな時間から「外にでよう」なんて言うこと自体が信じられなかった。


「か、買い物ですか?」


 けれど、買い物なら三日前に済ましている。買いだめた食料が冷蔵庫に詰まっているのでその必要は無いはずだ。

 ランスは両手を上に伸ばして骨をぱきりと鳴らした。


「うーん。買い物はこの間行ったし……」

「どこかでお茶しますか?」

「お腹空いてないなあ……」

「ポーンさんの家に遊びに行くとか?」

「彼、仕事中だとうるさいからなあ……」


 うーん、とランスは考える。

 もしかして、と優は思ったことを口にした。


「ランスさん、もしかして気分転換をしたことが無いんじゃないですか?」

「えっ」


 ぽかん、とランスは口を開けて固まった。しばらくそうしていた後、納得した、というように大きく頷いて見せた。


「そうだ。僕、気分転換ってしたことが無いね」

「……息詰まった時とかはどうしてたんですか?」

「新しい絵を描くんだ。そしたら心が休まる」


 本当に職人気質だな、と優は思った。四六時中、絵のことしか考えられないなんて、言葉は悪いがちょっと変わっている。

 優は、少し考えた後、小さな声で提案してみた。


「なら、公園に行ってみるのはどうですか?」

「公園? 何しに?」

「ただ単純に、外の空気を吸いに……ランスさん、ずっとアトリエに籠ってるから……たまには太陽の光を浴びてみるのも良いんじゃないかな、って……」


 言葉を選んで優は言った。その提案に、ランスは手を叩いて乗った。


「いいね。きっと楽しいよ!」

「それじゃ、用意して行きましょう」

「そうだね! ユウ、いいアイデアをありがとう!」


 手を握られ、どきりとする。何回か手は繋いでいるが、まだ優は慣れない。そんな優を「可愛い」と言ってランスは心の底から喜ぶのだ。


「それじゃ、さっそく行こう!」

「はい」


 手を繋いだままアトリエを出た。良い気分転換になると良いな、と優は心の中で願った。


***


 平日の公園は空いていた。看板には「自然公園」とある。

 街中にある大きな広い公園で、遊具の他にもベンチがたくさんあり、木陰で休むにはもってこいだ。

 芝生が敷き詰められたエリアがあり、ランスはベンチでは無くそちらに向かった。優も後を追う。


「良いね。たまにはこういうのも……」


 ランスは、服が汚れるのも構わずに芝生に寝転がった。優は驚いたが、良く見るとこうして休んでいる人がちらほら見られた。


「ユウもおいで? 気持ち良いよ」

「……はい」


 遠慮がちにランスの横に寝転んで、優は空を見上げた。雲一つない青空。太陽は高い場所にあり、こうこうと二人を照らしている。


「晴れていてよかったね。もうすぐ夏が始まるなあ……ユウ、今度夏服を買いに行こうね」

「ありがとうございます」

「ユウは何を着ても似合うからね……ふあ……」


 ランスは欠伸をひとつ零した。日差しが心地いいから仕方が無い。周りの人たちも、居眠っているひとが大半だ。


「ユウ、もっと近くにおいで?」

「えっ?」

「腕枕、したい」


 そう言ってランスは左腕を伸ばした。

 ――ここに頭を置けってこと?

 初めてのことに優は戸惑ったが、ランスとの距離を詰めてゆっくりと頭をランスの腕に乗せた。途端に、くるりとランスが横を向く。一気に距離が縮まり、優の心臓が跳ねた。


「ら、ランスさん、近いです」

「ふふ。なんだかユウを独り占めしたくなっちゃった」

「独り占めって……誰からですか?」

「うーん……太陽とか」


 ランスの右腕が優を包む。抱きしめられている状況に、優は慌てた。


「ランスさん、ここ、外です!」

「恥ずかしい?」

「はい、とても!」

「ふふ。ユウは可愛いなあ……けどね、ユウは僕のものだって見せつけてやりたい」

「誰にですか!?」

「太陽とか……世間……」


 ランスの声がいつもより柔らかい。

 また欠伸を零すと、ランスは優を抱きしめたまま目を瞑った。


「ら、ランスさん……」

「少し、眠らせて……今ね、凄く気分が良いんだ」


 本当に眠いのだろう。少しだけ優を抱きしめる腕の力が緩んだ。今なら抜け出せる。でも――。


「ランスさん、良い気分転換になりましたか?」

「……最高だよ」

「……そうですか」


 優は腕から抜け出すのを止めて、大人しくランスの腕の中におさまっていることにした。これでランスの気が休まるのなら良いか、と思ったのだ。

 ――ランスさん、きっと疲れてるんだ。ずっと絵を描いているから……。

 聞こえてくる穏やかな寝息に、優はちらりとランスを覗き見た。そこには整った顔を無防備にさらす恋人の姿があった。

 ――ランスさん、綺麗だな……。

 その寝顔にどきどきしながら、優も目を閉じた。

 穏やかな午後。太陽の光がとても心地いい。少し日差しはきついが、ランスに遮られてちょうど良い具合のあたたかさだった。

 太陽の代わりに、ランスのぬくもりが優を包む。ランスの心音は穏やかなのに、優の心臓はばくばくと音を立てていた。それを落ち着かせようと、優は瞼に力を入れた。落ち着け、落ち着け……と。すると、徐々に冷静さを取り戻せてきた。やがて、欠伸をひとつ零すと、優はランスに凭れるように体の力を抜いた。


「おやすみなさい、ランスさん……」


 優も夢の世界に旅立っていった。


***


 夢を見た。

 ランスが笑顔で絵を描いている。

 優はその様子を遠くから眺めていた。

 ――誰?

