十九話 覚えていない

 暗い闇の中に、わたしは一人で佇んでいた。まるで、御影山に取り残されたときのような――

「白羽さん!」

 背後から、彼の声がする。

「ユウくん……」

 相変わらず無表情な彼。しかし、わたしならわかる。彼の声は心配と安堵を表していた。

「よかった、無事で」

 駆け寄ってくると、わたしを一瞥して安堵の息を漏らした。

「なぁ、これはどうなってるんだ?」

 なんだか今日はよく喋るな、などと考えながら周囲の気配を探る。

「うーん……どうも大きな術式の中にいるみたいだけど、ものすごく複雑に絡み合っていてわからないな……」

 わたしたちが今いる術式は、例えるなら巨大な立体迷宮だ。

 全体図が把握できても、それを読み解き、現在位置や状況を把握することは容易ではない。というか、この規模となると仕掛けた本人以外はほぼ不可能だろう。

 都心の地図を見ても風景が想像できないことと同じようなものだ。

「地道に綻びを探るしかないと思います」

「そうか……仕方ないな」

 そう言うと、彼はスタスタと歩き始めた。わたしも半歩あとから続く。

 そうしてしばらくの間、わたしたちは無言で歩き続けた。墨を流したかのような闇がどこまでも広がっている。

 押し潰されそうな静寂。無音というのは、全身を圧迫してくる。

「……そういえばさ、白羽さんの好きだったお殿様って、どんな人だったの?」

 彼は空気を和らげようとしたのか、唐突に話しかけてきた。

 ――いや、以前から気になっていたことを聞いておきたいのかもしれない。ここのところ、彼と二人でゆっくり話した記憶がなかった。

「えっと……そうですね、口数が少なくて落ち着いていて、あんまり笑わなかったかな。かと言って常にムスッとしてるわけじゃなくて、たまに笑うととてもかわいいんですよ」

 そこまで語ったところで、しまった、と顔色を窺う。こんなに語ったら、まだ未練があると誤解されかねない。

 しかし、彼は特に気にしている様子はない。

 そっと胸を撫で下ろす。

 そう、懐かしいなぁ――――

 ふと、あることに気付く。

 あの人の顔が思い出せないのだ。がかかったようにぼやけてしまう。

 そう、特徴的な鎧を纏っていた。特徴……どんな? 飾り物が大きかったんだっけ? 色が鮮やかだったんだっけ? どんな声をしていたんだっけ? どんな体格だったっけ?


 思い出せない。わからない。あれだけ想い焦がれていたあの人のことが、全然思い出せない。


 さっき彼に語った性格だって、あやふやだ。あれは誰のことだ?


 わたしはあの人になんて声をかけてもらったんだっけ?


 まさか――忘れた? あの人のことを?


 まさか。



「じゃあ、一つ聞いて良いかな」


 ユウ君は突然立ち止まり、こちらを振り返る。

 思わず息を飲んだ。

 彼に似つかわしくない、虚ろな瞳がわたしを捉える。


 目の前のユウくんは、ユウくんじゃない。彼は、常に考えている目をしている。黒い瞳の奥には、確かな光が宿っている。


 でも、目の前のユウくんには無かった。

 それは、考えることを辞めてしまった人の目。虚ろな、濁った黒で塗りつぶされた目。

 どこかで見たことがある。よく知っている人の目だ。

 わたしは後ずさりをする。しかし、視線に捉えられて逃げ出せない。


 彼はおもむろに口を開く。

「きみの言うの名前はなんて言うんだ?」


 一瞬、理解が追いつかなかった。

 忘れるわけがない。あれだけ思い焦がれた彼、の、名前、は――――



 わからない。



「忘れてるんだろう?」

 ユウくんの姿をした何者かは、ユウくんの声で、まるでユウくんのように喋る。


口伝くでんにも残ってない、本人も口にすることがない。要するに君は、あの人のことなどこれっぽっちも想ってなかった。彼を愛している愛おしかった」


「ち、ちが……」

 逃げ出したい。逃げ出せない。

「結局、僕も使い捨てだろう? 僕が死んだらさめざめと泣いて、可愛いわたしはいつまでも彼のことを想い続けてるって自分を慰める。歪んだ自己愛。腐った自己満足だ」

 彼の視線がわたしを捉えて放さない。

 あの虚ろな瞳はよく知っている。いつも、鏡のむこうから見つめ返してくる瞳だ。

「そう、僕が死んでも問題ないんだ。こんなふうに」

 一拍おいて、彼の首が音も無くずり落ちる。

 ゴロン。

 わたしは震える脚を引きずり、歩み寄り、手を伸ばす。

 生首が口を開く。

「僕は君に、殺されるんだ」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 耳を塞ぎ、うずくまって目を瞑る。



 気がつくと、硬い床に寝かされていた。

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