#1 無花果の日常はあっさり崩れた

 僕の普段の生活は、特筆することなど何もなく終わるのが常だ。そういう生活を、かれこれ三年はしている。きっと日記を書けと言われたら困る。大学ノート一冊を埋めるのに十年はかかるかもしれない。

 どれだけ特筆することが無いというと、こんな感じ。

 朝、起きた。昼、寝た。夕方、また起きた。夜、寝た。

 世間一般では僕のような人間を『ニート』あるいは『引きこもり』と呼ぶのかもしれないが、僕はそんな高尚な生き物ではない。ニートや引きこもりの方が、よっぽど時間を有意義に使っていると僕には思える。

 時は金なり。その言葉の通りなら、僕ほどの浪費家も珍しい。

 僕はこの六畳のスペースで、無為に無駄に時間を食らって生きているだけだった。

 テレビを見る気も起きないし、パソコンを立ち上げる気力もないし、本を読む学力はないし、漫画を読む趣味はないし、勉強するなんて夢のまた夢。

 「そんな人生が、まさかあの時をきっかけに変わるなんて…………!」

 と、そんなお決まりのセリフを挟んでみても、僕の人生は変わらない。きっかけがない。

 それが普通。それが日常。それが毎日。それが通常。そしてそれが無限に続いた。

 はいおしまい。

 人間という生き物は飽きっぽい。寝続けると寝るのにも飽きるのか、引きこもり六か月で寝るのに飽きた。それ以来、僕は五時半に起きるのを日課にしていた。

 理由のひとつはさっきも言ったように寝るのに飽きたからだけど、もうひとつ理由がある。両親が寝ている間じゃないとできないことがあった。

 風呂、歯磨き、食糧調達だ。両親に会いたくない僕としては、両親が寝ている間にこれらを済ませるのが一番良い。

 今日が何月何日の何曜日かはさておくとして、朝の五時半になったのは確かだった。僕は今日も今日とて、日常の中を生きていた。

 僕が風呂と歯磨きを終わらせた時までは、日常だった。

 食糧調達を始めたころから、非日常が襲ってきた。

 いうなれば僕のこれから始まる一年とは、そういう話だ。


 食糧調達が始まって数分が経過したころ、チャイムが鳴らなかった。

「…………え?」

 チャイムは鳴らず、玄関のロックが解除される音が鳴り響いた。僅かな音のはずなのに、静かな家には響く。特に警戒していたわけでもなく耳をそばだてていたわけでもない僕の耳にも、音が聞こえた。

 両親のうち、誰かが帰ってきた? いやいや、それはない。今日も今日とて僕が日常の中を生きるように、両親も日常の中を生きている。両親はちゃんと、二階で寝ているはずだ。

 じゃあ誰だよ。

 玄関の扉が開く音がした。音を立てないよう注意している開け方とは思えない。これは空き巣にしては、乱暴じゃないか? 開き直って押し込み強盗気取りだろうか。だとしたらとんでもなくまずい。ただの空き巣なら僕を見てすぐに撤退するかもしれないけど、強盗だと僕を見てむしろ襲い掛かってくるかもしれない。

 少しずつ足音が近づいてくる。やっぱり、何かを警戒しているような印象は受けない。見つかったら見つかったで、目撃者をどうにかする用意があるのだろう。あるいは、見つからないと思っているのか? この家が留守だと勘違いして?

 それはあり得ない。ガレージは玄関の横だ。車が二台も止まっているのを見て留守だと思う空き巣がいるものか。そうなると絶望的な答えだが、侵入者が空き巣であれ強盗であれ、別の誰かであれ、目撃者を排除する能力を有しているということだ。

 どうする? ここはキッチンで僕は冷蔵庫あさりの真っ最中だ。冷蔵庫の中なら金目の物はないし、隠れるのにはうってつけか? いや、それを見越して冷蔵庫の中に金銭を隠す人は多い。むしろ空き巣にとっては、真っ先に探すべき場所の筈だ。

 他に隠れる場所は、キッチンにはない。食器棚には既に大量の食器が鎮座していて僕の入る余地はない。流し台の下にある戸棚も同じく調理器具が詰まっている。これらを出してしまうという手段も考えられるけど、残念ながら僕にはそんな悠長なことをしている時間が無い。

 そうなるとキッチンに隠れるという作戦は考えられない。もっと隠れるスペースの多い場所へ移動するべきだ。一番理想的なのは、最も金品が少ないと思われる風呂場やトイレだ。そこなら空き巣だろうが強盗だろうが、来る可能性が少ない。

 ただ、移動する時間すらなかった。風呂場やトイレに移動しようとすると、玄関を抜けて今まさに廊下を歩いている犯人に遭遇する可能性が高かった。結局、この場を動くことも難しい。

