吾輩、先生の新たな顔を知る!

 魔王討伐に色めき出すむさ苦しい(そしてかなり酒臭い)男達の間を縫って、給仕担当らしいエプロン姿の若い女がせっせと濡れたテーブルと床を拭いている。どうやら男達の目に彼女の姿は映っていないようで、彼女は時折足蹴にされたり、肘打ちを食らったりしつつも、文句ひとつ言わずに黙々と己の職務を全うしていた。先生よりも若い、というかほぼ子どものように見える女である。


 それをじっと見つめていた先生は何やらわなわなと震えながら立ち上がった。

 そして、たるんだ腹を揺らしながら騒いでいる酔客を掻き分けながら、その中心にいるディートハルトの元へずんずんと早足で向かって行った。ヤツは何やらしまりのない顔で先生に「どうしたんだい子猫ちゃん」とか意味不明なことを言っている。お前、酒で目をやられたのか。先生が猫に見えるとか正気の沙汰ではない。


 あんなに「あそこに行ったら絶対吐く。絶対臭い」とか言ってたはずなのに、先生は鼻を摘まむこともない。一体何をするのかと思っていたその時である。


 パァン! 


 という、かなり良い当たりをしたっぽい乾いた音がパブに響き渡った。

 それをきっかけに騒がしかった店内がしんと静まり返る。


「ちったぁ落ち着け馬鹿野郎共がぁっ! お前ら揃いも揃って良い大人のくせになぁ! てめぇで汚したモンも始末出来ねぇってのか! あぁ?! コラァ!! 客だからか! 客は何しても良いってのか! あぁん??! あとそこのお前とお前!」

「――なっ、何だよ」

「俺?」

「お前とお前だよそこのデブとヒゲ! さっきあの女の子を蹴り飛ばしたくせに謝罪の言葉もなかったな? あぁ??! わざとじゃねぇ? 関係あるかクソが! 気付かなかった? ふっざけんなカス野郎! 飲みすぎで神経イカれてんじゃねぇのか! だったらいまここで謝れや!」


 ものすごい剣幕である。もうこの迫力だけならレベル60はある。その証拠に男達はかなりビビっている。何なら吾輩もちょっとビビっている。えっ、どうしたのだ先生よ。


「す……、すまなかったな、ヨハンナ」

「悪かった。あとは俺達がやるから……」


 デブとヒゲは薄ら笑いを浮かべてそう言うと、ヨハンナと呼ばれた少女から布巾とモップを奪い取り、先生に媚びたような視線を向けて「へへへ……」と言った。一体何が「へへへ……」なのか。


「あと、そこのおっさん!」

「ひぃ! 私?」


 ビシッと指を差されたマスターは、自分は無関係とでも思っていたのか(まぁ実際彼は何も汚してないわけだが)びくりと身体を震わせた。


「こんな時間まで子どもを働かせて良いわけ? 未成年者の労働は19時までって役場の掲示板の貼り紙に書いてあったけど」

「そ、それは……。ヨハンナはウチの娘なので……その……、ちょっとした『お手伝い』というか……」

「へぇー、『お手伝い』? 『お手伝い』ねぇ。っつーことは、だ。お前、さてはろくに給金も渡してねぇだろ!」

「ひぃぃ! そ、そんなことは……」

「時間外労働させといて、まさか駄賃程度の給金じゃねぇだろうな! 役場にチクんぞコラァ!」

「ひぇぇ!」


 いや先生、もうその辺で。

 落ち着け落ち着け。どうどう。


 そう思いながら「わふ」と吠えると、先生は我に返ったのか、吾輩の方を見て、ふん! と鼻を鳴らした。

 そしてまた男達を掻き分けて吾輩の元へ戻るとカウンターに代金を叩きつけるようにして置いた。視線はディートハルトに固定したままで。しかも、射抜かんばかりの鋭い目付きで、だ。そんな視線を向けられたヤツの方はというと、成る程これが『蛇に睨まれた蛙』というやつなのだなという状態である。


「い、いや、金は俺が……」

「良い。アンタみたいなクソ野郎におごられたくない。明日の朝広場に迎えに行くから、準備して待ってな」

「む、迎えって……?」


 怯えた顔をしているディートハルトが、震える声で問い掛ける。


「魔王のトコに連れてってやる。逃げんなよ絶対」


 そう言うと、吾輩の背中に手を乗せて歩き出した。


「行こ」


 とささやくような声が聞こえた。いつもの先生の声である。


「うむ」


 とそれより小さな声で返す。

 

 出入り口に取り付けられたベルがカランと鳴り、ばたんとドアが閉まると、先生は数歩歩いて「はあぁぁぁあああ……」と大きく息を吐き、そして「すぉぉぉぉおおおおお……」と吐き出した分の酸素を補充した。


