#11 一歩先からのスタート

 クラスメイトの誰かを殺害する。

 他のクラスメイトと一緒に、のうのうと捜査する。

 『緊急HR』とやらで上手く犯人だとバレなければ、殺人完了。

 まとめてしまえば、それが僕たち赤ペン教室の生徒たちが一年間でやるべきことだ。

 まあ、やらなくてもペナルティはないからしないけど。

 僕は早速、視聴覚室へと戻った。気持ちに高ぶりがあった発見当時には見れなかった細かいところを確認するためだ。まずは手縄くんの死体の状況を見て、それから後の行動を決めようと思った。

 僕に探偵ごっこの趣味は無いし、経験もない。本当に犯人を見つけることができるのか、正直怪しい。それでもやる。

 手縄くんのために。

「…………それはいいとして、何だこれ?」

 僕が今右手に持っているのは、薄い機械だ。見たままの印象を言うなら『大きめのスマートフォン』あるいは『小さくし過ぎた携帯タブレット端末』、らしいけど、その言葉自体、五百蔵くんの受け売りだ。僕にはまずスマートフォンというものが分からないし、携帯タブレット端末というのも分からない。なんだそれ。『フォン』が『phone』で、電話のことを言っているのだけは、何とか推測できた。英語が得意じゃなかったら、もっと理解不能の渦に嵌っていた。

 携帯電話の新手、と思えば今のところは苦労しなさそうだ。

 その機械はスマートフォンを知らない僕が表現するなら、『フレーム以外全部画面』の機械だ。黒いフレームの下側中央に白い家のようなマークがあり、左側側面に出っ張ったボタンらしきものがあるほかは、表面はほとんど画面だ。裏面には白抜きの数字で大きく『4』と書かれている以外にも、カメラでも付いているのか隅の方にレンズがあるのが分かった。

 赤ペン先生が『デバイス』と呼んだこの機械は、とにかく使い方がさっぱりだった。捜査するタイミングで渡すということは、素人探偵の僕たちの捜査をはかどらせるアイテムなのだろうと踏んでいたのに、これではどうしようもない。

 とりあえず、視聴覚室に着くまでに電源だけでも入れたい。まず手始めに家のマークを押してみた。でもこれ、ボタンじゃないな。ただフレームの下部にマークがあるだけだ。出っ張ってもないし、押しても手ごたえが無い。

 家のマークは諦め、左側側面の出っ張りだ。こっちはボタンっぽい。押してみると、奥へ沈む。それと同時に、画面が明るくなった。何とか電源は入ったみたいだ。

 東側昇降口から校舎に入り、近くの階段を上って二階に上がる。思い出してみれば、僕は上履きのまま外に出て赤ペン先生を呼びに行ったのだ。他のみんなと違って着替える必要も靴を履きかえる必要もないから、たぶんみんなより早く視聴覚室に着く。

 二階の廊下を歩いて視聴覚室を目指しながら、明るくなった画面を見る。どうもメニュー画面というやつらしい。上から『ルールブック』、『被害者データ』、『メモパッド』、『カメラ』、『フォルダ』と書かれている。『カメラ』で撮った写真や『メモパッド』で書いた内容を、『フォルダ』で見たり整理できたるするんだろう。『被害者データ』には、手縄くんの情報が入っていると思ってよさそうだ。この事件の被害者は彼ひとりだし。『ルールブック』には、『義務殺人』のルールが書かれているに決まっている。周知徹底が必要な事柄だ。

 問題は、どうやって見るかだ。パソコンと違ってマウスは無いし、ボタンは電源を入れるものしかない。えっと…………どうすんだ?

 ともかく、視聴覚室に着いてしまった。こうなったからには、捜査を進めるしかない。『デバイス』の使い方なら、後で誰かに聞ける。

 深呼吸を一回して、それから視聴覚室の扉を開いた。

 手縄くんの死体は、そこに僕が見つけたままの状態であった。発見当時は視聴覚室の後方にある扉から入った。今回は逆方向から視聴覚室に来て入ったから、前方の扉から入ったことになる。手縄くんの死体はこの位置だと、すべてを見渡すことができなかった。

「…………無花果か、遅かったな」

 誰もいないのではないかという僕の予想は大外れだった。そこには既に二名のクラスメイトがいて、既に捜査を始めていた。言わずもがな、御手洗くんと雲母さんだ………………って、え?