 ただひとつ考えられる手段があるとすれば、迎撃か。

「おお、いたいた」

 唯一と思えた打開策も、しかしここで手詰まりとなった。侵入者は僕のすぐ目の前にいた。考え事に夢中になりすぎて、僕は侵入者の気配を察知する作業を疎かにしていた。

 侵入者は、黒いスーツを着た男だった。およそ空き巣や強盗の類とは思えない。どこかの省庁の役人という印象だ。黒いサングラスを嵌めているせいで、目元をうかがうことはできない。

「だ、誰だ!」

 思わず声を上げる。侵入者の男は僕が大声で叫んだにも関わらず、特に焦る様子が無い。僕の予想通り、目撃者に対する警戒を行っていなかった。

 それが逆に、不審感を加速させる。空き巣にも強盗にも見えない。そして両手に何か凶器を持っているわけでもない。そんな人物がどうして、目撃者への警戒を行っていないのか。

 まるで家主の許可を得て、今の行為に及んでいるように見えた。

「まあまあ落ち着け。俺は別にお前を取って食おうって腹じゃねえ」

 男は笑みを浮かべながら僕を宥める。

「俺はちょいと、お前の両親に頼まれたんだよ。お前を説得する役をな」

「説得? 何を…………?」

 男の物腰は比較的柔らかい方だった。だからといって、すぐに警戒心を緩めるほど純粋な僕ではないけれど。

 男の正体は気になるところだ。でも、今僕の頭を支配したのは男の台詞だった。どういう意味だ、両親に頼まれたとは。説得?

 ただひとつ理解したのは、男が侵入できた理由だ。どういう経緯であれ家主である両親から許可を貰っているのなら、無警戒に侵入してきたのは頷ける。両親が起きてくるのを警戒しないのも納得だ。この家の中で侵入者を不審がるのは、僕以外にいないのだから。

「頭ん中がはてなマークで一杯って感じだな。ま、そいつは誰だって同じだ。詳しい説明は後だ。ついてこい」

「…………はあ」

 どうにも、逆らえる雰囲気ではなかった。既に僕は場を支配する流れに飲まれている。ここで断ることに何の意味もないと思えた。少なくとも強硬策に相手が出ていないのだから、怪我をしない内に大人しく従っておくのが吉だ。

 実際、この男の言うとおりだ。頭の中にはてなが飛び交う。新しい情報は次々と流し込まれているのに、何一つ説明がなされていないのだから。さっきの男の台詞。『誰だって同じ』ということは、僕以外にもこんな目にあっている人がいるのかもしれない。

 とぼとぼと後ろを歩いてついていく。ついていくって言ったって、ここは僕の家だ。ここに引っ越してきてからほとんど自分の部屋を出ていないとはいえ、構造は把握している。男が向かっているのが玄関だということも理解できる。

 案の定到着した玄関で男は靴に履きかえて、外に出る。素人目に見ても高級そうな革靴だ。意外と高官なのか。でもそうは見えない。そうなるともしかして、金になる裏取引でもしているのか。

 一気に男のイメージが悪くなる。いや、僕の偏見なんだけど。

 僕も靴を履こうとしたのだけどサイズが合わなかった。思い返してみれば、外に出るのは3年ぶりか。サイズが合わなくて当然だ。引きこもっていた間、靴なんて買い換えていない。

「靴なら、そこにあるんじゃないか?」

「……はい?」

 男に指差された先を見ると、隅に埃を被った新しいスニーカーがあった。誰のものかは分からない。でも、サイズ的には父親のものじゃない。デザインから見て、母親のものでもない。僕に兄弟姉妹はいないから、そうなるとこれは僕の靴ということになる。

 まったく心当たりがない、わけではない。きっと僕が外に出る時に困らないよう、両親が買っておいたのだろう。性格を考慮すれば、全然ありえない話じゃない。

 埃を払って履いた。頼んだ覚えこそないけど、善意は無駄にできなかった。

「外に出るのも久しぶり、か」

 外に出ると、太陽の光が眩しかった。天井……じゃなくて空が高い。蛍光灯の光にはない暖かさが頭に降り注いだ。

「こっちだ、が、その前に。一応本人確認をしよう」

 侵入者が声をかける。そっちを見ると、黒塗りのバンが一台止まっている。窓にスモークが掛かっていて、運転席の様子すら覗けない。顔にも見えるバンのライトを見ていると、バンが『今から誘拐に行くぜ!』と意気込んでいるみたいだった。 それくらい、犯罪結社の臭いがした。

 今更ながらやばくない?

「えーっと、顔写真は問題ないな。双子じゃない限り」

 そんな心配をよそに、男は一枚の紙と僕を交互に見て何やら確認作業をしている。あの紙に、僕の顔写真でも貼ってあるのか。

「じゃあ聞こう。お前、誕生日は?」

「なんでそこから聞くんですか?」

「ほら、本人確認って言っただろ。最初に名前聞いたって意味ないんだよ」

「…………四月四日」

 ていうか、この期に及んで入れ替わりの心配かよ。してる暇なんてなかったよ。

「血液型は?」

「A型」

「人種は?」

「日本人。おそらくクウォーター」

「よし。最後に、名前は?」

いちじく 無花果いちじく


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