帰宅当日、申の刻のこと

 と、いうわけで。


 あの馬鹿(有能な秘書ともいう)を叩き出し、この部屋の中には吾輩と白毛玉のみとなっている。


 そう、よくよく考えてみれば、吾輩は王だったのだ。

 先入観とは恐ろしいもので、『魔王≠王』だと何でか思ってしまったのである。たぶん『魔』部分が余計だったんだな。


 なぁんだ、それならば簡単だ。

 何せ吾輩はイルヴァたんの夫であるわけだから、信頼関係なるものもしっかり構築されているはずだし、相思相愛でもあるはずである。

 

 しからば!


 と、向き合ってみて気が付いた。

 口は、どこだ?


「むぅ、白毛玉よ。お前の口はどの辺なのだ?」


 優しく指先を滑らせるようにして撫でてみるも、どこにもそれらしきものはない。呼吸をしている部分がそれだろうと、毛がなびいているところを掻きわけてみたが、空気穴のような小さい穴が開いているだけだった。


 ――え? ココ?

 困った……。 ただただ口と口を合わせるだけのはずなのに、それがまさかここまで困難なことだとは。


 とりあえず、そこに口を付けてみたものの、何も起こらない。

 この本の通りだとすると、対象が発光したり、光やら虹やらのベールに包まれてみたり、天使的な何かが現れたりと、何かしらの過剰な演出と共に呪いが解けるはずだったのだが。さすがに天使は来ないか。ここ魔王城だしな。


 ということは、やはりここが口ではないのか、あるいは、それでは解けないタイプの呪いなのか。

 それとも……、あまり考えたくはないが、もしかして、吾輩が一方的にそう思っているだけで、本当は信頼関係も築かれていなければ相思相愛でもなかったのかもしれない。


 相変わらず白毛玉はその空気穴から体内の二酸化炭素を排出している。ふひゅう、ふひゅう、という呼吸音も聞こえて来る。それ以外にそれらしきものはない。やはりここが口なのではないかと思うのだが。そうなると、やはり先の可能性が頭をもたげて来る。


『ていうか魔王様、あなた奥方様のこと知らなすぎ!』


 エキドナの言葉を思い出す。

 確かに吾輩は何も知らなかった。

 彼女の年齢もそうだが、その他にも知らないことはたくさんある。

 知っているのは、アウロラという昔の名前と、妖精を挟んだサンドイッチが好物ということくらいである。しかもそれにしたってここで初めて食べたわけだし。


「もっともっとたくさん知ろうとすれば良かった。たくさん知って、吾輩のこともたくさん知ってもらえば良かった。そうすれば――」


 そうすれば、きっと信頼関係も築けただろうし、相思相愛にもなれたのだ。

 日々の業務にかまけてそれを怠ってしまったのだ。


 吾輩は、魔王であると同時に、彼女の夫であるというのに。

 慢心していた。胡坐をかいていた。結婚がゴールとばかり思っていたのだ。何と愚かしい。さんざん彼女から愛とは何か、というものを学んできたというのに。


「すまん」


 白毛玉に向かって頭を下げる。

 すると白毛玉はふるふると身体全体を震わせた。まるで「そんなことないよ」とでも言ってくれるかのように。


「いや、良いのだ。謝らせてくれ。吾輩は駄目な夫だ」


 ふるふる。


「願わくば、妃のことをもっと知りたい。産まれた時のことを、家族との思い出を、好きな色は何だ、幼い頃の夢は何だ、どこか行きたいところはないか、吾輩にしてほしいことはないか」


 矢継ぎ早にそう述べてみるも、やはり目の前の白毛玉は白毛玉のままで、ただふるふると震えているだけなのである。


「ぽぽぱぷぺぷ」

「うむ、まずはその特殊な言語をマスターすることから始めねばならんな」


 そうと決まれば、と吾輩は立ち上がった。

 言葉さえ通じれば、何も問題はない。

 意思の疎通が図れるようになってから、お互いのことをよく知り、信頼を深め、愛を育んでから呪いを解けば良い。幸いなことに吾輩もイルヴァたんもまだまだ若いのである。時間ならたっぷりとある。


 ていうか、そもそも――。


「ならば別にそのままの姿でも良いのでは?」

「ぽぱぷ?」


 白毛玉を手に取り、じぃっと見つめる。まぁ、視線が合っているのかは全くわからないわけだが。何なら尻かもしれないんだよなぁ。


「見た目にこだわりすぎておったな。どんな姿でもイルヴァたんはイルヴァたんだ」

「ぷぺぽ」

「失念しておった。吾輩は別にイルヴァたんの見た目に惹かれたわけではないのだった」

「ぷぽ」

「では、どこに惹かれたかと聞かれると、それがどうにもわからんのだが」

「ぷぷぷぱぺ」

「見た目もな? そりゃもちろん愛らしいと思う。悪いことを企んでいる時の不敵な笑みなどは最高だ。しかし。しかしだな。それが吾輩の美の基準の最高峰かと言われるとそれも違うと思う。何せ広い世界なのだ。もしかしたら彼女より魅力的に笑う生き物がいるかもしれない」

「ぱぷ!」

「怒るな怒るな。内面もな、例えば――、レベル1の癖に何でこうも強気になれるのだと感心するあの度胸であるとか、間違っていると思えば、どんなに強い相手でも怯まずに立ち向かう姿であるとか、吾輩はそういうところも高く評価しているわけだが、それも決して彼女だけの性質とは思えん。恐らく、彼女の他にもゴロゴロいるだろう。特に勇者として選ばれるような者は大なり小なりその性質を持ち合わせているはずだ」

「ぷぱぷ」

「吾輩が何を言いたいかというとだな、えぇと、つまり、だ。それらを数値化したとして五角形のグラフにするだろ。もし、どこかの数値がずば抜けて勝っている者が現れても、それは彼女よりも優れているということにはならない。少なくとも、吾輩にとっては。吾輩はその、彼女だけの形がたぶん好きなのだ」


 じっと(たぶん目だろうと当たりを付けた部分を)見つめてそう言うと、白毛玉は「ぷぷぅ~。ぱぱぷぅ~」と言いながら吾輩の手の中をコロコロと転げ回った。そして、ぴたりと止まったかと思うと、じんわりと温かくなった。


「何だ?」


 これから一体何が起こるのだろうか。

 じっと見守っていると、その真っ白い毛の塊は、金色の粉のようなものを撒き散らしながら宙に浮き、ふわり、と発光し始めた。


「お、おぉ……、これはもしや……!」


 呪いが解ける際の過剰な演出では!!?

 これは期待出来る展開!


 ――ふしゅん。ぽす。


 ん?

 

 白毛玉は再び吾輩の手のひらの上に落ち、また毛の一部分をそよそよとなびかせながらゆらゆらと揺れている。

 え? 解けないの? いま絶対解ける流れだったじゃん! 何だよ、排泄か何かか?


「あ~らら、残念」


 そう言いながら、エキドナがひょこりと顔を出す。しかもカーテンの裏から。


「……おっ! お前! いつからそこにおった!」

「え? さっきですよ、さっき」

「さっきだと? ほ、本当だな? 何もおかしなこと見たり聞いたりしてはおらんな?」

「ええもちろん。魔王様がその毛玉ちゃんの口はどこだと毛をわさわさ掻きわけていたところからしか見ておりませんし、聞いてもおりません」

「ほぼほぼ最初からではないか! おのれエキドナ!」


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