 御手洗くんは分かる。彼は体育の時の格好から着替えていない。それなら急いで走れば、西側昇降口で上履きに履き替えないといけないとはいえ、僕を追い越して視聴覚室に先回りできなくもない。でも雲母さんは? 着替えてるよね? いくら雲母さんでも、ちょっと無理があるんじゃ…………。

「あんな分かりきった説明、わざわざ聞かないわよ。体育館が暗くなった段階で着替えに向かったわ。更衣室は体育館の中にあるし、途中から赤ペン先生は拡声器でも使ってたみたいだから、更衣室の中にいても説明は聞けたわ」

「そ、そう…………」

 な、なら可能、だよね…………。そこまで急いで現場に駆けつける理由は、分からないけど。

「それで、あなたはどう思う?」

 雲母さんはズバリ、本題に入った。その特有の冷たい声は、どこか深く奥へ浸透していくような静けさだ。

「手縄くんの死因について」

「あ、いや、まだ見てないんだよ。この『デバイス』ってやつ、使い方が分からなくてさ」

 雲母さんは一瞬、キョトンとした。ああ、そんな表情もするんだ、とか、間抜けなことを思ってしまった。

 彼女は僕のデバイスに電源が入っているのを見て、『被害者データ』くらいは見たんだろうと勝手に判断したらしい。残念ながら僕には、電源を入れるまでしかできなかった。さすがの彼女も、僕がここまで何もできないやつだとは思っていなかったみたいだ。

「………………………………………………」

「………………………………………………」

「………………………………………………」

「………………………………………………」

「………………………………タッチパネル」

「…………………………………………はい」

 しばらくの沈黙の後、彼女が絞り出したあからさまなヒント(ほぼ答えだ)を元に、『被害者データ』の文字を指の腹で押してみる。触った感触はただのディスプレイだったけど、僕が触れたのを感知したのか、画面が切り替わる。なるほど、タッチパネルか。だからほとんどボタンが存在しなかったのか。

 『被害者データ』の一覧らしいものがでてきた。そこにはまだ、『手縄明』の名前しかない。

 ………………まだ? それは、これからここに、名前が増えていくということか。それを阻止する術は、今の僕には分からない。

 明日のことは明日決めよう。典型的な引きこもりの思考パターンであることは承知の上で、その考えを取り入れた。明日は明日の風が吹く。今はただ、この捜査に集中だ。

 『手縄明』の名前を押すと、さらに画面が切り替わる。出てきたのは……………………。

「…………死因、死亡推定時刻」

 何とか読めた。でも、それだけだ。僕には言葉の意味が分からなかった。

「意気込んでいた割には、手も足もでないって様子ね」

 雲母さんが静かに、そう僕に向かって言った。

「…………残念だけどね。僕は引きこもりで三年間学校に行ってない。これくらい、想定の範囲内だ」

「じゃあどうするの?」

 その青い目には、興味の色もうかがえた。それは僕がそう思い込んでいるだけかもしれないけど、いつもの青色には見えなかったのは確かだ。

 冷たさはいつも以上なのに。

 その目の青色は、濃さを増している。

 言うまでもない。目の色が日ごとに変わるなんてない。そんな異常事態は同じ青い目を持つ僕だって、体験したことは無い。だから目の青が濃く見えるのは僕の気のせいなんだろうけど、それでも、本当に気のせいなのか妖しくなるくらい、彼女の目の青は濃くなっていた。

 海のようだ。

「教えてください。お願いします」

 僕には選択肢が無い。自分で捜査をすると息巻いておいて情けない話だが、実は最初から、雲母さんか御手洗くんに教えを請うつもりではいた。

 雲母さんの瞳に宿る冷たさは、一瞬だけ和らいだ気がした。

「…………今回だけよ。次からは、自分で何とかしなさい」

「次が無いことを祈ってるよ」

 でも祈るだけじゃ駄目なのは、重々承知だ。

「たぶんあなたは、こういう専門用語を知らないんでしょうね。噛み砕いて説明するわ。ただし、説明には若干の私見が交じることになるから、後で必ず自分で確認しなさい」

 雲母さんも自分のデバイスを開きながら、説明を始めた。こんな説明を今更受けるのを後ろで捜査中の御手洗くんはどう思っているのか知らないが、彼は彼で黙々と捜査を続けていた。

