俺たちに言葉はいらない

 相変わらず、舞台は喧騒煩わしい。

 狂ったような喝采に、下卑た笑いがよくよく響く。それだけならばまだマシなのだが、そいつが舞台裏にも届くとなると、これが不愉快極まりない。せめて、このひと時くらいはゆっくりと過ごしたいものではあるが、どうにもそいつは望めないらしい。

 仕方ない話だった。

 なにせ、あの舞台は金持ちどもの娯楽なのだ。彼らが歯牙にも掛けちゃくれない人間が何を言ったところで、到底届きはしないのだ。

 それを証明するかのように、波は更にざわめきを増して仕方がない。


 どうしようもねェな、チキショウが


 男は寝転びながらそう嘲る。

 その愉しさは理解できるものではあるが、鬱陶しさはやはり拭い難いものであった。


「今日も相変わらず不機嫌そうだね、セイマ」


 さも当然とばかりに甘っちょろい声をひっさげて現れたのは、薄汚れた舞台裏には到底似合わない一張羅の美丈夫が一人。

 しかし、その声色と、なにより顔に浮かべた人を食ったかのような笑みは、セイマを掃き溜めのゴミを見たような目つきにさせるのに十分な代物だった。

 そんな露骨すぎるほどの目を向けられたところで、怯むような彼ではない。むしろ、笑みは余計に深みを見せるものだから、セイマとしては辟易だ。

「……ここはあんたの来るところじゃあねえぜ」

「いやいや、そんなこともないよ。何せ僕はスポンサアだ、この舞台ならどこに現れてもおかしくないだろう? それに、僕は君に挨拶をしたいだけなのさ」

「そりゃ、ご苦労さんなこった。で、挨拶ならすんだろ。とっとと失せな」

 その冷たく突き放す言動には、スポンサアも肩をすぼめる仕草を見せる。

 顔に張り付いた笑みの方は相変わらず消えやしない。その口からは、一向に改善の余地も見えない馴れ馴れしい声が流れる始末だ。

 セイマは、この男をどうしようもなく心底嫌っていた。何でも知った風に言葉を紡ぎ、全てお見通しだと言わんばかりの口ぶりが酷く勘に障る。

 何より人を手のひらで踊らせるような所業を繰り返しているのが、セイマの琴線に触れるところだった。事実、彼の気の向くままに踊らされて凄惨な最期を迎えた者は、何人どころの数ではない。

 どうしてこの男に心を許すことができようか。

 しかして、曲がりなりにもこの男こそがかの舞台のスポンサア。さらには、この男がいてこそ彼はここに巡り会えたとも言える。

 例え、その事実が癪なモノといえど、恩であることには変わりはないがために、仇で返すのは筋が通りやしない。

 それに、どうせ殴り倒すのであれば、もっと真っ当な筋がなきゃこちらも納得できないもの。その時まで我慢すれば、いいだけの話。

 そう自分に言い聞かせようとするが、拳は今にも殴りかからんばかりにうずうずと疼いていた。

 必死に抑えようとしているせいで、態度は逆に冷たくならざるを得なかった。

 散々喋り倒すスポンサアに対して、返す口数は一つ二つ。

 会話になんざなりもしないし、すればするほど苛立ちは増すからとっとと終わらせたくて仕方がなかった。

「ふむ……やっぱり君はいつもこう、冷たいねえ。言葉なんてかけても仕方ない、って言わんばかりのようだよ。ま、いいさ。それにそろそろ時間だろうし、僕も失礼させてもらおうか。けれど、楽しみだね、今日の君はどんな戦いぶりを見せてくれるのかな」

