4-2 慣れの問題……なのか?
「お茶の準備が整うまで、セバスチャンにおやつを差し上げていてくださいますか」
差し出されたおやつのパッケージを受け取ろうとした、が。
「あっ」
手が触れただけで掴み損ねて落としてしまう。
「なにをやっているのですか」
あきれたように小さくため息をつき、松岡くんが拾うのをただ黙って見ていた。
セバスチャンはさっきから大好物のおやつの登場で、にゃーにゃーとうるさい。
松岡くんから手を取られ……つい引っ込めていた。
「どうかしたのですか?」
松岡くんは怪訝そうというよりも、理由がわかっていてからかうように口もとが笑っている。
「はい、今度は落とさないでくださいね」
逃げられないように強く手が握られ、その上におやつがのせられた。
「……うん」
封を切ろうとおやつのパッケージを握った手は指先まで赤い。
セバスチャンから盛んに足をタッチされて早く開けなきゃ、とは思うものの何度やってもうまくいかなかった。
「なにをやっているのですか」
小さく松岡くんの口からはぁっとあきれたようにため息が落ちる。
「ほら」
後ろから包み込むように立ち、両手に彼の手が添えられた。
私の手を上から押さえて封を切り、手を離す。
「……さっきから紅夏、めちゃくちゃ可愛くて我慢できなくなるんだけど」
ちゅっと、露わになっている耳の後ろに口付けを落として松岡くんが離れた。
途端にがくんと膝から力が抜ける。
「おっと!」
倒れそうになった私を、慌てて松岡くんが支えてくれた。
「あ、ありが……と」
見上げると、じっとレンズの奥から彼が見ている。
「先ほどから私の、忍耐を試しておられるのですか」
「え……」
わけがわからない私の顔へ、松岡くんの顔が近づいてくる。
思わず目を閉じた……ものの。
「いまはこれで、我慢しておきますよ」
頬に口付けを落とし、松岡くんは私を座らせた。
「早くセバスチャンにおやつを差し上げてください。
先ほどからもう、待ちかねています」
「にゃーっ!」
私が完全に差し出すのを待たずに、セバスチャンは膝の上に前足をついておやつをぺろぺろしはじめた。
……ほ、頬にちゅーとか。
思いだすとまた、ぼふっと身体が一気に熱くなる。
もうとっくに成人を超えた人間の反応としてはおかしいのはわかっているが、こっちはいまだにキスだってまだなのだ。
慣れろっていう方が無理。
……いまの段階でこれだなんて、本当の彼氏とだったらどうなるんだろ?
想像するとちょっと怖い。
松岡くんはエッチはしないと約束してくれた。
それどころか。
「唇へのキスはいたしません。
ファーストキスは本当に好きな人のために取っておきたいでしょう?」
「う、うん……」
微妙な心遣いが嬉しいような悲しいような。
……ん?
どうして悲しい?
意味がわからん。
こっちとしては助かるのに。
「もっとも。
……紅夏の方から俺の唇にキスしてくれるっていうなら話が別だがな」
耳もとで囁かれ、背筋がゾクゾクする。
執事モードなのにこうやって囁くときだけ、オフモードでくるのは反則だ。
そのギャップで腰砕けになりそうになる。
そういうわけで松岡くんから私へ、唇へのキスはない。
「……夏。
紅夏!」
「え?」
呼ばれてのろのろと顔を上げると、松岡くんははぁっと本日何度目かのため息をついた。
「なにをやっているのですか」
「なにってセバスチャンに……あ」
おやつのパッケージはすでに空になり、セバスチャンは少し離れたところで毛繕いをしていた。
「あー、うん。
ごめん。
手、洗ってくるね」
「ではお茶を淹れ直しておきます」
台所へ向かう松岡くんを尻目に、洗面所へ行って手を洗う。
「慣れるしかないんだよね……」
はぁーっと重いため息をつき、顔を上げる。
その割に鏡に映る私はあきらかに、恋する乙女の顔をしていた。
……別に松岡くんなんて好きじゃないけど。
でも、あんなことされたらこうなるよね。
苦笑いで手を拭いて、茶の間に戻る。
ちゃぶ台の上にはアフタヌーンティの用意が調っていた。
「どうぞ」
紅茶の注がれたカップを黙って口に運ぶ。
いつもはダージリンなのに、今日は香りが違う。
「……これ」
「本日のケーキに合わせてアップルティにしてみました」
林檎の優しい香りで、気持ちが落ち着く。
……もしかして、そんなことまで計算しているのかな。
そうかもしれないし、違うかもしれない。
でも、そう思うと嬉しくなった。
今日は玉子サンドとスコーン、それに林檎のタルト。
サンドイッチはキュウリサンドが正式だけど、毎回だと飽きるからって少しずつ変えてきてくれた。
スコーンだってプレーンだったりチョコチップが入っていたりとバリエーションがある。
「おいしい」
「光栄でございます」
松岡くんがお代わりのお茶を注いでくれる。
アフタヌーンティと料理が目的で、掃除やなんかはついでに頼んでいるといっても過言じゃない。
もう、松岡くんなしでは私は生きられないかもしれない。
――冗談じゃなく、本気で。
今日も優雅なアフタヌーンティが終わり、仕事をはじめる。
「仕事部屋にいるから、なんかあったら呼んで」
「かしこまりました」
部屋に戻り、デジタルメモの蓋を開ける。
自動で書きかけの文章が立ち上がったがこれは保存して、別のファイルを開く。
……さてと。
さっき感じたことを、どんどんメモしていく。
これは、新しい作品の資料になる。
この作品には王子様も領主様も、執事だって出てこない。
私と同じ年、二十四歳の女性が主人公だ。
引っ込み思案で人付き合いが苦手な小説家の彼女が、恋をすることで人間として成長する。
そんな話。
要するに半ノンフィクションだけど。
でもいままでの、キラキラした理想の恋愛よりも、現実の生々しい恋愛を書いてみたくなった。
どういう心境の変化かはわからない。
でも、松岡くんが仮彼氏になって思ったのだ。
――ちゃんとこの恋を、作品として書き上げてみたい、と。
だからまだ、結末は決まっていない。
どうなるかは私の今後次第、なのだ。
「よろしいでしょうか」
「あっ、はい!」
睨んでいた画面から顔を上げると、すでに部屋の中は薄暗くなっていた。
「少し休憩になさいませんか」
「うん、そうだね」
すぐにふすまが開いて松岡くんが入ってくる。
私もデジタルメモの蓋を閉じて脇によけた。
「どうぞ」
ティーカップを松岡くんが机の上に置く。
取材のためにここの掃除を頼んでから、立ち入り禁止を解除した。
掃除ももちろんしてくれるけど、こうやって時間を見計らってはお茶を持ってきてくれる。
「ありがとう」
紅茶のいい匂いを吸い込んだら少し、肩の力が抜けた。
「夕食の買い物に行って参りますが、なにかリクエストなどございますか?」
「んー」
食べたいものを考える。
けれど貧相な私のあたまでは、ハンバーグとかカレーとかしか出てこない。
「任せた」
「かしこまりました」
真顔のまま松岡くんが出ていく。
彼の料理はなんだっておいしいから、おまかせが正解だ、きっと。
指を組んでぐーっと背伸びし、凝り固まっている身体をほぐすように左右に揺らす。
「晩ごはんまでもう少し、頑張るかー」
まだまだ小説の中の私はぼんやりとした存在だ。
もっとはっきりと、掴めるようにならないと。
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