「その『被害者データ』に書かれていることは、大きく分けて三つね。『事件現場』と『死亡推定時刻』、それから『死因』よ」

 手縄くんのデータを見る。ああ、雲母さんの言った言葉が、ちゃんと載っている。

「まず『事件現場』。これは見てのとおり視聴覚室でよさそうね。死体が動かされたとは思えないし。でも、事件によっては別の場所で殺害されて、その後で死体を移動させるケースもあるから、死体の移動があったかどうかは必ず確認しなさい」

「死体の、移動…………?」

 雲母さんの話では、少なくとも今回の事件では関係なさそうだ。でも移動させるケースがあるということは、犯人にとって死体を移動させた方が都合のいい場合があるってことだよな。それは心に留めておいた方がいいかもしれない。

「次に『死亡推定時刻』よ。これは要するに、被害者が死んだ時間を死後硬直の状態などから割り出したってこと。これが分かるか分からないかは、結構大きいわ。分かれば捜査の幅を格段に狭くできる」

「手縄くんの死亡推定時刻は、二時間目の間って書いてあるね。えっと、手縄くんは二時間目のどこかで殺されたと思っていいんだね?」

「そうなるわ。後でアリバイの話もあるけど、今は置いておきましょう」

 アリバイ…………。また難しい言葉がでてくるなあ。でもこれくらいのことで、弱音を吐いてもいられない。

「最後は、『死因』だね」

「ええ。これはつまり、死んだ原因よ。パッと見では分からない時も多いわ。今回は見た感じ包丁で胸を刺されたのが原因みたいだから、別に重視することでもなさそうね」

 …………確かに、『被害者データ』に死因は包丁で胸を一突きされたこと、と書かれている。そして手縄くんの死体には、包丁が刺さっている。デバイスに書かれていることと、見た目の状況に食い違いは無い。

 今回『被害者データ』で意識するべきは死亡推定時刻くらいか。そう言い切るのは早い気もするけど、今のところはあえてそう言い切った方が、頭が混乱せずに済みそうだ。

 重要じゃないことは切り捨てないと、僕の思考能力には限界がある。

「それで、『アリバイ』って何?」

「ほとんど常識みたいなものだから、説明に少し困る言葉ではあるのよね…………」

 雲母さんは口元に指を当てて、少し考えるような仕草をした。彼女は何気なくの一言なのかもしれないけど、『アリバイ』なんて専門用語臭のバリバリする言葉を常識と言われるとこちらも怯む。

 まるで僕が非常識みたいじゃないか。あ、間違ってはないのか。

「アリバイは日本語で、不在証明というの。無花果くん、あくまで基本的な考え方で話すわよ。犯行が起きた時間に現場にいなかった人間は、犯人じゃない。それは分かるわよね?」

「そりゃ、まあ。犯行が起きた時間に現場にいないやつが、どうやって人を殺すんだよ?」

「そうでしょ。その考え方を応用したのが、アリバイなの。犯行が起きた時間――――今回なら『死亡推定時刻』に事件現場にいなかったことを、あなたならどうやって証明する?」

 え、えっと………………。「僕はその時、事件現場にいませんでした!」は駄目だ。そんなストレートな意見、誰が信用するっていうんだ。そんなんじゃ証明にならない。

 証明と言うからには、客観的な第三者の意見が必要だ。でも、現場にいなかったことを証明なんて………………いや違う。そうじゃない。

「現場にいなかったことを証明するのが難しいなら、その時間に別の場所にいたことを証明すればいいんだ」

「その通りよ。まさか影分身なんてできるわけないでしょ。その時間帯に別の場所に『いた』ことが分かれば、自ずと犯行現場には『いなかった』ことも分かるのよ」

「その理論で行くなら、今回は…………二時間目だ。二時間目の間に、犯行現場である視聴覚室以外の場所に『いた』ことを証明できないクラスメイトが犯人だ!」

 話のタネが分かれば簡単だ。なんだ、結構簡単に、犯人が分かりそうだ。少し安心した。

 しかもおあつらえ向けに、アリバイとやらが必要になる時間は授業中。その時にいなかったやつなんて、簡単に分かる。そうなると問題は二時間目の教科か…………。なんだっけ? 今朝は体調が悪かったこともあって、ちゃんと覚えていない。