「……」

 とうとう無視を決め込んだセイマに、スポンサアは片手を振り上げて退散する。

 退散、と言ってもその姿はどこか余裕に満ちたものなのが気にくわないところではあるが。

 とにもかくにも、奴の影が見えなくなった所で、セイマはひどく大きな溜息を吐いた。

 顔には、明らかに疲労の色が見え隠れしてる。

 あの、人を食ったようなスポンサアと話すだけで、セイマはひどく激しい気持ち悪さを覚えるような気分になる。

 それこそ、自らの胃を素手で突き入れられ、そして掻き回されるような、そんな気分。

 最近では毎度のように最後は無視を決め込むのだが、それすら楽しまれているようで反吐が出そうだった。

 いつかは奴の顔面を歪むくらいには、なんてこともよぎるが、やはり相応の筋が無ければ拳を振るうに足りない。

 セイマ自身が納得できないのでは、なんの意味も無さないのだ。

「全く──だが、今んところの気分としては、これが丁度いいのかもな」

 握られた拳にあるのは、怒りの戦慄き。

 早く振るって欲しそうにわなわなと唸っていた。

 そして、そのお膳立ては皮肉なことに当のスポンサアによって既に整えられている。

「おい出ろ。貴様の出番が来たぞ」

 冷たい声が、薄汚い部屋に響く。

 セイマは声に応じて立ち上がり、明かりの下へと歩み出でる。

 その佇まいは、中々の益荒男だった。



 そこは円状の舞台だった。砂が敷き詰められおり、周りは数えきれないほどの観客席に囲まれていた。

 よくよく見れば、爪やら歯やらの欠片が垣間見えるし、血痕だって残っている。黒くなった古いものあれば、新鮮な赤い色で照りついているものもある。

 スポンサア曰く、コロセウムと呼ばれた闘技場を模してみたという。遠い異国では、そこで奴隷どもが戦ったりなんなりしたのだという話だ。

 まさに、闘いの場としては相応しい代物といえるだろう。よくまあこんな代物を作れたものだ、とセイマは毎度思わずにはいられない。

 鬱陶しさ甚だしい喝采や下卑た笑いも、ここでは戦いの場に似つかわしい熱狂のように聞こえてならない。少なくとも、コロセウムを模した闘技場に添える華としては、随分と似つかわしいモノであるのは確かだろう。

 さて、そんな舞台で行われるは、全身全霊を懸けた野郎どものぶつかり合い。武器も有り暗器も有り、それこそ毒を仕込んでいたって構わない。

 その場におけるルールは、タイマンただ一つ。

 当然、時には死人も出るし、いっそ死んだくらいがマシだと吐き捨てたくなるような、無残な結末を迎えることだってあるものだ。

 だが、野郎どもにとってそんなもの、望むべくも無い。

 なにせ、ここに立つことを許されるのは、自らの足で踏み上がった者達だ。

 どんな理由でも構わない。ここに立とうと望む者を、この賭博試合は拒まない。

 死すら覚悟の上、むしろ恐怖すら忘れさせる歓喜を求めて、野郎どもは魂をぶつけ合う。

 当然、八百長が入る隙なんぞ、どこにもありはしないだろうて。

 あるは、果て無きガチンコだけだ。

 そんなガチンコに魅入られたか、多く用意された観客席は全て人で埋まってひしめき合っていた。

 金持ちに好奇心かられた庶民、または社会に飽きた人間達──様々な顔がそこにいた。

 彼らは、この闘技場の戦いを身をもって体感することによって、社会のしがらみを忘れたいのであろう。

 こればかりは頷かずにはいられない。いつだって、人は刺激を求めるものなのだから。

 暗雲の中を突き進み、どこもかしこも戦争という閉塞感漂うこの時代だったら、尚更の話である。

 ついでに、この闘技場は賭博の場という側面もある。言うなれば賭博試合、勝敗を予想して多額の金を賭ける金持ちのお遊び。いや、金持ちどころかちょっと小金のある庶民もちらほらと垣間見える。なにせ、一切の行方も分からぬ賭博試合がそこに成り立っているのである。観客の勝敗予想にも熱が籠るものがあった。

 スポンサアによるこの見世物に対する力の入れようも、中々に尋常ではない。わざわざ自らの足で闘技者をスカウトすることもあれば、金にモノを言わせて強者を釣ることだってやぶさかではない。むしろ、彼はこの事業の為に散財の限りを尽くしているとも言えた。

