愚か者は、意地でも立たずにゃいられない
人々が酷く愚かしいと思わずにはいられない程に真っ直ぐ、しかし、その背筋を震わせる程に全力であるのが、セイマという男だ。
かの男は、相手が誰であろうと全力全開でその身を戦いに晒してきた。立ち続ける限りは握った拳に意地を込め、瞳の中には執念という名の業火が、轟々と対峙する相手を照らしている。
一度戦いとなれば、その戦いにしか眼中に入らぬという、闘犬じみた気質もあるのだろう。彼が全力でぶつかりにいかないということは、決して無かった。
しかして、そこに卑怯などはない。
とことん正々堂々に、そして真っ正面から筋を通さんとばかりにぶつかり行く。
幾度倒れても、その執念と意地を持って、己の生を全て使い果たすかのように喰らい付く。
それはそれで、どうにも頑固すぎるきらいもあった。
己が筋を通さんと、躍起に過ぎる節もある。
故にその体はいつだって生傷だらけの青痣だらけ。見るに絶えぬものもあろう。
だが、それこそがセイマの戦いに対する矜持、或いは彼の憧れた生き様ともいうべきか。
それは、今もまさに描かれつつあった。
「う、らああぁぁあッ!」
其処は相変わらずの賭博試合だった。
血が滴り汗が舞い散る闘技場に集うは、己が金の賭けた闘技者達に手に汗握りながら熱狂犇めく声援を送るは観客共だ。
そんな場内に響き渡る大多数の歓声に、負けずとも劣らない雄叫びを唸らせ、今日も愚直な拳を振り上げて向かい行くはセイマ。
目の前には、今日も今日とて対戦相手の偉丈夫が静かに佇んでいる。
しかして、その瞳に映る姿は余裕綽々。片目のみから覗かせる紅玉の瞳は、向かい来るセイマに対してかかってこいと言わんばかり。
案の定、安い挑発に乗った闘犬がまさにかかってきたならば、まるで赤子の手をひねるかのように制しては土につけるの繰り返し。現に今も、セイマが拳を突き撃つその前に、彼の蹴りがセイマを軽々と弾き飛ばしていた。
このような完封劇は、もう何度目かも分からない。
セイマの拳が偉丈夫を穿つ事も、ましてや掠める事すらここにきて一度たりとも無い。かかればかかるほど、セイマの身体は弾かれ、撃たれ、そして倒れを繰り返す。
それでもなお、セイマは立つ。生傷夥しい身体だが、彼にとってそれは日常茶飯事。それに、完封され通しだからとて、それで挫ける男じゃあない。
闘犬は、目の前の相手には喰らい付かずにはいられない。その本能にただただ、男は従うのみ。見ろ、かの瞳の執念は火花を散らして止まらないじゃないか。
故にセイマは再び牙を剥く。
脚は敵に向かって駆ける。
そして、握り抜いた拳を突き放つッ。
だが、そいつは虚しく空を切るばかり。
否、空に流されたというべきか。軽やかな男の動き、まさに山々を流れる水流のごとく迫る拳を流すや、一転して激烈の蹴りがセイマの腹を穿つ。肉が弾けんばかりの衝撃はセイマの内臓をかき乱し、一瞬胃から込み上げるものすら感じさせる始末。
が、ここで崩れるセイマではない。歯を食いしばり腰を踏ん張り、この一撃返さずにはいられないとばかりに、振り上げた拳はかの顎を狙い撃つ。
その一撃も、また届かない。
既にそう来ると読んでいたと言わんばかりに、腕は偉丈夫の腕に捕まってしまっていた。
まだだ
こんなところじゃあ終わらねェッ
まだ、拳は握っていられるんだッ
刹那、天地逆さになる世界。
セイマには、何が起こっているのかわからない。この目の前の驚天動地な状況に、浮かぶはただただ疑問符ばかり。
俺は今、何をされた? この世界はどうなってやがんだ?
