薄霧の晴れ間

晴なつ暎ふゆ

薄霧の晴れ間


 重たい雲色の中を歩いている。ぼんやりと薄暗く、先は見えない。自分はスーツを着ていて、まるで通勤途中の格好をしていた。

 不意に光が隣を駆け抜けていった。振り返ると一台のタクシーがあった。エンジン音もしなかったのに。ゆっくりと扉が開く。運転席には1人の男。

「どうぞ」

 静かで染み渡るような声だった。

 声に誘われるままいつのまにか乗り込んでいて、静かに閉まったドアを合図にゆっくりと走り出す。タイヤからの衝撃はほぼ無く、道を滑るように進んでいく。

「行き先は?」

 のんびりとした声が運転手から聞こえる。バックミラーに映る目元は何処かで見た顔なのに、思い出せなかった。

 行き先か、と考えてみる。

 答えが出て来ない。

 ざわざわと胸の奥が騒ぎ出す。耳の奥からコソコソと陰口が聞こえてきた。居ないはずの人の声が聞こえる。出したい言葉が、喉につっかえて出て来ない。何度も唾を飲み込んで声を出そうとする。でも出て来ない。そのうち、アイツまただよ、と蔑んだ笑い声が聞こえてきて耳を塞ぎたくなった。

「まだ決まってないなら、しばらくゆっくり走ろうか」

 聞こえた声にハッとして顔を上げる。バックミラーに映る運転手は目を緩ませて微笑むと、さっきよりも少しだけスピードを落として薄灰の霧の中で車を走らせた。耳の奥の不愉快な騒めきは、すでに遠くなっている。

「あの」

 堪らなくなって声を掛ける。

 一体何処を目指せばいいのかわからない。何も見えないこの薄灰の中に、目的地なんて存在するのだろうか。

「これから何処に行くんですか?」

 運転手は片眉を上げて、ミラー越しにこちらを見た。

「何処へでも行けるさ」

「何処へでも?」

「うん。当然だろう? 君が此処に乗ったんだから」

 運転手はさも当たり前だと言わんばかりに言い放った。

 何処へでも行ける。

 何回か頭の中で反芻して、眉根を寄せた。

 果たしてその言葉は本当だろうか。だって未だかつて何処にでも行けたことなどないのだ。自分の意思なんて握り潰されて、家族にも友達にも同僚にもヘコヘコとだらしなく頭を下げながら生きてきた。旅行だって行きたいという人に着いて行くだけで、自分の意思なんて存在しなかったのに。


 今更、何処にでも行ける、なんて言われても。


 そんな言葉信じられるはずがない。

「嘘だ。あなたは嘘をついている」

「まさか。嘘なんて一言も言ってないさ」

「そもそもタクシーの運転手ってことも嘘なんじゃないのか? 僕を騙そうとしているんじゃないのか?」

 キッと鏡の中の男を睨みつけた。

 男は意外そうな顔をした途端、大声を上げて笑い出した。笑い声なんて人の声の中で一番不愉快で大嫌いなものなのに、なにもかも吹き飛ばすようなカラリとした笑い声は、不思議と嫌な気分にならなかった。

 運転手は目元を柔らかくゆがませた。

「僕はタクシーの運転手なんて一言も言ってないけれど」

 え、と間抜けな声が漏れる。

「だ、だって、あなたは目的地を聞いたじゃないか!」

「確かに聞いたけど、どうしてタクシーって結論になるんだい?」

「車だってタクシーっぽいじゃないか!」

「でもタクシーとは一言も言ってないし、書いてないだろう?」

 ぐ、と言葉に詰まった。

 運転手は笑う。春の木漏れ日のように穏やかで優しい、どこか懐かしい笑い声だった。

 自然と体の力が抜けて行く。笑い声を聞いているのに不思議だ。運転手は死んだ父に似ているのかもしれなかった。父もいつだって穏やかに笑っていた。お前なら大丈夫だ、といつだって寄り添ってくれた。そんな父に、彼は似ている。

「それで、行き先は決まった?」

 車内の空気と運転手の声が体を包み込んで、重たいものを外へと押し出していく。

「わかりません」

 素直に気持ちが出た。

 この十数年間喉に押し留めていたはずの気持ちが、ポロリと飛び出してきた。

「わからない? どうして?」

「何処に行きたいのかわからないんです」

「なるほど」

 神妙に頷いた運転手は、それ以上深く聞くことはなく静かにこちらの言葉を待っているようだった。

「できればどこにも行きたくないです」

 膝の上の握り拳が音を立てる。

 もしも行った場所が今と同じなら行きたくない。ずっと一人で篭っていれればいい。

「それは違うな」

 運転手はしなやかな声で否定した。

 ミラー越しに笑みを零したまま、こちらを射抜く。

「どこかに行きたくないなら、此処には乗れない」

 何も、言えなかった。自分の本心を知っていたから。

 行きたくないわけじゃない。行っても変わらないのが嫌だった。変わりたいと願って行動したとしてもどうせ変わらないのなら、このままずっと此処にいる方が良い。落胆が少なくて済む。耐えればそれで終わる。