 だからこそ、この賭博試合は彼が経営する見世物の最大の稼ぎどころと言っても過言では無い。今日ここにある熱狂こそが、彼の力の入れように見合った結果と言えるだろうか。


 勝手に盛り上がってくれるぜ、こっちに立とうしねェクセにな


 この舞台に立ったセイマもまた、魅入られた者の一人だった。

 それこそ野郎と野郎の……いや、絶えぬ執念と譲らぬ意地との果てなきガチンコに。

 世間様から弾かれた喧嘩野郎がそいつに魅入られ、そして新たに生きていく場所だと踏み立つには十分すぎた。

 何より、己が胸に思い描く生き様を鮮烈に、激烈に描き切るのに、これほどうってつけの世界は最早どこにもありゃしない。

 それこそ、行くところまで行ってやる。

 沈むところまで沈んでやる。

 いつかの憧れに迫れるのだったら、いくらだって殴られても構わない。

 そう、今日この日まで拳を振るってきたぐらいには。


 だとしても、この熱狂の渦中を前にすると、どうにも溜息をつかずにはいられなかった。

 それは、外で喧嘩する時も変わらない。取り囲んで見やる奴らは、どれだけ闘いに夢中になろうと、結局は熱狂に任せて声を張り上げヤジを飛ばすだけ。ケチまでつけはじめようものなら、それこそもう手に負えやしない。

 先ほどから感じていた鬱陶しさは、ここにあった。一対一、拳と拳で語り合う世界に無粋にも踏み込もうとするくせに、こちらが拳を向ければ途端に逃げ出す羊ども。奴らの喚き騒ぎは、どうにも拭い難いものがあった。


 だが、そんな鬱陶しさなんぞは、いつも途端に忘れさせられる。



「……俺を前にして溜息とは、随分な態度だな」


 現れたるは、セイマに負けず劣らずの益荒男一人。

 セイマよりも一回り大きい出立に太ましい筋肉は、随分な逞しさを醸し出す。至る所に垣間見える傷は、幾多もの修羅場を潜ってきたものと推察される。しかし、纏う雰囲気は粗暴というよりも、質実剛健という言葉の方が相応しかった。

「見ねえ顔だな」

「ああ、今日が初めて……だからな」

 徐々にセイマとの距離を詰め、互いに拳が繰り出されるギリギリの間合いで立ち止まる。

 眼前に佇むその男は、見れば見るほどその強さを肌でヒリヒリと感じ得るものがある。

 丸太のような筋肉から繰り出されるその拳をまともに食らえば、骨身が軋むどころじゃ済まないのではないか。

 鎧を着込んだかのようなその身体に、己が拳はどれほど通用するか。

 彼の鍛え上げられた肉体を見れば見るほど、恐ろしい想像が沸き立って仕方がない。少しでも気を緩めば、震えた足を晒す羽目にもなりそうだ。


 久々に怖いものを用意してくれたじゃあねェかよ


 男の真後ろ遠方、観客席の中の殊更豪華な椅子に座るスポンサアは、悪どく笑っていた。

 僕が用意したこの男を、どう破って見せるのかな──とでも、言わんばかり。


「……何処を見ている。この俺を見ろ。お前の相手は……この俺だ」

「わあってるよ、わあってる。ただ、少しびびっちまっただけだ」

「ビビるだと……? ここで幾度の修羅場を潜ってきたお前がか」

「おい、外だとそんな噂すら立ってんのかよ。でもホントの話さ。アンタ一体何モンだよ……俺ァ、アンタみてえのは初めてだ」


 男を映したセイマの瞳に見えるは、灯火ひとつ。最早、鬱陶しい熱狂なんざ耳にはない。眼中にあるは、この剛の者ただ一人。

 それを感じ取ったのか、かの男もまた拳を鳴らし、ガッと腕を開き、佇む。構えにしては雑が過ぎる。だが、それを感じさせないほどの殺気が場を圧倒した。これには観客も息を呑むばかり。

「……何者、か。自ずとわかるはずだ」

「そりゃあいい。そういうのは好きだぜ、俺ァよ」

 セイマもまた、拳を握る。その拳にもまた、尋常ならざる殺気が握られている。二つの殺気がピリピリとかち合い、二人のみの世界を作る。そこは、何人の立ち入りも許さない。一度踏み入れたなら、その殺気に圧死されるだろう。

 互いが互いに、ジリジリと間合いを詰める。

 拳を届かせるのに、もうあと一寸も、いらない。

 

「そんじゃあ、もう俺たちに言葉なんざいらねェな」

 