そんな思考が過ぎる脳裏に、ノイズの如く響く一撃。頭蓋に脳が叩きつけられ、一瞬意識も飛んだ気がする。それ故にか、己が地面に伏していることに気付いたのは、それから数秒経った後。しかして、その目だけは、眼前の獲物を映して離さない。
それでも、やはり頭部への衝撃は強かったのか、体を動かすのに多少の時間がかかった。意識を取り戻した当初は、指一本動かすのもままならず、立ち上がるにも生まれたての子鹿のように酷く時間がかかるのを感じてならなかった。
しかしその間、敵であるはずの偉丈夫は一切手を出しはしなかった。
ほくそ笑んだ顔は、まるでセイマが立ち上がるのを待っているかのようだった。
それが、セイマにとっては無性に腹の立つことでもあった。
ここでとどめを刺してこそ慈悲も容赦もない賭博試合──だというのに、この男は悠長な笑みすら浮かべる始末。
今の一幕で実力差は歴然だとでも……それともなんだ、俺にとどめに刺す価値がないとでも言いてえのかよ……
込み上げてくる怒りは執念となる。
このまま惨めに戦いを終わらせたくねえと、馬鹿にされたままでは終われねえと。その執念こそが、セイマの脚を奮い立たせる。
そして、男は立つ。
息は荒くなり、視界は若干歪みも見せているが、腹立たしい偉丈夫の姿はしっかりと捉えている。この腹立たしさこそが、セイマの拳をなおも握らせる原動力となっていた。
「流石にこれは驚嘆するしかないね……宙に投げられ、頭から地に落ちそうになるその瞬間に、鋭い蹴りを浴びせられてなお立つとは、流石に僕も身震いするよ」
身震いどころか歓喜の笑みに震えているのは、何を隠そう相変わらずのスポンサア。殊更絢爛な椅子に座りつつ、この戦いの行く先をいつも通りに眺めている。
「というか、あの、本当になんていうか……何ですか今回……あの立った人も立った人ですけど、その人と対峙するあの人……今まで見てきた人と、段違いの実力じゃないですか」
と、言葉通り身震いしている様子でスポンサアに問いかけるのは、スポンサアの秘書であった。賭博試合も随分と間近で見てきたわけであるはずだが、やはり繰り広げられる修羅場というものは、まだ慣れてはいないらしい。
だが、彼女が言うことは、実際そのとおりであろう。
セイマが劣勢になる、ということは珍しくはない。事実、これまでの試合でもたびたび劣勢に陥ることはあった。だが、劣勢の割にも拳は相手に届いていたし、愚直な程真っ直ぐに向かっていながらも、反撃の機会を取りこぼすことは無かった。
だが、今回の攻防では、その反撃の機会を掴んだ上で更に上を行かれている。とどのつまりは、実力差があまりにも明白となっているのである。それ故の完封劇とでも言おうか。
「……それもそのはずさ。セイマが相手にしている伯符という男、彼はただの人間じゃあないんだよ」
と、スポンサアは取り出した書類を秘書に手渡す。何のことはない、スポンサアが独自に調べ上げた彼……伯符という男のパーソナル情報である。だが、そこにある内容はとても何のことはない、なんて言葉で終わらせることはできない代物だった。
「……リュ、ウハイ……? なんですか、これ」
秘書が疑問の声を上げたと同時に、局面は動く。
しかし、動くとは言えども、セイマは相変わらずの戦い様。どれほどの実力差があれど、愚直に突っ込むことをこの闘犬はやめやしない。
だが、その挙動は先ほどの一撃が無かったかのような代物。むしろ、機敏はよりよく感じるものがある。それは、先程感じた腹立たしさ故か。
そんな気負いを伯符も感じ取ったか、すかさず迎撃の構えに出る。しかも、今度は機敏のいい今のセイマですら、拳を出させる間も与えぬほどの速さ。
如何とし難い現実を前にしても、セイマは愚直に拳を握り、そして撃ち抜く。
その前に、それは弾かれた。奴の勢いはたかが拳を弾いただけだというのに、セイマ自身の身体をも倒させんとする程の代物。
まるで紫電とでも呼ぶべき鋭い蹴り、速さもそうだが威力もまた筆舌に尽くしがたいところがある。
だからこそ、セイマの闘志もなお燃える。己を圧倒して見せるからこそ、目に物見せなきゃしょうがない。
まさにそう言わんばかりに、その蹴りの反動を利用するや自らも蹴りを伯符の顎へ目掛けて放ってみせた。先制を決めんとしたひと蹴りは、逆に伯符をセイマの間合いへと踏み込ませていたのだ。