 そうやって全て諦めて投げやりになっているのを、知っていた。

 運転手の瞳は温かさを保って注がれている。答えを急かす事も叱責する事もなかった。陽だまりのように寄り添いながら、答えを待っている。

「本当は」

 一度言葉を切った。随分前に身体の奥底に仕舞い込んだ本当の願いがあった。父が死んでしまってから誰にも言った事などなかったから、少しだけ身体がこわばる。

「本当は?」

 ゆっくりと繰り返された言葉に、口が動いた。

「心地良い場所に行きたいです。僕の為の温かい場所に」

 冷たい言葉が嫌いだった。嘲笑う声が嫌いだった。誰もがそうして僕を下に見ている事が透けて見えて、どんどん何も言えなくなった。ただ笑う事に徹した。道化であればやり過ごせる。心を殺した。それが苦しくてしょうがなかった。自分の言葉を、本心を、口に出せないのが深海に突き落とされたみたいに苦しくて、悲しかった。

「ほら、あった」

 運転手は大きく頷きながら、笑みを零してそう言った。ハンドルを握る手に少しだけ力が入ったのが見えた。

「車は」

 紡がれる言葉に耳を傾ける。道を滑る車のように、するすると頭の中に入ってくる声は心地が良かった。

「運転手がいないと動きもしないし、目的地も無い。ただの塊だ。木偶の坊と一緒。自力では動けないんだ」

 当たり前じゃないかと笑う。

 どうしてそんな話をいきなりし始めたのか解らないけれど、車はそういうものだ。運転して初めて移動手段として使う事ができる。

「意思がある人間が動かさないと動かない」

「最近は自動運転もありますけどね」

「でもそれも人がプログラムを組んで車に命令を出すわけだ」

「確かに」

「似てないか?」

 首を傾げる。ミラーの向こうの瞳が緩く弧を描いた。やっぱり父の顔にそっくりだった。

「人生に似てると思わないか?」

「人生、ですか?」

「うん。目的地を決めてそこに向かう。いくらだってツールはある。車もカーナビもツールに過ぎない。いつだって決めるのは自分だ」

 車のスピードが緩やかに上がっていく。薄灰がどんどん光を孕んでいって、目を眇めてしまうほどの眩しさが増していく。

「目的地を決めるだけだ」

「決める、だけ」

 そうさ、と彼は笑った。

「君は、もう目的地を決めたから、大丈夫さ」

 その声色は不思議な力を持っていた。確かに大丈夫だと思わせてくれる声が、喉で蔓延るつっかえを押し流していく。

「大丈夫さ」

 やっぱり温かくて染み入る声だった。僕に言い聞かせるように再度言った運転手が、ゆっくりと振り返る。

「何処へでも行ける。君は僕なんだから」

 見えた顔は、父ではなかった。今よりずっと清々しい顔をした僕だった。車も何もかも無くなった真っ白な空間で、鏡写しのような僕が笑っていた。






「それで、本当に仕事辞めちゃったんだ」

 ころころと笑う声に顔を上げれば、淹れたてのコーヒーを目の前に置いたまま頬杖をついて微笑んでいる彼女と目が合う。カウンター席に腰掛けている彼女の後ろには、雲一つない空とその青を反射した海が見えた。

 うん、と頷いて零れた笑みをそのままに手元のみずみずしいトマトへと視線を戻す。

「それは夢だったの?」

「どうだろう。夢だったような気がするし、そうじゃなかったような気もする」

「じゃあ不思議体験?」

「かな。気付いたら僕は辞表をバッグに入れて通勤の道を歩いてたんだ」

 ふうん、といった彼女は、笑みを深くして今度こそコーヒーに口を付けた。かと思えば、あちっ、と口先を押さえている。この店の常連になってくれた時から、彼女は毎回それを繰り返している。もう少し冷ませばいいのに。

「でもよかった。マスターが前の仕事辞めてここに来てくれなかったら、こんな美味しいコーヒー飲めなかったもん」

「そう?」

「うん」

 満足げに頷いた彼女に、笑みが零れる。きっと前の僕なら、それはウソだ、なんて決めつけて卑屈になっていた。でも今はその言葉を受け取れる。未だすべてを飲み込むことは出来ないけれど。

「ねえ、マスター。此処は、あたたかい?」

 しっかりと顔を上げて彼女の瞳を見た。柔らかく弧を描く瞳に差す光を見つめて、笑って答えた。

「うん。とてもあたたかいよ」



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薄霧の晴れ間 晴なつ暎ふゆ @kumachiku5

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