第2話 呪いたい一秒間



私は台所に行って、お母さんが最近買ってきた『コッコの自信作 全部見せます』っていう料理のレシピ本を取り出したの。まあ、私は料理本なんて読んだことなかったんだけど、この本の存在は知ってたのよね。




表紙の「コッコ」っていう若手の料理人が、かっこよくて大好きだからって言って、お母さんが大切にしてたの。それについてお父さんはちょっと複雑な顔したけどね。お母さんが「私は人を顔で判断してるのよ。あなたを選んだのも、あなたの顔には誠実さがにじみ出てたからよ。」なんて言うものだから、お父さん、すっかり機嫌を直してたわね。ウフフッ。ごめんなさいね。懐かしくて、つい。




僕は彼女に合わせてほほ笑み、軽く首を振った。






裕子さんの話は、結構飛ぶ。でも、僕には、すぐに路線を戻すことができない。彼女だって、きっと思い出すだけでつらいのだ。なんとか迂回しながらじゃないと、核心の部分は話せないのだろう。




10秒間ほど沈黙があって、彼女はまた話し始めた。




私は料理が下手だった。でも、誰かをワッと驚かしてやりたい。そんな気持ちは常に持っていた。




例えば中学校の時、合唱コンクールで、途中まで他の子の声がかき消されるくらい大きな声で歌った。でもそれだけじゃなくてね……途中から、男性パートに(勝手に)移行する、っていう前代未聞の荒業をやっちゃった。(これは、後日、数人のクラスメートと先生に非難されたけれど。)高校生の時は、球技大会のバレーで、足だけを使ってプレーしてみた(私は6年間サッカーをやっていた)。もちろん余裕で優勝できたからよ。これは男子からは、一切批判されなかった。女子からは……想像に任せるわ。




もちろん、こんなことすべきではなかったって多くの人は言うだろうけれど、私にはこれが必要だった。こういうことをしている時が、一番楽しかったのよ。私。将来の夢はぜんぜん決まっていなかったけれど、(どうしても、どうしても)サプライザーになりたいって毎日おもっていたわ。




この話をしているとき、裕子さんはとてもいきいきとしていた。生命力が服を着たんじゃないか、と思うほどに。裕子さんが一番、裕子さんになれる瞬間だった。






今度の沈黙は長かった。30秒。たいした事ないと思うだろうか。




彼女と、火傷についての話している僕を思い浮かべてほしい。そして、30秒数えてみてほしい。なんならあなたも、この世界へ飛んできてくれ。その時間がどれだけ長く、どれだけの重みをもっているかが、わかるはずだ。






「あたしねえ」沈黙の後、裕子さんはいきなり涙声になって僕の肩に倒れ掛かってきた。僕は細い腕で必死に彼女の肩を抱いた。




「その日も両親を喜ばせようと思ったのよぉ。…………。さすが18歳だな、ってそういってもらいたかったの。だから、人生で一度も作ったことのない天ぷらを、ゴホッ、私のお父さんの大好物の天ぷらを、食べきれないくらいたくさん作ってやろうと思ったのよ……」




それから裕子さんは天ぷらを作っている途中で、大やけどをしてしまったと言った。その部分は、非常に短く、脱線することもなく、ただただ事実をシンプルに伝えた。あまり思い出したくないようだった。何か大切なものをかばっているような気もした。思い出したくないことは、思い出さなければいい。極めて当然のことだ。






そして18歳の初めの日、彼女が行ったのは、多くの友達が待つ賑やかな学校、ではなく静かな病院だった。彼女が受け取ったのはサプライジングな誕生日プレゼントではなく、定石どおりの治療だった。




裕子さんがその後、鏡を見た時の絶望感は、想像を絶するものだった。右ほおにできた大きな火傷の痕。それは彼女自身を超えた存在感を放っていた。裕子さんはこう、悟ったそうだ。これでもう、道行く人が「私」を見ることはない。私の火傷をみることは、往々にしてあるだろうけれど。




それから裕子さんは、来る日も来る日も自分を殺し続けて生きた。以前のように人のやらないことをやるのをあきらめ、目立たないようにすることだけが彼女に求められたことであり、彼女が求めたことでもあった。






生来のサプライザーが、内気な少女として生きていくことを余儀なくされたの。ねえ、神様って残酷だと思わない?




裕子さんは一度、深いため息をついた。そして、「ごめんね。この話、いまするにはちょっと暗すぎるわよね。」と言った。




「いえ。」


「まだ聞きたいかしら?」




聞きたい、と僕は答えた。それは本当のことだったし、第一ここで聞きたくないなんて誰が言えるだろう?




彼女は一瞬子供みたいにニッと笑って見せ、それからかなり険しい顔になった。




今はもう慣れたんだけどね、やけどを負って間もない時は外を歩くのがつらかったわ。




「わかります」




言ってしまってから、僕は自分の発言を反芻した。わかります?ぜんたい僕に彼女の何がわかるんだ?




裕子さんはありがとう、と言ってほほ笑んだ。そして続けた。






道ですれ違う人がチラとこちらを見て、一瞬驚いた顔を見せ、一瞬申し訳なさそうな顔を見せ、一瞬こちらを哀れんだ顔を見せ、そして慌てて目をそらす。不自然にドギマギとしてね。それは全部でもたった一秒くらいの短い時間よ。それでもね。いまでも私にとってその刹那は、そのほんの一秒間は、呪いたいくらいに不快な時間なの。




僕は唾をのんだ。




そして、「でも」と裕子さんはつぶやいた。 




でも、私、ある意味ではちゃんとなれてるのか……




サプライザーに。




これを言うとき、裕子さんはまるで昨日人を殺して、今日も殺すんじゃないか。そんな貌をするのだった。そして、恐ろしいことに、それは事実なのだ。




僕はただ、口をもごもごと動かし、そして結局何も発しなかった。僕にはそれしかできなかった。僕にはなにもできなかった。


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