出鼻を挫かれてもなお、そこに反撃を見出すあたり、この闘犬の嗅覚は侮れない。
それでも、それすらも伯符は打ち崩す。
逆転を狙う蹴りが伯符の顎へと届く寸前に、追い討ちとばかりに──いやトドメと言わんばかりに落雷はセイマの頭蓋に落とされて。それも、先程紫電を放った脚で、である。
まさかの迎撃に、無防備なセイマはあえなく地へと突き落とされた。脳髄はまたしても頭蓋に幾度もたたきつけられ、肺の中の空気も全て吐き尽くす勢い。流石のセイマもこの状況からの反撃は叶わない。
しかし、これは尋常でない。
尋常どころじゃない。
多くの言葉を使ってしまうが、この攻防は一瞬、いや刹那とも言うべき瞬間である。
その刹那に、この伯符という男は同じ脚で、二度の蹴りを放ったのである。
たかが蹴り、されど蹴り。並の人間に出来る芸当ではない。まるでそれは天を翔ける雷光が如し、か。その境地に至る人間など、そうそう現れやしないだろう。
「
ゾクゾクとした心地で、スポンサアは言葉を紡ぐ。
その言葉通り、まさかこの目で規格外の人間を観れるとは思っていなかったのだろう、その歓喜はひとしおなものがある。
ついでに、秘書はそんなスポンサアに、若干引き気味の様相である。
しかし、この伯符という男、実は珍しくスポンサアが招聘した闘技者ではなかった。
そもそも、初めて試合に現れたその時、スポンサアは彼の素性をよく知らなかった。
彼の素性を調べるに至ったのは、彼の初めての試合ぶりからである。その試合、彼と戦った闘技者は、戦争帰りの兵士であった。戦争帰りともあって中々の歴戦の勇士、スポンサアにいつかはこの兵士とセイマを競わせたいとも思わせるような強者だった。
その兵士が、伯符という大陸から来た謎の男に一撃で沈められた。それも、無惨に頭蓋を爆弾にでも砕かれた様な姿で。そこで見せた圧倒的な戦闘力に破壊力は、今までの闘技者と比べると全くの規格外だった。
それ故に、スポンサアはその男の経歴などを洗いざらい調べた。調べずにはいられなかった。
「彼はどうやら大陸で、ゲリラ戦を行なっていたり、タイマンの果たし合いなどを行なっていたりしていたらしい。特に賭博試合に現れる前後なんかは、常勝無敗という結果さ。中々に興味深いだろう」
「き、興味深いという以上に、私はおっそろしくてしょうがないんですけど……というか、なんでそんな人と、あの、その……今戦っている人を組ませたんですか……? 全く勝負になってないじゃないですか……」
「ふむ、確かにそうだね。全く勝負にならない。なっちゃあ、いない。観客からしたらつまらない試合かもね」
「じゃあ、だったら……」
疑問符ばかり浮かべる秘書を前に、スポンサアは笑みを向ける。酷く気味の悪く底の見えない、だが恍惚とした笑み。
その笑みをたたえる口が、徐にひらいた。
「僕はね、面白そうだと思ったんだ。どう足掻いても届かないのに、拳を届かせようとするアイツの姿がさ」
伯符は未だに血の色をした瞳を片目のみから覗かせて、セイマを見下ろしていた。
だが、そこには実力者にはよくあるような、失望ともつまらないとも言えない表情はなかった。ただ、待っている、と言いたげな笑みを浮かべて佇んでいる。
それに応えるように、というわけではないだろう。だが、セイマの目はなおも死んじゃあない。
二度も脳髄を揺らされてもなお、なおハッキリとした意識で伯符に睨みつける。正直言って吐き気もあった、寒気もした。意識もまた飛んじまいそうな勢いだった。
そんな崖っぷちに追い込まれてもなお、いや追い込まれたからこそ、その執念はますます燃え上がる。
……そうさ、これぐらいよくあることじゃあねェかよ
そして、止めどなく苦痛が走る体に鞭を打ち、セイマはなおも立ってみせるじゃあないか。
意地っ張りの闘犬は、執念をその瞳に燃やし、とことん意地を張ってみせるらしい。
しかしてそれこそが、この先の地獄へと誘われる結果になろうとは、ついぞ思わなかっただろう。
「ここまでやって倒れないとなると、嬉しくなってしまうな」
初めて聞いた言葉は、疼きを隠せない声音をしていた。
尋常ならない圧倒ぶりを見せていたというのに、眼差しはまるで好奇心旺盛な少年のようだった。