 でも時間割なんて、教室に戻って確認すれば済むことだ。そう思って移動しようとしたところで、背中がやけに冷たいのに気が付いた。

「……………………違う」

 違う違う違う。何かおかしい。僕は何か、とんでもない見落としをしているぞ。

 だって、二時間目は…………その時、僕は…………。

 これですべての説明は終わったのか、雲母さんは捜査に戻っていた。じっと、その冷たい目で磔にされた手縄くんの死体を睨んでいる。たぶんもう、彼女に助力を仰ぐことはできない。

「三人とも、何か分かったか?」

 視聴覚室後方の扉が開いて、遊馬くんが入ってきた。後には抱さんが続く。抱さんはおそるおそる、扉から顔だけ出して視聴覚室の全体を見渡した後、やっと入ってきた。一度体育館で死体の映像を見ているとはいえ、直に見るとなると覚悟がいる。既に一度死体を見てしまった遊馬くんと違い抱さんは、ここに来るだけで相当ストレスが溜まっていそうだ。

 抱さんは僕を見た後、目を逸らした気がした。…………やっぱり、彼女は気づいている。

「九くん、単刀直入に言おう」

 遊馬くんは抱さんと違い臆することなく僕の方まで歩いてきて、ズバリと言った。その声にも、表情にも、迷いが無い。最初から僕を見かけたら、初めに質問しようと決めていたみたいだ。

「君は手縄くんを殺してないよな?」

 誰かからそう言われるのは、もう分かっていた。それでも、頭と心がかき回されそうになる。僕はそれをぐっと抑えて、混乱を最小限に留めようとした。

雲母さんが説明してくれた『アリバイ』を考慮して話を進めるなら、僕が手縄くんを殺したことになる。そうなってしまう。

 手縄くんの死亡推定時刻、つまり犯行が起きたと推測できる時間帯は今日の二時間目中。金曜日は一時間目が英語で、二時間目が体育だ。そして体育は、男女別で行う。男子は運動場でサッカー。女子は体育館でバスケだ。

 その時間中にいなかった人物が犯人。アリバイの理論を適用するならそういうことになる。では、誰がいなかったか。僕はそれを知らない。だって、僕は体育の時間中、保健室にいた。体育館はともかく、運動場の様子なんて知るはずがない。

 僕自身がまず、体育の時間中にいなかった人物なのだから。

「…………殺していない」

「そうか。それが聞けて安心した」

 そんなことを言ってのける遊馬くんは、あまり僕の言葉を本気にしていないようだ。これから捜査をして結論付ける以上、当然のことなんだけど。

 それでも嫌なものだな、疑われるのは。三年前、僕がこの手を血に染めたときでさえ疑われたことが無いから、これは初めての経験だ。

 三年前は現行犯だったから、疑うも何も無いんだけども。

「遊馬くん、ちょっと聞いていい?」

「なんだ?」

 今のうちに確認することにした。クラスメイトのアリバイについて。

「僕の他に誰か、体育の時間中に抜け出した人を知らない?」

「…………いや、そうだな、僕と五百蔵くんと肉丸くんは、抜け出したことになる」

 あ、そうか。思えば、彼らも抜け出した一味だ。でも要因が肉丸くんの怪我であり偶然の産物なら、疑いの余地は無さそうだ。…………本当に、偶然の怪我ならね。

 一応、容疑者リストに五百蔵くんと遊馬くんを入れておこう。肉丸くんは、いいかな。肉丸くんは体育を抜けて保健室に来た後、ずっと僕と一緒にいた。僕が彼から目を離したのは、鴻巣先生を探すために遊馬くんと一緒に行動した時だけだ。そしてその直後、手縄くんの死体を発見している。