 ランスが描いているのは、優の絵ではない。ぼんやりとしていて良く見えないが、別の肖像画のようだった。

 モデルは女性。白いワンピースが窓から流れてくる風に乗ってゆらゆら揺れている。ランスとその女性は楽しそうに笑い合っている。

 ――俺を描いている時は、お喋りなんかしないのに……。

 その時、モデルの女性と目が合った。あれ? この人は……!


「ユウ」


 ランスが優を呼ぶ。けれど、上手く返事が出来なかった。

 優の目はランスの絵に釘づけになっている。だんだんはっきりと見えてきたそれは……。

 ――っ!

 天使の、絵だった。女性の背中から白い大きな翼が生えた、天使の絵。

 ――何で、ランスさん……。

 天使は俺じゃないの? 優の目から涙が溢れ出る。女性は笑った。にっこりと、幸せそうに。そうして、ゆっくりと優に告げた。


「貴方は天使じゃないわ」


 ――止めて、止めて!

 

「ユウ、ユウ!」


 ランスの声が響く。

 優は目を見開いた。


***


「ユウ、ユウ!」

「……えっ?」


 優は目を覚ました。

 鼓動が早い。何て恐ろしい夢だったのだろう……。

 芝生の上でランスの腕の上に頭を置いていることを確認すると、優は安堵の溜息を吐いた。

 ――怖かった……。

 悪夢だった。優は自分の目元が濡れていることに気付き、シャツの袖で涙を拭った。視線を移せば、心配そうに自分を見つめるランスと目が合った。


「大丈夫かい? 酷く……うなされていたから」

「……大丈夫です。怖い夢、見ちゃって……」


 言いながら優はゆっくりと起き上がった。公園の中央に配置されている大きな時計を見ると午後五時半を指していた。かなり長い間眠ってしまっていたらしい。辺りは夕焼けに染まり、公園に居る人もまばらになっていて、芝生に居るのは優とランスの二人だけだった。


「怖い夢か。どんな夢?」

「えっ」


 まさか、ランスが他の人の絵を――天使の絵を描いていたなんて言えない。そんなことを言ってしまえば、なんて心の狭い奴だと軽蔑されるかもしれない……と優は恐れた。


「ユウ?」


 ランスも起き上がり、座る優に背を並べた。黙ったままの優の顔を覗きこむと、大きな手のひらで震える背中を撫でた。


「大丈夫? そんなに怖い夢だったんだ?」

「はい、その……ランスさんが……」

「僕が?」

「その……う、浮気する夢……です」

「……へっ?」


 二人の間を沈黙が流れた。

 しばらくして、ランスがくすくすと笑い出す。


「そうか、僕が浮気を」

「そ、そうです」


 嘘だ。けれど半分は嘘じゃないと優は思う。だって、ランスにとっての天使は自分だから……そう信じているから。

 ランスはひとしきり笑った後、優の肩を抱き寄せて言った。


「僕は浮気なんかしない」

「……はい」

「そもそも、出来る立場じゃないしね。僕、長続きしなかったんだ。今まで一度も」

「でも、ランスさんモテるでしょう?」


 それを聞いたランスは苦笑した。


「画家として食べていけるようになるまではね、結構モテた」


 それを聞いた優は疑問に思う。普通、売れてからモテるものではないのだろうかと。

 その思いに気付いてか、ランスは言いにくそうに続ける。


「僕の評判を知っているだろう? 家に引き籠って絵ばかり描いてる変わり者だって」

「……それは、まあ……」

「だからね、この街で成功してからぜんぜんモテなくなったよ……好意を寄せてくれても、皆、僕が絵に夢中になるから去っていっちゃうんだ。なかなか理解してもらえなくて」

「そうだったんですか……」

「だから、ユウは特別なんだよ。画家としての僕を見てくれて、好きになってくれた。愛してくれた」

「そんな、大げさですよ」

「そんなこと無いよ。ユウ、そうだ。ユウは僕のものだ……」

「ランスさん……?」


 体勢を変えてランスは優を強く抱きしめた。外でのこういう行為に優はどきどきする。そっとランスの背中に腕を回すと、より強い力で抱きしめ返された。


「ちょっと冷えちゃったね」

「はい……けど、今はあったかいです」

「そうだね。ユウ……今日は外に連れ出してくれてありがとう。良い気分転換になったよ」

「それは良かったです」


 抱擁を解くと、ランスは笑顔で提案した。


「もうこんな時間だし。外で食べて帰ろう」

「はい」

「この前の喫茶店覚えてる? あそこでディナーなんてどうかな? ハンバーグが美味しいよ」

「……えっ」


 優は一瞬だけ表情を曇らせた。しかし、すぐに笑顔を作って言う。


「良いですね。俺、食べてみたいです」

「それじゃあ、行こう」


 ランスは立ち上がり、優の手を取った。優は引っ張られるように腰を上げる。お互いに背中をはらって泥や葉っぱを落としてから手を繋いで公園を後にした。

 ここから喫茶店まで歩いて数分。決して長くない道のりだが、優はとても長く感じられた。何故なら、夢に出て来た女性は――新しい天使のモデルだった人物は、あの喫茶店のウエイトレスだったからだ。

 優はもやもやする心を抱えながら、ぎゅっとランスと繋いだ手に力を入れた。

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