だが、セイマにとってはむしろ薄ら寒い代物以外の何物でもないだろう。
「……倒れねえから嬉しいたあ、光栄だな。意味はわかんねえが」
「いやさ、結構本気を出してるつもりなんだ。とっくに頭蓋も割ってしまってるはずだったしさ。でも、君は立っている。今のままじゃ壊れるそぶりもない。だから、嬉しくなってしまうんだ」
「ホントーに何を言ってるのかわっかんねえぜ、オイ。それにな、語るんなら拳で語ってくれよ──俺はまだ立ってるんだぜ」
「ふむ……それもそうか。じゃあ、遠慮なく」
そうして、伯符は今の今まで閉じられていた──閉じていた右の瞼を徐に開いた。
隻眼ではなかった。この男は、あえて片目を封じていたのだ。
セイマは、その意味をすぐに理解できた。
手加減されていた──屈辱的な事実を前にして、青筋が立ちそうだった。
だが、その前に両眼となり暴力的に輝いた紅の瞳が向き直る。
「君を越えた先に何があるのか──楽しみだ」
ゾッ、とした。
怒りなんて忘れさせられた。背骨の底から氷がゾワゾワと上ってくるような怖気がした。
鳥肌は止まらず、冷や汗は頬を伝うことすら忘れさせる。
歯が鳴らぬように、震えそうになるのを食いしばるので精一杯だった。
其処に顕現したるは、化物が一匹。
姿形は何も変わりないはずなのに、セイマは一回り以上体が大きくなったような錯覚を覚えていた。
──大きくなってはいるのかもしれない。肉という肉から溢れ出るほどに、存在感が。
それほどに、偉丈夫の気質は比べ物にならないほど変貌していた。
浮かぶ笑みは酷く歪んだ、それこそ人をいくらでも喰らい尽くしたかのような化物の笑み。
だが、恐怖に慄く暇すら、この化物は与えてくれないらしい。
セイマが意を決して向き直ったその時、眼前の化物は忽然と消えていた。
化物は、其処に無かった。
何処だ、なんて考える暇もなかった。できたのは衝動的に拳を握る事くらいだった。
握ったその瞬間に、顔が弾けた。
次に腹、さらに胸、腕、足、最後に駄目押しの顔面。次々と爆風を吹き荒らす炸裂弾の如き蹴りが、セイマの身体を弾き飛ばす。
常人の速さではない。いや、常人なら肉体が自壊してもおかしくない速度だ。
咄嗟に腕で防御をしようとしても、稲妻の様な速さに腕を固めるまでもなく体が爆ぜる。
それでもなおセイマは拳を振るおうとするが、またしてもその炸裂弾はセイマの身体を襲い来る。
だが、セイマの打たれ強さを舐めちゃあいけない。
たかが連発する炸裂弾の如き蹴りで、終わるようなセイマじゃない。
二度も弾き飛ばされてもなお、その拳は握られたまま、そして瞳は伯符の姿を捉えんと見開く。
が、炸裂弾はさらに火を噴く。
セイマが瞳を見開いたその時、既に化物が蹴りは爆ぜていた。それもセイマの顎下、気づくにはもはや遅すぎる瞬間。いや、気づく間すら与えちゃくれない。
あえなくセイマは突き上げられる。油断も隙もない一撃が、闘犬を空へと打ち上げる。
そして、この鬼はなおも容赦も慈悲もない。打ち上げられ、無防備となった闘犬を、さらに返す踵で撃ち墜としたのだ。翼をもぎ取られ落ち行く戦闘機に、高射砲を撃ち放つが如く。
反撃の機会も隙もあったものじゃない。この伯符という鬼を前にして、セイマには為す術一つありゃしなかった。
ドブに打ち捨てられた獣の如く横たえ息絶え絶えの闘犬に、そいつを見下ろし不敵な笑みを浮かべる鬼の偉丈夫。
これこそ、闘犬と鬼との格の違いとでも言えばいいのだろうか。この規格外の鬼を前にして、闘犬はただ無残に敗北するしか無いのか。
──拳が全く届かねえなんて、まるでいつかの野良犬時代みてェだなッ
混濁する意識の中、セイマに込み上げてきたのは、この場に似つかわしくも無いだろう懐かしさ。
いつかの、野良犬時代のよくある日常の一風景が、歪みきった脳裏に浮かぶ。
届かない拳、これでもかと手酷く打ちのめされ、挙げ句の果てに捨てられ野たれ死んだ犬の様に横たえる。
あの頃のセイマは、そんな殴られ通しの負け通しだった。
腹が減りに減り飢えに喘いでいたが故に、金や飯を奪わんと毎度自分よりも一回りもふた回りもある大人たちを相手に、喧嘩をふっかけていた、そんなあの頃。
スリでも盗みでもすれば良いのに、それは男の生き様じゃ無いと意地を張った。無謀な戦いに挑み向かい続け、いつしかキチガイの野良犬だとかと言われた。