 足を怪我して軽く引きずっていた肉丸くんに、犯行は無理そうだ。足を引きずっていたのが演技の可能性もあるけど、それでも彼は犯人じゃないと思える。

 手縄くんの死体には、五分や十分のラグでは犯行が不可能な『別の問題』がある。その問題については後で考えるとしても、その問題から肉丸くんのアリバイは、真っ白とは言い難いけど、成立していると言える。

 その『別の問題』を考慮すると残る二人もアリバイが成立気味だけど、そこはヤケクソでも残す。肉丸くんよりはアリバイが崩れかかっている。考える価値はある。

 まず確実に、自分の頭で結論付けなければならないのは、『僕は犯人じゃない』ということだ。ミステリーには可能性の問題として、謎解きをする探偵自身が、自分が犯人である確率を残したまま捜査を進めることがあるらしい。そんなことを、御手洗くんが言っていたような。あるいは、他の誰かから聞いたんだっけ? ともかく、そういうこともある。

 でも今は、今の状態はミステリーでこそあれどフィクションじゃない。加えて僕は探偵なんて大仰な役所でもない。自分が犯人なんじゃないかと思い始めたら、それこそ正常な思考能力を失いかねない。

 僕は犯人じゃない。僕に夢遊病の診断は下されていないし、多重人格なんてこともない。僕、九無花果は絶対に犯人じゃない。

 それが主軸。素人の僕でも唯一揺らがない、絶対の中心。

 そこから考えれば、僕以外の犯人がいるということもまた、絶対だ。それならば考えるだけの価値がありそうな五百蔵くんと遊馬くんは、悪いが僕の容疑者リストに入れさせてもらおう。

「遊馬くん、君たちが保健室に来たのって…………」

「…………授業が始まって、三十分後くらいか」

「女子たちのアリバイは?」

「完璧だ。阿比留さんと抱さんから聞いたよ。あえて言うなら、抜け出したのは鴻巣先生ひとりだ」

 じゃあ、女子陣が犯人ってことは無い。女子陣全員が口裏を合わせていたとか、ひとりだけ抜け出した鴻巣先生が犯人だったとかそういう可能性も考えない。考え始めるとキリがない。そういう常識を逸脱した線は、本当に行き詰ったら考えよう。

 女子の全員(女子は全部で十五人だっけ?)が口裏を合わせるなど不可能に近い芸当だ。反対する何人かが出てくるに決まっている。鴻巣先生が犯人だっていうのも、同じくらい可能性は低い。思えば『義務殺人』のルールに『教員が生徒を攻撃するのは禁止』とは書かれてなかったから、うっかりすると教員の殺害はルール上OKなのかもしれない。でもプログラムの工作員であり、『義務殺人』においては中立に立つのが仕事だと言っていた鴻巣先生が、殺人なんて。第一、殺人の報酬とも言える『環境の整備』は生徒用であり、鴻巣先生が受け取る理由はどこにもない。

 考えるだけ、無駄に思える可能性なのだ。つくづく素人の僕がそんなことを考え始めたら、何も分からなくなる。

 多少強引でも切り捨てろ。もし必要なら後で拾えばいい。それくらいのスタンスが、素人の僕には必要だ。

「じゃあ、最後に聞くけど…………」

 情報と指針を整理し終えた僕は、遊馬くんに対して最後の質問をした。それは、彼の格好にまつわるものだ。

「なんで着替えないの?」

 遊馬くんが着ていたのは、体育の時に着るジャージだった。普段着ではない。着替えなかったみたいだ。それとも何か、肉丸くんみたいに着替えられない理由があるんだろうか。

「御手洗くんが着替えるなと言ったんだ」

 僕の疑問に対する遊馬くんの答えはストレートで、彼は手縄くんに向けてデバイスをかざしている御手洗くんを指しながら言った。御手洗くんは手縄くんの写真でも撮っているのかもしれない。

「犯行現場は確かに視聴覚室だ。でも、犯人が証拠を隠す場所は学校中のあちこちにある。もし下手に動かして証拠が消えたら大変だ…………と御手洗くんが提案したんだ。僕も、それには賛成だ」

「じゃあ、男子は着替えてないんだね。でも……女子は?」

 手縄くんの死体の前にいる抱さんが今着ているのは、白いワンピースと桜色のカーディガン。どう贔屓目に見ても運動する格好じゃない。雲母さんは高速で着替えたから止める暇もなかったとして、抱さんが着替えているのは………………?

