*第二の不思議
──校舎に入り、三階を目指す。
西側の奥にある美術室は、何故かひんやりと感じられた。匠が美術室の扉の前に来るとカギを取り出す。
「なんでカギを持っているんだ」
声を上げた耕平に健が「静かに」と自分の唇に人差し指をあてる。
そうして、木製の扉がゆっくりと開かれる。真っ暗な部屋の真ん中には、ぽつんと置かれたイーゼルにキャンバスが乗せられていた。
外は風が吹いているのか、窓がガタリと音を立てる。
油絵の具の独特の臭いが、三人の鼻腔を刺激した。ゆっくりと踏み入り、イーゼルの前に立つ。
「俺たちが来たから、逃げちゃったのかな?」
教室を見回すも、さしたる異変もなく、健は丸椅子を見下ろした。
「いや。ちゃんと座っているよ」
「え。いるの?」
「まじか!?」
耕平はぎょっとして思わず椅子から数歩、後ずさった。
「ほ、本当に、座っているのか?」
「うん。絵を描いている」
「絵? どんな?」
健と耕平の目には、ただ真っ白なキャンバスがあるだけだった。
「おそらくだけど、誰かの似顔絵だね」
「似顔絵?」
「そういえば。油絵の習い始めって、二人一組になって相手の顔を描かされるよね」
健がふと美術の授業を思い出す。
「まさにそれだろう」
匠の目には、キャンバスを前にして苦悩する少女が映っている。
相手がいないものだから、必死に記憶をたぐり寄せて描いているように感じられた。健の言うように、その授業でのものだと思われる。
触り程度の油絵なのだが、そこから好きになる生徒もいるかもしれないと、一年目はひと通り美術をかじらせる。
「健。悪いんだけど、相手になってやってくれないかい」
「ええ? 俺?」
「同じ人間じゃなくていいのか?」
「何年も前の人間を捜し出すのは骨が折れる。健で代用としよう」
代用って、そんな適当でいいのかよ。
「じゃあ、ここでいい?」
健は匠の指示に従ってイーゼルの前にある丸椅子に腰を落とした。
「この子の死んだ原因とかは、聞いたのか?」
待っている間が暇なので匠に尋ねてみる。
「自分で落とした油絵の具に足を滑らせて、机の角に頭をぶつけてそのまま──だそうだよ」
「そ、そうか。それは、気の毒に」
耕平には、その言葉が精一杯だった。
「いつまでやるの?」
五分もしないうちに健が飽きてきた。彼には大人しくしていることは難しい。
「明日、私の母の特製クッキーを持ってきてやろう」
「商談成立!」
健はぴしっと背筋を伸ばした。
「なんだってお前はいつも、食べ物に釣られるんだ」
耕平はがっくりと肩を落とす。
匠はそれに小さく笑い、イーゼルを見下ろした。誰にも見えない絵は、少しずつ進んでいるようだ。
さらに五分後──
「もういいよ。健」
「え、終わり?」
三十分も経ってないよ。油絵ってそんなに早く仕上がるもんなの?
「うん。見事な出来栄えだ」
もちろん、そんなに早く完成する訳はない。
彼女は油絵をしっかり学ぶ前に、この世を去ってしまった。従って、その塗り方は雑──というよりも適当。
絵を描けたという満足感が重要であって、初心者にクオリティを求めるようなものじゃない。
だから匠は、あえて何も言わずに彼女を見守っていたという訳である。
耕平と健はイーゼルをのぞき込むが、やはりキャンバスは真っ白のままだ。二人は顔を見合わせた。
匠の目は、何か感想をと求めている。
「確かに、上手い」
「よく、描けてるね」
待ちに待って彼女はようやく、美術の授業を終えた。二人は、それに対する頑張りを褒め称えた。
すると、どこからともなく、そよ風が頬をくすぐった。それは閉め切った部屋であるにも関わらず、どこか春を思わせる新緑の香りをまとっていた。
「ありがとうと言っているよ」
匠は目を細めて二人に笑みを浮かべる。危ない、女だったら確実に惚れている。
「成仏したんだな」
「そか。良かったね」
「うん。そうだね」
部屋をあとにする匠は残された真っ白いキャンバスを見やる。
もし二人にキャンバスの絵が見えていたならば、返って感想を言いづらかったかもしれない。
それでも、匠は素晴らしい絵だと思った。
子どもの落書き程度の出来でも、死して尚も完成させたいと願った絵の相手は、彼女の初恋の男子生徒だったのだから。
健は、その男子に似ていたのだろう。部屋に入ってすぐ、彼女はずっと健から目を離さなかった。
その想いが詰まった作品は、確かに素晴らしい絵なのだ。
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