そんな少年の最後は毎度の如く、打ちのめされての生ゴミ喰らい。
……そうか、今の俺ってのは、かつての俺と同じじゃあねえかよ。
殴られ、いや、今は蹴られ通しの負け通しというやつか。まあ、どちらとしても変わりゃしない。幾度も拳を握り振るい、しかし何度も打ちのめされて、最後に至っては、もはや反撃のはの字もないじゃあないか。
拳を握って何ができた。
握った拳は何をできた。
……呆れちまいたくなるほどに、何もできちゃあいないじゃねえかよ。
結局の所、無数に撃ち放った拳が奴に届いたのは一つもなく、どころかその前にセイマの体が弾き飛ばされてしまっていた。
いくら牙を見せようとも、鬼の圧倒的な力量を前に、今や折られかけてしまっている。
もはや、完封どころじゃない。戦いですらない。こいつはただの、嬲り殺し。
揺らぐ視界で、鬼を見る。
いや、見れない。見ることすら、何処か震えるものがある。どうした、どうにも鳥肌が立って仕方ないじゃあないか。
怖いのか俺は……怖いんだろうな、俺は。
セイマの中にそんな感情が芽生えるのは、久々の事だった。
どんなに強い相手であっても、むしろ強ければ強いほどに歓喜するこの己が、規格外に強い奴を前にして打ち震えることしかできやしない。
そんな事実を、セイマは嘲笑いたくなった。
野良犬時代ですら、こんな事は滅多に無かった。いつかは目の前のこいつに目に物見せてやろうと、躍起になるばかりであった。今の様に、怖くて怖くてどうしようもなく震えるなんて、こんな事は早々無かった。
そんな男が今、恐怖に打ち震えて仕方ない。打ち震えて、全く立てもしやしない。
……そうか、そうじゃあねえか。
ここでこのまま立ち上がらなければ、この痛みとも恐怖ともおさらばじゃあねえか。
立つ必要なんか、これっぽっちすらねえじゃねえか。
ふと、そんな思考が彼の脳裏を過る。
そうだ、ここで負けを認めてしまえば、痛いのもここで終わるのだ。しんどくて苦しいこの現状からも逃れられもする。もう、かの眼前の鬼とも、こんな恐怖とも戦わなくてもいい。
まさにいい事尽くしというのは、このことじゃないか。立った先にあるのは、きっとまた雨霰の機関砲の如き蹴りと、言葉に尽くせぬ痛みと恐怖。
ならば、いっそ此処で敗北を認めてしまえ。どうせ敵わぬのだ、諦めてしまった方が賢明だろうよ。
だというのに、彼の拳というのは力強く、より力強く。
……そう、だよな。
昔、よく言われた通りさ。俺ってば、やっぱし度し難ェ愚か者なんだろうな……。
愚かだから、痛かろうが怖かろうが逃げたかねえんだ、なぁ。
愚かにも程がある、などと吐き捨てたくもなる心地。
けれど、もうこの生き方が骨の髄まで染み込んで仕方なかった。あの憧れに魅入られてから愚直上等の十数年、その年月はセイマを根っからの愚か者にするには十分すぎる年月だった。
そして今、その愚か者はやはり愚か者を張り倒す、否、張り倒さずにはいられない。
……そうさ、本当に怖えのは奴じゃあねえんだよ
本当に、心底怖いってえのは俺自身なんだ。逃げたその先にいる、惨めな俺だ
きっともう、立ち上がらなくて拳すら握れなくて、生きた様で死んでいる俺
そんな俺になるのが、俺は怖ぇンだ
拳はさらにより強く烈しく果てしなく。
握られた一抹のその執念に、灯火は再び燈る。
馬鹿だなァ、俺は
なんて馬鹿なことを考えちまったんだろうな
やるこたあこの一つしかねえってのに
……それにな、こんな惨めなまま終わってやれるかよ
昔と同じ様に終ってたまるかよ、そんなの筋が通らねえじゃあねえか。
それをこの俺が納得できるかよ、してたまるかよ、なァッ!
微かだった灯火も、意地という名の薪をくべりゃ、途端に轟々と燃え盛ってみせるじゃあないか。
恐怖は未だに残る。かの鬼を前にすると、鳥肌が立って仕方がない。あの歪んだ笑みに、脚がすくまずにはいられない。
だが、それが何だというんだ、なんだったってんだ。
そう言わんばかりに、愚か者は己が歯を喰いしばる。
戦いってのは、元から怖えことに決まってるんだ。怖えからこそ、それに立ち向かうのが戦いってもんじゃあねえのかよ。
だったら俺ァ立ち向かうしかねえじゃんか。負けようが打ちひしがれようが、何度でも。
そう、何度でも、だ……ッ!