「僕は女子たちにも、着替えるなと言ったんだ。でも阿比留さんが…………」

「『汗まみれで捜査なんてできないでしょ!』、かな?」

「……そう、まさにそんなことを言ったんだ。どうも女子は今回の事件とは無関係みたいだから、僕としても強く言えなかったんだ」

 阿比留さんが絡んでるんじゃ、仕方ない。そう思えてしまう僕も、ずいぶん阿比留さんに慣れたものだ。ま、着替えることによって証拠が消える可能性があるなら、誰よりも先に雲母さんが止めていないとおかしい。その雲母さんが着替えて捜査をしているんだから、女子が着替えたところで捜査に支障は無いと見るべきだ。

それでは一応、聞くことも聞いたし、そろそろ引き伸ばしも限界だ。

 手縄くんの死体を調査しよう。

「…………まず、全体を見た方がいいかな」

 やることをいちいち呟いて確認しながら捜査を進めることにした。乗り物の点検なんかでは見落としを防ぐために声を出して項目を確認しながらすると言うし、それに倣った方が見落としも少なくなるかもしれない。

 なんでもいいから、スタイルを作るべきだというのが本音だ。これからどんな事件に遭遇しても、どんなに頭が混乱しても、一通りの捜査はできるように、決まり切った型を作りたい。

 プロスポーツ選手がするところのルーチン。手縄くんなら、イチローがバッターボックスに立った時にユニフォームの袖を捲る、あの仕草を真っ先に思い出しそうだ。

 自分の呟きに従って、手縄くんの死体の全体を見渡すことにした。

 手縄明。彼は黒い柄の包丁で胸を刺されて死んでいた。『被害者データ』を見ても、この死体の状態を見ても、死因がその包丁であるのは一目瞭然だ。それ以外には、どうだろう。特に傷らしいものはないけど…………頭頂部に、瘤らしいものがあるな。

 この瘤は生まれつきだろうか。…………あ、『被害者データ』にはちゃんと、『頭頂部に殴打の跡あり』って書いてある。じゃあこれは、殴られた跡か。

 さらに視野を広げて、全体を見よう。手縄くんの死体は、磔にされているのだ。その様子を、しっかり観察だ。

 手縄くんの死体は、ロープで磔にされている。二本のロープで手首をそれぞれ縛り、そのもう一方を天井の隅にあるフックに縛っている。そのため、手縄くんの死体はT字、どころかY字の格好でぶら下げられている。両足首は結束バンドで固定されてるし、完全なYだ。頭だけがだらしなく、垂れ下がっている。足は床に着いておらず、床から三十センチくらい上にある。浮いていたせいで、僕と遊馬くんはスクリーンの裏に死体があるとは、すぐに気付かなかったのだ。もし足が床に着いていたら、足元に出来た血溜まりに目がいった瞬間、足も見えていたはずだ。

 その血溜まりは、今はもう固まっているみたいだ。それでもそこに足を踏み込むのには、勇気がいる。御手洗くんや雲母さんは、もうズカズカと踏み込んでいるけど。

「…………これが問題だ」

 僕がさっき思った『別の問題』とは、この磔のことだ。こんなことを手縄くんを殺害した後でやってたら、五分十分では時間が足りない。せめて三十分は欲しい。磔にするだけじゃなく、返り血を落とす時間も必要なのだ。

 残念なことに僕には、その三十分がきっちり用意されてしまっていた。これは想像以上に鉄壁の疑惑だ。僕だって遊馬くんたちのポジションに立てば、僕を怪しいと思うに決まっている。

 容疑者リストに入れた五百蔵くんと遊馬くんは、どれくらいひとりでいたんだろう。それは後で、他の誰かから聞いて確かめるしかない。でも、三十分も空いていたとは思えない。保健室に三人が来てから、僕と遊馬くんが死体を発見するまで、三十分は無かったはずだ。

 そんなに間が空いていたら体育の時間そのものが終わってしまう。僕が死体を見つけて赤ペン先生に連絡する時には、まだ運動場ではサッカーが継続していた。終わりかけでもなく絶賛続行中。そうなると、三人が保健室に来てから死体を発見するまでの間は五分か十分くらい。それ以上はどう頑張ったって確保できない。

 十分で殺害? どうやって? どういう方法を取れば、十分程度で手縄くんを殺害して磔にして、みんなの前に姿を現せる?

