第13話 美しかった人




「真司さん、ちょっと休みましょうよ。」僕は声をかけた。


真司さんはその姿勢からは想像できないほど、てきぱきと歩いた。車道を2時間くらい歩いただろうか。ようやく真司さんが立ち止まった。




「ここからは本当に来なくていい。荷物をかしてくれ。」


真司さんは僕の胸ポケットに気前よく1万円札を入れた。僕がびっくりしていると、真司さんはおどけた様子で「もう一枚ほしいか?」と言った。




真司さんは唖然としてる僕から荷物を受け取ると、かわいげな標識のある場所から、登山道らしき道に入っていった。僕は横目でその標識を見た。その標識に書かれていたのは山の名前ではなかった。




『この先 立花精神療養施設 2km』


その標識には二匹のクマが楽しそうにじゃれている絵が描かれていた。






僕は彼を見失わないように、急いで追いかけた。




足場も悪く、歩きにくい。しかし真司さんは足早に進んでいく。この道を歩きなれているな、と僕は思った。




道は徐々に徐々に、険しくなっていった。汗が噴き出るように出ているのを、ありありと感じる。大丈夫だろうか!?先ほどの看板からは、恐らくまだ1kmも歩いていないだろう。視界がだんだんぼんやりしてきた。




「コッコ!コッココッコ!!」




ついにおかしくなったのだろうか?目の前に幼女が見える。まだ5歳くらいではないだろうか。髪をおでこの上で束ねている。




真司さんはやれやれという風に頭をかいたが、走ってくる彼女を優しく受け止めた。「コッコおりょーりつくってよ。てになにもってる?」


幼女は真司さんが手に持っているクーラーボックスを指さす。かわいい指だ。




真司さんはため息をつきながら、中を見せた。


「あー、エビさんだあ。つくってよ♪つくってよ♪」


「いや、これは……」


真司さんは真剣に迷っていた。この子は療養施設に入っているんだろうか。見たところ、元気いっぱいの子なのだが。




しかしこの子が療養施設にいる理由は、この子の母親の姿を見た瞬間にすぐ分かった。




木造の、古風な療養所に着いたとき、一人の女性が、玄関の前に立っていた。


「奈菜、だめじゃない。勝手にいなくなっちゃ。」とその女性が言った。


「紗千さん、珍しいですね。あなたが外に出るなんて」と真司さんが言った。


この人だ。療養中なのは。幼女の母親が精神を病んでいる。




美しかった人だ。この人は。




奇妙なことを言うようだが、僕のその女性に対する“第一印象”はこれだった。もちろん僕は彼女に以前会ったことはない。しかし彼女の顔には美しかったころの面影が多くある。画家が一日かけて丁寧に描いたような形のいい鼻、肉眼ではとらえられない左右非対称性、顔の各パーツの配置の良さ、……。




しかし、彼女はもう美人ではなかった。




その目は一切の光を放たず、闇を放っていた。


その肌は今にもパラパラと落ちそうなほど、粉っぽく乾燥していた。


その表情は一年間誰とも話さなかった人のそれのように、柔らかさを失っていた。




「お久しぶりです。紗千さん。」と真司さんが言った。


「お久しぶり。真司さん。」美しい声だが、――残念なことに――声にも生気は感じられなかった。




「いつぶりかしらね、こんなに傾いちゃって。」紗千さんと呼ばれる女性は、マネをして体をかたむけて見せた。うん。なかなか似ている。気が付くと彼女の声にほんの少し生気が宿っていた。笑っている。この女性は、何年振りかに笑っているのだ、と直感的に思う。




「あなたが斜めでも、もう誰もうれしかないわよ?」その女性は嬉しそうに言った。




僕はまったく会話に入っていけないもどかしさを感じながらも、ちょっと離れた位置で黙って耳を澄ませていた。



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