だからこそ、セイマは笑う。笑ってそして、愚か者なりに立ち塞がる。
恐怖に震えが止まらずとも、その二つの足はしっかりと大地を掴み、体躯は正々堂々とばかりに、鬼に向き直ってみせる。
軀の至る所が血で滲み、見るに耐えぬ青痣がよく目立つ。事実、こうして立っているだけでも、地獄の灼熱に焼かれている様な気分にさせられる。
しかして、だからなんだとばかりに、満身創痍の愚か者は尚も鬼に挑むらしい。
ここで挑まなきゃあ俺じゃあねえとでも言いたいか、この男は。
その様は、益々愚か者。折れて砕けて挫けども、歩む事をやめはできない愚直さを地でいく愚か者さ。
「テメェ言ったよな……俺を斃して、その先へ行くとかどうとかってよォ……」
そして、拳は突き出される。
史上最大の逆境を前にして、益々力強いその拳。
「だったらとことんやってみろってんだ! まだ俺は此処に立ってやがるんだからなァ!」
切ってみせた意地っ張り全開のこの啖呵、そいつをまさに撃ち砕かんとばかりに既に一閃は奔っていた。
反撃する余裕も、避ける暇すらもセイマには与えぬということらしい、その攻勢は止まることを知らない。
ただただ、鬼の猛攻をその身に浴びる、浴びる、浴び続ける。
体が全く、どうにかなりそうな気にもなった。意識だって何度飛びそうになったかわかりゃしない。
腹が裂ける程の鋭さ、骨が砕けそうにもなる勢い、脳が弾けそうになる程の威力。そいつ喰らえば喰らうほど、目の前の鬼が自分とは次元の違うところにいる、そんな事実を突きつけられている気がしてならない。
しかし、しかしだ。
その体は斃れるどころじゃあない。むしろ、倒れる気配すら見せやしない。
例え化物が男の脚をへし折らんとばかりに撃った蹴りをしても、その膝が土に着く事はない。顎を撃ち抜き、鳩尾を突き抜いても、血混じりの息を吐き散らすだけで、尚もその二本の足は立っていやがる。
それも、にいと傷だらけの顔に笑みを浮かべて、もっと来いよと言わんばかり。
こうなれば、伯符だって意地になる、わけでもない。寧ろ楽しげだ。楽しくて仕方ないとばかりに、酷く歪んだ鬼畜の如き笑みをさらにその貌に表す。
それもそうだろう、この男は何より己という可能性を高める事にその人生を終始してる男なのである。
武術が好きだった。
物心つく頃にはすでに型を一通り取り入れていたように思える。
武術を始めた理由なんてものはない。親が武術家だったからなるべくしてなった、という他ない。
次から次へとできることが増えていくという感覚が。成長ととも、体の使い方だけでなく。そこから発揮された己の力に男は魅了されていった。
岩が砕けるまで拳を奮い、大木が悲鳴を上げて倒れるまで蹴りを撃っていた。特に蹴りは随分と自分の体に合っていた気がしてならなかった。
寝て食べて、ただひたすらに武術に打ち込む生活。言葉にすればそれだけの話だが、彼は雨に降られても水溜まり一つ残さず吸い尽くしていく砂漠のようにどんどんと技を吸収し、すればするほど次を望んだ。彼の前に立つ相手が周りにいなくとも、望んだ。
そんな彼が些細なきっかけで自らが『劉牌』という歴史の長い戦闘民族が流れていたことを知った。その身体の力を、まだ半分どころか三割も発揮できていないことを理解させられた。
歓喜した。
まだまだ、自分は強くなれる。自分は今以上に、並の人以上に手を伸ばせる。自分がどこまで行けるのか、どこまで辿り着けるのか、己の可能性の果てを見たくなったのだ。
子供の如き純粋な思いだった。
純粋で、真っ直ぐで、ためらいを知らなかった。
それまで以上に己の体を虐め抜き、鍛え抜き、時には銃弾飛び交うゲリラ戦を潜り抜け、時には一対一の戦いを繰り広げた。
命すら惜しくなかった。
死ねば、そこまでの男だったというだけの話だ。
そして、死地を駆け抜け続けた男は遂には規格外の化物と成り果てた。
そこで満足できたならば、今此処で彼はその猛威を奮っちゃいないだろう。
いまだにこの男は、己の可能性の果てを夢見てやまなかった。それこそ、まだまだ果てなど先だと言わんばかりの貪欲さ。
かくして今、そこに己の可能性を持ってしても、なお立ち続ける男がいる。
満身創痍の体を引きずってなお、立ち塞がる男がいる。そんな男を前にしたら、まだまだ己の可能性は広がるのだと、歓喜してやまないのも無理はない。
だからこの男は、己のさらに先の可能性を引き出してみせる。
化物は、己の全力以上を出し尽くそうとする。
この眼前の男を倒してこそ、己は次の可能性へと踏み出せる、そう思えばこそ歓びの笑みは止まらない。
颶風を巻き続ける脚も、止まることのない蹴りを浴びせ続けるのだ。
それでも、やはり愚か者は斃れない、倒れもしない。
こんなもん、いつもの事じゃあねえか。
なんてこたァねえンだ
俺は、いつもこんな事ばかりやってきたんだよ──なァッ!