 世界が、弾ける。

 まさに、同時だった。

 寸分の狂いもなく、その音は鳴り響いた。

 そして、ともに仰け反る姿がそこにある。

 されど、足はしかと大地を踏み、離れることは無い。

「おおおおおッ!」

「らああああッ!」

 雄叫びのままに、次なる拳が互いの体にぶつかり合う。だが、今度は仰け反る事はない。一歩たりとも譲りはしない。

 まさに拳の応酬、小細工など一切無用の拳と拳のやりとりが、そこに交わされている。

腹を穿ち、胸を撃ち抜かれ、顎を飛ばし、頰が弾ける。

 しかし、二人の男は痛みを全く物ともせずに、殴り合うのをやめはしない。むしろ、不敵に太々しく笑うやいなや、意地と執念とを拳に込めて、互いに全力のぶつかり合いよ。

 喰らわば喰らい、貰わば返す……いんや届く前に届かせるッ!

 その光景に、観客どもは喝采するどころか息を呑む始末。いや、呑み込まれたと言っていいか。群れる羊達に、獣の戦いはむしろ刺激が過ぎたか。

 そんな観客席の中で、ただ一人笑う男こそ、スポンサアであった。だが、その笑みは、先程浮かべていた張り付けたような笑みとは全く違う代物。

 そうさ、僕が見たいのはこれなのさ!

 そう叫ばんばかりの、恍惚な笑み。頰を赤らめ口角は上がるのを止められず、しかしなおそれを欲してやまない、恍惚な笑み!

 元はと言えば、彼がこんな見世物のスポンサアを始めたのも、この光景を見たかったからに他ならない。男どもが喰らいづきあい、そして生きようと足掻くこの姿を、魂のガチンコを見たいが為の所以であった。

 特に、今この瞳に映るセイマこそ、彼の理想の姿にもっとも近しいものがある。

 生死を分かつ戦いの中で、己の中を全て曝け出し、目の前の今に全力を持って生きんとする、その姿。

 いっそ、ここで燃え尽きても構わないとさえ思える、刹那の生き様。

「面白い、面白いよ本当に。君は本当に、僕を楽しませてくれるよ、ねぇ……セイマ」

 

 二人が拳の応酬は止むことを知らず、いつしか拳は血で染めがあっていた。

 頰はひどく腫れ、体には青痣が絶えに絶えぬ。それはまるで、獣と獣との喰らい付き合いだ。

 セイマが腹に拳を繰入れたなら、男は脳天にその腕をぶちかます。

 だが、なおも倒れぬセイマはさらにその男の顎を目掛けて拳を撃ち抜ける。

 男は向けられた拳をギリギリの一線で交わすや否や、自慢の力でその腕を握り潰さんと掴んでみせる。

 それこそセイマの思う壺だった。掴まれているということは、逆にこちらもヤツを掴んでいると同義。

 そして、握り潰さんと躍起の腕は、もう一方の握られた拳には気づいちゃいない。

 故の確実な一撃、セイマの拳が油断した男の顔面を非情なまでに抉り撃った。

 痛恨、掴んだ拳は腕から離され間合いは一度外さざるを得なかった。

 だが、そこを逃すセイマではない。

 すかさず距離を取るや否や、拳の嵐を叩き込む。

 胸に、腹に、そして鳩尾をも狙って。

 乱打に次ぐ乱打、そして肩に腕を伸ばすやそのまま跳び乗り、肘で頭蓋を穿たんとする。

 これにはさしものこの男も……と思われたが。

「ち、ぃっ!」

 なんと、奴はその嵐をただの腕の一振りで薙ぎ払ってみせた。

 いや、そいつはただ薙ぎ払うだけではない。当たれば木をも砕かんその威力に、冷や汗がたらりと落ちる。

 事実、間一髪で躱したものの、掠めた頬には薄く血が滲んでいた。これには、セイマも度肝を抜かれた。

 それ以上に恐るべきは、やはり奴の鍛え上げられた肉体か。

 あれほどの拳を叩き込んでなお、涼しい顔で反撃に打って出たのは、奴の筋肉が壁となったからであろう。

 対峙した際にその肉体に感心を覚えていたのが、セイマは今更ながら呑気な話に思えて仕方なかった。

 こりゃあ、とことんとんでもねェ野郎だ。一体、今までどこで何をしたらあんな体を作りあげられるんだが。

 肉弾戦に持ち込むは圧倒的不利。

 かと言って奴を組み伏せられるわけでも、引いては投げ落として地面に叩きつけるなども体格差からできやしない。

 しかして、握った拳を下げるなどセイマの筋が許さない。

 奴が拳を握り続けるのなら、こちらもまた拳を解くわけにゃあいかぬ話。


 なァに、流石に頭蓋の内の脳髄までぁ鍛え切れるわけがねえ

 その脳髄揺らして、叩き倒してやらァいいだけさッ


 恐れに冷汗が止まらぬ心を奮い立たすように拳を握り直し、出方を伺う。

 対する奴も奴でこちらの出方を慎重に伺っていると見た。だが、ただ伺いあうだけなんざは、セイマのサガではない。


 闘いってえのはやっぱ、殴り合ってこそだろうよ!