「そこは、後で考えられる。今は手縄くんの死体をよく見て、情報を集めよう」

 次にやるべきことは決まった。じっくりと、気になるところを見よう。

 抱さんは未だ踏ん切りがついていないのか、それともそれ以上近づく気は無いのか、血溜まりの前にずっと立っていた。睨むように手縄くんの死体を見ている。後姿しか今の僕には見えないけど、小さな肩が少しだけ震えている気がした。

 …………そうか。僕を除けば、抱さんと肉丸くんくらいなんだよな。この一週間ほどの学校生活で、手縄くんと親しくなったと言えるのは。手縄くんは自分から周囲に壁を作って、誰とも仲良くしようとはしなかった。それに、彼の印象が悪かった。『義務殺人』に一際意欲を燃やしていた生徒。赤ペン先生が手縄くんに対して使った表現どおりの評価が、クラスメイトには浸透していた。

 体育館であの時感じた『足りない物』。その正体は抱さんが持っていた。悲しみだ。

 体育館には、『驚愕』や『混乱』はあっても、『悲愴』は無かった。いや、みんな悲しんでいたつもりかもしれない。でもそれは、画面の向こうに映る凄惨な事件を見た時に感じる悲しみだ。他人事の、おままごとみたいな感情。

 決してクラスメイトの死を悲しむのに、足りる感情じゃない。

 クラスメイトのほとんどが、精々『人を殺しかねない厄介な奴が死んでくれて助かった』くらいにしか思っていない。自身が手縄くんの死体を見たことで、感情の起伏は確かに生じた。でも、手縄くんが死んだという事実で、感情を動かした人間はほとんどいない。

 いるとすれば、抱さんと肉丸くんだけ、か。

「………………………………」

 そんな冷淡なクラスメイトを、僕は責めることができない。僕はそんなクラスメイト以上に冷淡だ。手縄くん以外の誰かが死んだら、他の生徒は悲しみを感じるのかもしれないけど、僕はたぶん、何も感じない。

 だからこそ、その冷淡さは、捜査に生かすべきだ。そうでないと、ただの冷淡で終わってしまう。僕はその後に、逆説の接続詞を求めている。

 でもだけれどしかしそうではあっても。

 僕は冷酷な奴じゃないはずだ。

「…………抱さん」

 僕は手縄くんの死体を検分する前に、抱さんから話を聞くことにした。もちろん、女子陣のアリバイについて。疑っているわけではないけど、遊馬くんの言ったことに齟齬や事実誤認があると困るからだ。

 それに遊馬くん自身も、阿比留さんと抱さんに聞いたうえで結論を下していた。彼も齟齬や事実誤認を警戒したのは明らかだ。そのテクは、真似させてもらおう。

「…………………………っ!」

 抱さんは僕の声に、大げさなまでに肩を揺らした。そして僕には目もくれず、走って僕の横を通り過ぎていく。

「…………抱さん? ちょっと」

 僕の言葉は、彼女の耳に届かなかった。抱さんは歩みを止めることなく、視聴覚室を飛び出してしまう。その後を追おうかとも思ったけど、それは後回しにした。

どうも僕は、徹底的に疑われているみたいだ。軽く肩をすくめて、手縄くんの捜査に戻ることにした。

 本当はもう捜査なんて止めて引きこもろうかとも思うくらいショックだったけど、こんなところでショックを受けている暇はない。どうせ僕の無実は『緊急HR』とやらで明らかになることだし、焦ることはない。

 他のみんなが犯人じゃない僕を疑うところからスタートするのに対して、僕はその一歩先からのスタートだ。そう思えば意外と疑われるのも辛くない。

 抱さんを今追っても、逃げられるのは自明の理だしね。少し間を開けてからの方が良い。……っていうかアリバイの確認なら、抱さん以外の誰かに聞けばできるか。抱さんに拘る意味――意義はどこにも存在しない。

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