雷雲を翔ける稲妻のような、あるいは戦場で弾幕を張る機関銃のような蹴りを浴びせ続けられて、その身体は焼けた鉄のように煙立つ。
だが、焼ければ焼けるほど、その身の内にある執念もまた、余計に燃え立つものを感じてならない。
だからこそ、このままで終わるわけにもいかないのだ。
ただただ蹴られるだけで、この執念がどうにかなるわけじゃない。
この執念をぶつけなきゃ、終わるものも終われやしない。
だからこそ、斃れないだけじゃあいけないのだ。
気付いているか。ここに立つ愚か者は五月雨のような稲妻に撃たれながらも、その脚は一歩、また一歩と前に突き進んでいるじゃあないか。
いくら蹴られようとも、仰け反りも退がりもしない。むしろ前のめりに、その首に狙いすまし喰らいつかんと牙を見せ、拳を握ってみせている。
その事に鬼が気付かないわけがない。奴の気力気迫、己が可能性を前にしていよいよ激しくなるそれに、この鬼もまた熱り立つものを感じてならない。
ならばこその一撃、この一撃でこの男を斃すッ!
斃して俺は次の境地へと踏み出してみようじゃあないかッ!
それまで止めどない機関砲の如く放っていた蹴りが、途端に止んだ。
諦めたか、いいやそんな訳があるまい。
現に、化物は既に構えている。
この一撃を以って薙ぎ倒さんがために、すでに構えているじゃあないか。
その身に纏うは、触れれば火傷どころじゃあ済まない圧倒的な意気。
眼前の男を撃ち斃し、越えた先へと進まんとする意気がそこにある。
きっと、次に来るはそれまでの比にならぬ一撃。
そうと分かっていてもセイマは止まりやしない。止まるつもりだって毛頭無い。
逃げ出したいと震える足を無理やりに、前へと出す。
身体中が押しつぶされそうな恐怖を、度を越した意気を前にして、なおもその拳は握られる。
譲れぬ意地と執念とを拳に握る愚か者だからこそ、その死地へと足を踏み入れる。
鬼はその時を待っていた。己の業がかの愚か者の頭蓋を砕き尽くし、そして斃すであろうその間合いに奴が踏み込むその時を。
この男が逃げないだろうということは、目に見えていた。
逃げるくらいなら、既に斃されててもおかしくはない故に。むしろ、そうじゃなければ己と戦うこの男は、この男たり得ないが故に、か。
そして、その時は来た。
見えない、最早捉えられもしない。稲妻だとか、紫電なんてものじゃあない。高速ならぬ光速、光と化した一撃がセイマを狙う。
それは、いつか鬼が幾人もの兵士の頭蓋を砕いた蹴り以上の蹴り。炸裂弾なんて言葉で終わらせるのも甘っちょろい威力。ソイツがもろに命中したその暁には、幾度の修羅場を超えてきたその打たれ強さも呆気なかろう。
そんな蹴りがセイマを、そこに執念深く燃え滾る魂すら跡形も残さんと迫り来る。
そのさらに、一歩先。
「──ざまァみろよ」
さらに一歩その先に、愚か者は踏み込んでいた。
見るに耐えぬ傷を背負った上で踏み込んだその一歩は、踏み込むだけで全身に突き抜ける痛みがあっただろう、逃げたくなるほどの苦しみが彼を穿ち抜いただろう。だが、それでこの愚か者の執念が尽きるのなら、とっくの昔につきている。
そうだ、かの執念はただの一瞬だけだが、ただの一歩だけだが、その鬼の次元を確かに踏み超えていた。
そして、愚か者はついに、その牙を突き立てる。
光が穿つその前に、意地を込めに込めた拳で、化物が笑みに抉り撃つ。
コイツが、俺とありったけだッ──!