 

 そう言わんばかりにセイマが前に出る、と同時に巨躯も拳でもってそいつに応じる。ならばと、突き出るセイマの拳。

 互いの拳が今、顔面を穿ち抜く!

 かに見えた。

 刹那、ぬっと開くは獣の顎、喰らいつくはセイマが喉元。

 見事なまでに不意討ちよ。

 開くは拳、首根っこを掴み上げ、果ては、体をも軽々と空に浮き上がらせてみせるじゃないか。

 尋常ならざる剛力に驚嘆しそうになるが、そんな余裕など到底ありゃしない。

 抉り掴む手を外さんともがいてみせるが、絶大な握力の前にセイマは成す術もない。

 気道のみならず、頸動脈すら今にも食いちぎらん力具合。

 閉じられた気道じゃ呼吸もままならず、澱み始めた血流じゃ体に力も入りやしない。

 そこで諦め切れぬのがこの男だ。

 浮かび上がった状態で尚も足を振り回し、体を捻りの悪足掻き。ただで転んでちゃ、男が廃るというものだ。

 だからこそ、トドメは刺さねばならなかった。


「ぬ……んッ!」


 轟きは唸りを上げた。

 そこにあるは、まさに勝者と敗者の様相だ。巨木のように堂々と立つ勝者と、ボロ雑巾のように横たえる敗者。

 撃ち落とし。奴は首を絞めるに飽き足らず、掴み上げたセイマが頭蓋を地へと撃ち落としたのだ。

 横たえるセイマに指一本と手動かす気配はない。重力と剛力とを重ね合わせた一撃をしては、並みの人間じゃ、立つことも……いや、生きて立つことすら叶わない代物だ。

 それでも先程の拳の応酬を考えると、この決着はあまりにもあっけなかったらしい。先程まで息を飲んでいた観客たちも、かの轟きで戦慄きを見せた者も、決着がついたとみればどうも溜息を禁じ得ない。これでしまいか、そろそろ帰ろうかと、腰を挙げようとする者も。中には、賭博に負けたと腹いせに物を叩きつける輩もいる始末。

 だが、男はその喉元を離しはしなかった。

 むしろ、力がさらに籠る。

 首の骨を握り折らんするくらいだ、この握力の限り折り殺さんと。

 確かに、先の一撃は大きい。並の者ならそれで既に終わっている。終わっていて当然である。

 しかしこの男、終わった素振りを全く見せやしない。

 何の反応もないが、だからとてそれで終わりだと、どうにも思えないものがあった。

 その腕に、冷や汗がたらりと流れ落ちる。

 恐怖が、倒れ伏したる男から首を握る腕を伝って、自らの心の臓へと伸びている感覚を感じずにはいられない。

 故に彼の本能は、告げる。

 殺らねば、殺られる。

 酷くこだまする本能の声に従い、これで今度こそ終いだと言わんばかりに拳を翳す。丸太のような腕に、砲弾のような拳。これを以て、この戦いに血の幕を引かんと。

 

 その刹那だった、セイマの脚が蹴り上がったのは。

 

