第4章 王子様、登場
4-1 彼氏(仮)
マスカラを持つ手が震える。
「ヤバい、目に突っ込みそう……」
何度もビューラーでまぶたを挟みながらカールさせた睫へ、ぶるぶるとマスカラを塗った。
「大丈夫、かな……?」
うまく塗れているかなんて自信はない。
ただ、ダマにはなっていなさそう。
まあそのために、ダマになりにくい! ムラにならない!という謳い文句の、自分でも手軽に扱えそうなのを買ったんだけど。
「これでいいんだよね……?」
チークを塗りながらもやっぱり自信がない。
一度、お店の化粧品売り場に行ってみたけれど、美容部員に話しかけられて……逃げた。
そもそも、店員に話しかけられるのは苦手なのだ。
なのに、お化粧の相談に乗ってもらって、やり方まで教えてもらうとかハードルが高すぎる。
仕方ないので一度家に帰り、ネットでお化粧のやり方からお勧めの化粧品まで調べた。
いままで小説を書くのにいろいろ調べごとをしてきたが、こんなに疲れたのははじめてだ。
買って帰った日、予行演習はやったけど、これで正しいかなんてわからない。
誰にも聞けないし。
そしてそのまま……本番を迎えたわけだ。
「張り切りすぎ?
いやいや、でも松岡くんは彼氏なわけで……」
眼鏡はやめてコンタクトにした。
化粧も頑張った。
髪も可愛くアレンジヘアでまとめてみた。
――ネットで【簡単 ヘアアレンジ】で調べたら、【まずは軽く髪を巻いておきましょう】などと書いてあって殺意を覚えたが。
服だって桃谷さんの格好を参考に、用意した。
「おかしくないとは……思う」
「にゃー」
大丈夫だよとでもいうかのようにセバスチャンが鳴いて、ちょっとだけ安心した。
「こんにちはー」
落ち着かなくてそわそわと待っているうちに、松岡くんがいつものようにやってくる。
「本日もよろしくお願いします」
「よろしくお願い……します」
僅かに熱を帯びる顔で、ちらっと松岡くんをうかがう。
けれど彼はいつも通りでがっかりした。
「すぐにお茶の準備をいたしますね」
「……はい」
なんだか泣きたくなってきて俯いた。
せっかくいろいろ頑張ったのに、気づいてもらえないなんて。
――くすり。
耳に、小さな笑い声が届いて顔を上げる。
すぐに松岡くんの顔が近づいてきた。
「……それは俺のためにやってくれたのか?
だとしたら嬉しいんだけど」
バリトンボイスで囁かれ、ボン!と顔から火を噴く。
わかっていてこんな意地悪するなんて。
でも、そういうところにどきどきしている自分がいる。
黙ってしまった私の額へ、松岡くんがちゅっと口付けを落としてきて容量いっぱいになり、その場へへなへなと崩れ落ちた……。
松岡くんとはあのあと……付き合うようになった。
といっても――仮、だけど。
「じゃあ、……彼氏にする」
このときの私は、あたまがどうかしていたとしか思えない。
好きでもない男と付き合うなんて。
けれどどうしてか、松岡くんがそう言ってくれたのが嬉しかったから。
「は?」
私の言葉で松岡くんは、間抜けに目と口をぽかんと開いていた。
「なに言ってるのかわかってんのかよ」
立ち上がり少し怒って聞いてくるが……自分で言っておいて、いまさらだ。
「わかってる。
でもいままで彼氏とかいたことなかったし、実地で経験するのもいいと思う……から」
うんうん、きっとそれだけの理由だ。
想像の王子様に恋するよりも、実際に恋愛してみた方が経験値は上がるに決まっている。
最近、このままTLノベルを書き続けていていいのかなんていう不安もあるし、そのためだったら。
「要するに取材って奴か」
「そう、だね」
「じゃあ相手は、俺じゃなくていいんだ?」
意地悪く、松岡くんが右頬だけを歪めて笑う。
「よくない。
知らない人なんて無理。
けっこう打ち解けた松岡くんがいい」
「打ち解けた……ね」
はぁっ、松岡くんが小さくため息を落とす。
「わかった。
じゃあ仮彼氏とかどうだ?」
「仮……彼氏?」
「紅夏は疑似恋愛がしてみたいんだろ?
なら本当に付き合う必要はない。
だから仮の彼氏で仮彼氏」
ちょっとまて。
さっきから紅夏、紅夏ってなれなれしくないかい?
でもそれなら、好きでもない男と付き合う抵抗が薄い気がする。
「それでいい」
「了解。
細かい決まりはまたあとで決めるとして」
また跪いた途端に松岡くんのまとう空気が変わる。
「それでは。
契約の口付けでございます」
右手を取ってその甲に恭しく口付けを落とし、松岡くんは右の口端をちょこっとだけ上げて笑った。
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