穿ち抜いた一撃に化物の体が揺らぐ。
まさにそれは、虚をつかれたとでも言おうか。
この戦いで初めて、化物に決定的な隙ができた。
だが、『まだ』隙でしかない。ならば尚も食らいつくのがセイマという愚か者。
そうだ、さらに一撃、もう一歩。すでに拳は握られている。
その、筈だった。
「見届けさせてもらったよ、君という生き様ってやつを──なんて言葉を送ったところで、君は納得いかないんだろうね。だから、僕からはこれだけを送ろうか、ねぇセイマ」
静寂に包まれた闘技場に、たった一人の拍手が響く。打ち震えた笑みを思わず浮かべたスポンサアの、止めどない拍手が淡々と鳴り響く。
しかし、その拍手はセイマの耳には届いていないだろう。なにせ彼の意識は、既に失われてしまっているのだから。
勝負はついた。
かの愚か者は、たった一撃よろめかせた程度で終わらせるつもりなど毛頭なかっただろうて。そこから、さらに目に物見せてやらんとばかりの勢いだった。事実、脚も体も、己の闘志も前を向いている。その拳には意地だって、確かに込められていた。
その足は、踏み込まれようとしていた。
そこまでだった。
次を考えるには、全力が過ぎた。
そもそも、満身創痍なんて言葉も裸足で逃げ出してしまう程の軀の様相。筆舌に尽くしがたいほどに傷を刻まれ、あるいは砕かれていると言うべき惨状。
当然、限界というものはとっくの昔に超えていたのだろう。でなければ、指一本ですら動かすのもままならなかっただろうて。
そんな最中で鬼に繰り出し刻み込んだあの拳こそが、きっとかの愚か者の最後に残った一雫。だが、ありったけの執念とでも言おうか。それこそ、己が意識すらも散らしてしまったほどの。
しかし、その執念という名の業火の残り火は、尚もジンジンと鬼の頰を焼いていたのは確かだった。
たった一撃、しかしその痛みは妙に剥がれがたいものがある。だが、伯符にはそいつを憎らしげに思うことなど、一切もありやしなかった。むしろ、どこか心地よさすら感じられるのが本音といったところ。
別に頰に一撃入れられる事など、珍しい話ではない。現に、初めてここで試合をした時も、油断から一撃をもらった経験がある。
しかして、今の場合は違う。己が全身全霊を、今の今まで嬲り尽くした男に一瞬たりと雖も超えられた。奴が意地と執念に、己の中の可能性が今、確かに超えられたのだ。
そうか、まだ己の可能性は、貴様のように超えていける余地があるのだ。未だ見えぬ新たな境地が間違いなくあるのだ。
その事実に心が疼かないわけがない。むしろ、喜びにこの体全身が打ち震えて仕方ない。
「それに、まだ俺は君を越えられちゃいないみたいだ。その姿を見てると、そう感じてならないや」
そうだ、セイマは立っていた。
力尽きその意識を手放してもなお、この愚か者は己の足で立っていやがった。
彼の身に刻まれた傷は、やはりどこをどう見たって常人ならばうち崩れてしまったとしても頷けるような代物だ。
だというのに、その脚は前のめりになりながらも、己が軀を確かに支えて立っていやがっているじゃあないか。
さらに驚くべきことは、そこには一切の揺らぎもないことだろうか。拳を振りかざす力も、向かい行く力も尽き、だが何故かその軀を支える脚だけは、力強さ甚だしい。
意識は手放しても、未だ意地と執念は離さず握っているらしい。
己を嬲り打ちにしたこの化物に目に物を見せてやる、そう言わんばかりだった。
「──いいね。いいねいいね、いいねえッ! 今度また相まみえたのならば、その素晴らしい生き様ごと君を斃してみせようじゃあないか。その先の俺に何があるのか、頗る愉しみだ」
そんな化物の歓喜じみた言葉に、返す言葉などありゃしない。
とうに気を失っているのだ、当然と言えば当然だ。
しかしてどうだ、言葉は無くとも奴の貌に浮かんでいるのは、だからなんだと言わんばかりの、不敵な笑みのようじゃあないか。
拳一つしか届かぬ化物を前にして、この意地の貼り方はもはや愚か者としかいう他無かった。
しかし、此処まで執念を見せ意地を張り通した男だ、これぐらい見せつけるのが当然なのかもしれない。
そうだ、この愚か者というのはきっと死に果てるその時まで、この愚かさというのを張り続けていくのだろうさ。
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