 狙うは男が顎先、トドメを刺さんとばかりに見えた隙。

 さしもの男も、突如吹き返した息に加え急所狙いの一撃には思わず喉元を離し、遂には間合いをも取る始末。

 死に体だったはずの男は、そして、ゆらりと立ち上がる。

 血濡れた顔が、明かりの元へと晒される。

 かすかに笑っているようにも見えた。

 これに男が驚愕を隠しきれないのは、あまりに露わがすぎた。

 それもそうだ、かの一撃で沈まなかった人間は元より立ち上がった者など早々いるわけが無いし、いてたまるかと文句の一つでも言いたくなる。打たれ強さにも程がある。

 ──恐怖。

 ここでその軀を打ち起こしてみせたこの男に対する恐怖が、鳥肌となって現れる。

 思えば、この手を外してしまったことも、この恐怖に心が震えてしまったからか。

 だからとて、怯むことは許されない。怯めば最後、汚泥を舐めるのはこの俺だ。

 ならば、と体勢を前傾させるや、今度はその足で地を弾き蹴る。狙いは不倒の男、繰り出すは横綱じみたぶちかまし。

 巨躯を生かしたぶちかましは、常人にとってはひとたまりのないものだろう。それに、今のセイマはまだ先の一撃で脳髄は揺れているはず。全身全霊の一撃ならば、粉砕するのも容易。

 誰もがそう思ったし、何よりもこの男こそがそう確信していたから故の、ぶちかまし。

 しかし、現実とは得てして、確信した事実を覆すこともあり得て然り。


「それが、セイマさ」


 そう呟くスポンサアの、うっとりとした眼に映るは、その戦車の如き巨躯を抱きとめ、そして、見事に掲げあげてみせたセイマの姿だった。

 呆気なく終わったかと思われたその戦いのまさかの展開に、観客たちはどよめきを隠せない。ある者は喝采をあげ、ある者は野次を飛ばす。ここにきて、彼らは一層の盛り上がりを見せていた。

 だが、今のセイマの耳にも眼中にも、そんなものは入っちゃいない。

 あるは、この益荒男ただ一人。

 己を追い詰め、最後の最後まで全力を尽くしたこの男に、胸の高鳴りは止まらない。

 そんな益荒男に、全力を以って返さねば男が廃る。筋が通りやしないじゃないか。

 ましてや、アレで倒れて終わりだなんて、そんな呆気ない幕切れに一番納得しないのは、誰よりもこの男自身だった。


 全身全霊、しかしそれでも足りぬならば、意地と執念で補ってやらァいいだけだッ


 セイマは掲げあげたその男を、そのまま背負い投げよろしく地へと叩き墜としてみせた。それこそ、受け身なんざ取らせまいと言わんばかりの脳天直下。

 そして、間髪入れずに体重を乗せた肘で、叩き落した頭へと追い討ちをかける。それもまた、セイマが男を益荒男と認めたが故。こちらも最後まで全力で無ければ、この益荒男には失礼だ。

 だが、事はどうにも上手くはいかない。咄嗟の裏拳がセイマを、この大きな体から引き離す。地に落とされてもなお、その男も息があった。

 血に濡れた顔を拭いながら、再び益荒男は立ち上がる。それに呼応するかのように、セイマも倒れた体を起こしあげる。

 そんな互いの顔には、笑みが溢れていた。

 喰らいつき噛みつき合うことを生き甲斐とする、血に飢えた獣の笑み。

「……ホンット強えよ、アンタ。どんだけ鍛えりゃそんなふうになるんだい」

「貴様もこそ。なんだ、その打たれ強さは」

「まあ、超えてきた修羅場のおかげ、とでも言えばいいかね」

 口から溢れていく血を拭うと、改めてセイマは男を見据える。

「いい加減、名乗りあおうぜ。このまま名も知らず、てェのはもったいねえよ」

「いいだろう。だが、二度とは名乗らん」

「お互い様さ」

 ぎっ、とその男は拳を構え、そして腰を屈める。

 セイマもまた、拳を握り、構える。

 血に濡れた笑みは、いよいよ歓喜に耐えられない。

 ともに、この一撃に全てを賭けている。この一撃で、全てを終わらせる腹づもり。

 故に、たまらないのだ、次の一瞬が来るその時が。勝つか負けるかじゃあない、己が意地と執念とを競り合わせぶつけ合う、その時が。


「全斗──俺は全斗だ」

「セイマ、それが俺だ」


 そこから先は、再び言葉のいらぬ世界が始まる。

 互いに互いの目を見、顔を見、そしてその魂を見る。

 そして、益荒男どもは猛る。

 傷ついた体を背負って駆ける。

 握った拳を撃ち放つ。

 決着は、今まさに。

 己が賭けたその全て、拳に握るのを忘れてくれるなよ。

 


……

 