「勇ましかったな、先生よ。さすがは元勇者だ」

「勇ましくなんかないよ。ただ、ああいうヤツらが大ッ嫌いなだけ」

「ふむ。しかし吾輩はやっと先生がなぜ勇者に選ばれたかわかった気がした」

「そう? あたしはよくわかんない。あの口クサ男みたいにレベルMAXまでいったらそれっぽくなれたかもだけど、結局レベル1のまんまだしさー」


 口クサ男……。なかなか厳しい評価である。


「いちお確認するけど、絶対負けたりしないよね?」

「当然だ」

「あぁ良かった。もし魔王君が負けたらあたし――」


 その先生の言葉を遮るようにして、背後からカランというドアベルの音が聞こえてきた。振り向くと、全開にしたドアの前にディートハルトが立っている。歯を食い縛ってギッとこちらを睨み付けていた。


「ちょっと待て」

「何?」


 先生はかなり面倒くさそうに返した。たぶんもう疲れたのだ。

 ディートハルトは、苛立たしげにドアを閉めると、何だか足場を確かめてでもいるかのように、ゆっくりと慎重に歩いてくる。

 いや、落とし穴とかないから。吾輩そんな子どもみたいなことしないから。 


 先生との距離が少しずつ縮まり、吾輩は先生の前に出た。


 さてはこやつ、先ほどの報復に来たな。皆の前で恥をかかされたと思ったのだろう。さすがに人前では手を出せないので、こうして追いかけて来たというわけか。

 だとしたら、こいつは正直かなりのクソだ。

 人前でやり返す勇気もない上、明らかに自分よりも弱い相手に手を出そうとしている。

 

 こいつもうアレだな。捕獲とかじゃないな。八つ裂き確定したわ、たったいま。


 じりじりと距離を詰めていたディートハルトは、それがあと3mといったところでぴたりと止まった。そして呼吸を整えると口を開いた。


「魔王は絶対に、俺が、倒す」

「あっそ。頑張って」

「俺が、この世界に平和を取り戻す」

「ふぅん」


 俺が俺がとイチイチうるさいヤツである。


「そしたら」

「何?」

「そ、そしたら」

「何? 早く帰りたいんだけど」


 数秒待つのも惜しいらしく、先生は右足をパタパタと踏み鳴らした。おい、ディートハルトよ。先生はかなりご立腹の様子だぞ。さっさとしろ。吾輩にとばっちりが来るではないか。


「お、俺の妻にしてやっても良いぞ!」


 思い詰めたようなその表情にはおよそ不釣り合いな台詞である。

 してやっても、って何様だお前。

 っつーかな、何かよくわからんが、先生は吾輩の妻らしいんだぞ。

 なぁ先生よ、と彼女を見ると、何だかいままでに見たこともない顔をしている。えー何それすげぇ怖い。先生ってそんな顔もするのか? えー、マジで今日の夢に出て来そうなんですけど。


 そして先生はそのとんでもない形相のまま、今日イチにドスの効いた低い低い声で言った。


「――死ね」と。


 やっぱり先生レベル1ではなくね?

 これはもうレベル70の迫力。

 レベルMAXのはずのディートハルトすら縮み上がっている。


「……っし、死なないし!」

「時間の問題。魔王には勝てないんだから」

「勝てるさ! だ、だって俺はレベルMAXなんだからな!」

「勝てない。勝てないけど万が一、億が一、まかり間違ってアンタが勝ったとしても、あたしは絶対にアンタのものにはなんない。だったらいっそ舌噛んで死ぬよね」

「なっ、何でだよ! 俺、自分で言うのも何だけど、俺ってかなりイケメンじゃね?」

「かもね。口くっさいけど」

「ぐっ……。そ、それに超上級魔法だって使えるんだぜ?」

「そりゃレベルMAXなんだから使えるっしょ。アンタの口、煮詰めたドブみたいな臭いするけど」

「口臭の具体的な説明止めろ! こ、口臭は何とかするし! 酒もほんとは度数高めで癖のキッツいヤツが好きなんだけど、軽めのにするから!」

「いや、アンタの酒の趣味とか聞いてない。いまいらなくない? その情報。そういうの飲める俺カッケーっしょ、ってアピール?」

「べ、別にそんなんじゃねぇけど……」


 先生全然負けてないなぁ。これ吾輩が出る幕ないんじゃないのか?

 

 ていうか、アイツの酒の趣味、吾輩と同じだな。吾輩も度数は高い方が好き。腹の中で引火させながら飲むの最高。いつだったか、げっぷと一緒に火の玉吐き出して先生にすんごい怒られたから控えてるんだけど、たまには飲みたいなぁ。


「とにかくね、あたしは絶対にアンタのモノにはなんないから。いちおイケメンなんだろうし、剣も魔法もバリバリのレベルMAX様なんだろうけど、まーったく好みじゃない。一昨日来やがれ。いや、一生来んな」

「……だ」

「ん?」


 散々に罵倒されたディートハルトはしばらくの間しおれた花のようになっていたが、一体何がきっかけだったのか、むくむくと復活し、何やら血走った目で先生を睨み付けた。


「だったら力ずくだぁぁぁあああ! おおおおお前はぁぁぁあああ! おっ俺、俺のぉぉおおおおお!」

「――ちょっ?!」


 これはさすがレベルMAXと評価せざるを得まい。

 と、同時に吾輩は自身の驕りを反省しなければならない。


 なぜならディートハルトは、疾風の如き素早さで先生を捕まえると、煙のように吾輩の目の前から姿を消してしまったからである。

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