雨の日

camel

雨の日

 落ちた私を拾って帰る男がいた。ひん曲がった私の死体をさも大事そうに抱きかかえている。まるで王子様だが、男は暗い表情でおじさんとも若者とも言いがたい顔をしている。

地面に残された血の跡はそのままだ。私が飛び降りたことを警察は解明するのだろうか。しとしとと降り出した雨に消えていく血とわずかな肉片。猫の死体だと思われそうだ。

 男は馴染みのアーケードを通り、雨にあまり濡れることなく運んでいく。小汚い路地の庇もよく知っている。辿り着いたのは二階建てのアパートだ。かんかんと鉄筋の階段を上り、細い通路の一番奥の部屋、205号室の鍵を開けた。

 和室のワンルームには敷きっぱなしの布団と小さなちゃぶ台がある。男は迷いなく死んだ私を布団に寝かせた。シーツが泥と血に濡れていくのを私はぼうと見ていた。

 このまま犯されるのだろうか。まだ経験したことのない不気味さが、体を無くした今も感じられた。しかし、男は私の潰れた顔を丁寧にタオルで拭う。制服のスカートの中も覗かず、太股を、腕を拭う。靴下だけ抜き取り、最後に足を丁寧に拭き取った。湿り気を帯びたセーラー服は、男によってあらかた皺を伸ばしてもらった。

「……セイコさん」

 男は私ではない名前を呼んだ。死して名前など不要であると思い、私は私の死体を「セイコさん」とした。

 男はセイコさんにぽつぽつと謝罪を始める。最初に聞き取れなかった言葉は何度もどもりながら伝える「ごめんなさい」だ。男の口元に耳を近付けて聞き取った。

 謝罪せざるをえない原因を語ってはくれないか。私は男とセイコさんの間に腰を下ろした。

「ごめんなさい。セイコさん、あなたを見殺しにしました」

私は勝手に死んだのだが、セイコさんは見殺しにされたらしい。どうしてと口に出す私に応えるように、男は続いて口を開いた。

「あなたが苦しんでいるのは分かっていました。でも、あなたが僕を見てくれないことを分かっていましたから。それが悔しくて、あなたが身を投げるのを止めることが出来ませんでした」

この疲れた顔の男は投身自殺を二度も見ているのか。不運な男だと思う。そして、私もこの男の真下に落っこちてしまったことを多少悪く思った。

「でも、やっと救うことが出来ました。なんせ、セイコさんは川に身を投げてしまわれましたでしょう?」

 男は私とセイコさんを混同しているようで、そうではないようだ。

「今度は救ってあげられます。心臓がまだ動いています」

 嘘だろう、私はまだ生きているのか。5階では駄目だったか。頭を抱え、恥ずかしさにまた死にたくなる。

「そういえば、見殺しにしてしまった代償に、セイコさんをいじめていた女いたでしょう。あいつに仕返しをしておきました。もう外には出られません。一人で歩くことも出来ません」

これが証拠ですと、押し入れから出してきたのは赤黒く染まったセーラー服だ。私と同じ高校の校章が見て取れる。どうやら、セイコさんは先輩だ。そしてこの男はOBということになる。何をしたかは聞かなくても想像がついた。

 嫌悪感とともに、眉を潜めると、セイコさん及び私がぴくりと動いた。ああ、もうすぐ私は起きる。このいかれた男の前で動けない体を晒すのだ。寒気がした。

「セイコさん、今度は僕が支えてあげます」

「やなこった……」

 私が絞り出した声に男はたじろぐ。

「仕返しは、私がする」

意識がはっきりすると、痺れたような痛みと刺すような痛みが全身のあちこちに感じられる。口の中は血の味だ。ひん曲がった鼻が特に痛い。

「救急車、呼べ」

私の低い声に男は受話器を持った。慌てたように、番号を押す。電子音と自分の呼吸が妙に大きく聞こえる。

「あの、その……」

先程までの丁寧な言葉使いが消えている。

「貸せ」

男に指示すると怯えながら、私の耳元に受話器を寄せる。

「××町6丁目2番地、岩西荘205号」

不思議なくらい頭は住所を記憶していた。オペレーターの声を聞かずに、私の口は動く。

「落下。死にかけ。たすけて、おねが……」

そこでまた意識が落ちた。






――気付いたときには病院にいた。

母が泣いている。

「やっぱり死んだか」

「死んでないわよ!」

母の怒りを込めた声に、安堵した。

「あの男は?」

「助けてくれた人ね。それが、どこにもいなかったのよ」

「え?」

「あんたが倒れていた部屋ね、空き家だったの」

「電話したのに」

私の疑問に母も首を傾げた。

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雨の日 camel @rkdkwz

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