 パチ、とセイマは眼を覚ます。

 その瞳におぼろげは無い。むしろ、随分と気分も冴えている。

 だが、体は節々が痛く、どうにも動かすことが叶わなかった。あたりを見てみれば、どうやら試合前の控え室。そして彼が横たわっているのは申し訳程度の、ボロボロのベッドの上であった。

「……あー、俺、勝ったんだっけか、負けたんだっけか……ヤッベ、覚えちゃあいねえ」

 頭は冴えているのに、あの後の戦いの決着がどうにも不明瞭だった。手応えがあるのは感じていたが、だからとて相手が倒れる姿を見てはいない。

 あれだけ燃えたというのに、決着がわからずじまいというのが、ひどくもどかしい。燃え残りのカスが、未だにぶすぶすと燻っている。

 ため息は禁じ得ず、体は力なく横たえているしかない。動かす気力も、体力も彼にはなかった。

「おや、目が覚めたかい?」

 あの煩わしい声が、セイマをひどいしかめっ面にさせる。

 セイマの嫌いな男が今まさに目の前に現れたのだ、しょうがなかった。

「おいおいよしてくれよ、お見舞いに来たのに」

 たははと笑うスポンサアに対して、セイマはプイとそっぽを向く。否が応でも話さないという態度の現れであった。

「はぁ……全くひどいもんさ。さっきはアレだよ、君と全斗の戦いが引き分けに終わってしまって、それでも無理やり勝敗決めようとする観客の大乱闘を、なんとか止めて来たのに……」

「引き分け?」

 うっかり、そのワードに反応してしまったセイマ。あっ、と思うにはもはや遅い。口も交わしたくないスポンサアが、釣りに引っかかったとほくそ笑んでいるのが目に見える。

だが、今まで悶々としたその結果を聞きたいという欲が嫌悪に打ち勝った。故に、苦虫を潰した顔で彼を見る。

 その顔に満足したのか、スポンサアは饒舌にことのあらましを語ってみせる。

「ああ。二人とも顔面にもろに拳を食らって、倒れてしまったのさ。まさに、呆気ないと思ったが、そんなこともなかったと思ったら、結局呆気なく幕切れ、ってことさ。でも、金を掛けてる観客はそうもいかない」

 そのあとは観客の大乱闘模様をつらつらと語るので、割愛。というか、セイマすらうげと思う内容である。良くも悪くも、人間らしい姿がそこにあるというか。

 とりあえず、引き分けに終わった戦いに今一度思い返してみる。久々に心が芯から滾る戦いだった。血の沸騰するような熱闘、それこそ最後は熱にうかされた気分。

 全斗とか言ったか、あいつは。またあの場に出て来てくれねえものかな。中々、あんな戦いを繰り広げるってこたぁねえからな。

 などと、思わないでもない。むしろ、もういちどやりあって、今度こそハッキリとした決着を付けたい。あの男に対し、己の本気をもう一度ぶちかましたい。そんな気分。

 そして、そんな男を眺め見て、ニタリと笑うスポンサア。彼もまた、その笑みの中で次なる眼前の男の戦いを思い描く。

 ある男はまだやりたりなく、ある男はまだ見たりない。

 戦いに憑かれてしまった野郎どもは、傷ついてもなお戦いを望んで止まない。

「なぁ、スポンサア。次の戦いはいつだ」

「そうだねえ……君の傷が癒えたら、すぐにでもかな?」

「早いな、相変わらず」

「君だって、それを望むだろう?」

「……そりゃ、まあな」

 スポンサアはククと笑い、見透かされたセイマは再びプイとそっぽを向く。だが、内心では煮えたぎる炎を抑えることができないのが現状だ。それは案外、この笑うスポンサアも同じか。

「まあ、楽しみにしてるがいいさ。僕も楽しみにしているからね、君の戦いざまを……生き様を」

「勝手にしやがれ」

 案外、この戦いを一番の娯楽としているのは、金持ちでもなく、ましてや観客でもなく、この野郎ども二人なのかもしれない。あまりに沸いた戦いの熱は、なお彼らの身体をうかしてやまないのだから。

 

 己が賭けた全てを拳に握る野郎どもが、今日もあの舞台で待っている。

 さればこそ男は止まらない、止まるべくもない。

 その身体に幾多の傷を背負おうと、どうせまたあの舞台に踏み立つのだろうさ。


 

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