1 入部

 入学式の日、パートに出ている哲也の母親は朝から落ち着きがなかった。スーパーのレジうちをしているのだが、さっきからレジでエラー表示がされる。簡単なうち間違いや計算間違いをしてしまう。もう何年も勤めるベテランなのにこんなにミスを連発するなんて、と頭を切り替えようにもなかなか切り替えられない。

 哲也のことが少し頭をよぎるだけで思考が停止する。

 哲也には入学式の日はとにかく黙っておくようにと念を押した。先生から名前を呼ばれたら返事をして、それ以外は決して自分から話し出さないこと。

 入学式の日からクラスの人たちが打ち解けることは考えられない。同じ中学出身は大人しい女子生徒がいるだけで男子では同じ中学の人はいない。初日から悪い噂が広がることはないと読んでいた。とにかく初日を無事に終わらしてほしかった。

 中学入学のときは最悪だった。小学校から繰り上がりで上がる子が多いから仕方のない部分もあるが初めからいじめの標的にされた。先生からもからかわれた。スタートでつまずいて三年間を過ごすことになった。誰も助けてくれない孤独な生活だった。哲也は小学生時にはなかった鬱の症状やパニックをおこすようになった。体も大きくなってとても親で制御できなくなっていた。

 だから高校だけは無事に過ごしてほしいとそれだけを願っていた。叶うなら友達をひとりでも、理解者を息子に授けてほしいと思うのだった。

 一度考え出すとキリがなくなる。レジからはエラーを知らせる電子音が鳴り、客からは睨まれる。だけど、今日だけはと思うのだ。

 ひとつ気がかりなことがあった。家を出るとき哲也はこういい残した。

「僕にはお爺さんがついているから大丈夫です。だから心配しないで」

どこにお爺さんがいるのだろうか、眩暈がする。


 哲也は母親のいいつけを忠実に守っていた。もう中学のような思いはしたくないという一心が見られた。

 高校は公立でそれなりの学力レベルの辰巳高校に入学できた。もともと学力は哲也にはあった。それに母親からがんばっていい高校に入れば悪い人や不良はいないといわれたから一所懸命に勉強した、その結果だ。

 入学式の日は誰にも話しかけられることもなく無事に終わった。だけどこれからどうするか、母親は頭を抱えていた。当の本人である哲也はまるで平気な顔をしていた。

「お母さん、僕にはお爺さんがついているから大丈夫です。お爺さんがそのとき、なにを言ったらいいか、なにをしたらいいか、いちいち教えてくれます。今日もずっと黙っているようにとお爺さんにも言われました。だから今日は大丈夫でした。だからこれからも大丈夫だと思います」

食事中にそういうことを聞かされると母親の食欲は失せるのだった。「またお爺さんだとかわけのわからないことを言って。そのうち宇宙人も連れて来るんじゃないかしら」

 母親の心配をよそに哲也の食欲は旺盛でいつもより多く食べるのであった。

 二日目。この日は各部活動の勧誘を兼ねた紹介集会が行われた。体育館壇上では野球部や陸上部、水泳部、卓球部、剣道部、柔道部、文化部である美術部、囲碁部、マンガ研究会や落語研究会なども紹介された。その中からバスケ部が六人壇上にでてきた。ひとりは女子マネージャーだった。キャプテンの形通りの挨拶が済んで退場というときに中のひとりが奇声を上げて哲也を指差した。

「おーーー君ぃーー背が高いねーーぜひウチの部に入ってくれないかなぁー今なら部員が少ないからレギュラーにすぐなれっかもよーーー」と言った後にバツの悪そうな顔になってまわりを見渡して言った「あ、いや別に背は関係ないよ初心者歓迎なんでよろしくねーーみんな頼むよ」

まわりがクスクス笑い出す。そのとき哲也は立ち上がって叫んだ。

「ハイ、僕はバスケ部に入ります」

その瞬間ざわつきが止まって一気に静まった。まわりの人たちほぼ全員が哲也を見る。そのとき哲也は口をすばやく手で押さえてすぐに座った。体が少し震えた。舞台袖でキャプテンに怒られていた奇声の男は顔を哲也に見せて大きな声をあげた。

「おーー期待してるぞ新人、待ってるぞ」

もう壇上ではサッカー部の紹介がはじまっていた。

 部活動紹介が終わり一年生は教室に戻る。そのときさっき目立つことをした哲也に声をかけたクラスメイトがいた。

「君、よっぽどバスケ部に入りたいんだね」「なにバスケうまいの」「でもここの学校あまりバスケ強いとか聞かないけどね」「中学のときはバスケ部だったの」

いろんな人から話しかけられる。哲也は答えなくてはと、ひとつ息を吸った。

「はい、バスケ部に入ったほうがいいとお爺さんも言っています。去年の夏からずっとバスケの練習を一所懸命しました。勉強もがんばりました。中学生のときはバスケ部じゃありません。顧問の小谷先生が嫌いだからです。だから数学も嫌いです。バスケ部は木村君がキャプテンでした。木村君はぼくにすぐイジワルをします。だからバスケ部には入っていません」

哲也がそういう言うとまわりは遠巻きに避けていった。ひとり、ふたりと離れていき、最初に話しかけた人もまわりを気にしだした。そこに先生が入ってきてホームルームが始まった。

 一週間がたった。少しずつだけどクラスの人たちに友達のようなものができはじめて休み時間でも話している生徒がでてくる。哲也には誰も近づいてこなかった。哲也も口をつぐんでいた。中学のようにいじめは発生しなかったけど。哲也は百八十センチほどある大きな体を小さくして教室の隅で動かずにいた。

 放課後になって帰ろうとしたら教室にバスケ部の奇声の男が入ってきた。

「おー探したよ、君、なんでバスケ部に入るって言ってこないんだよ、おかげでお出迎えだよ、今日は来るだろ、見学ぐらいしなよ」

まわりの冷ややかな視線も関係なく男は哲也の肩を抱いていうのだ。

「今日は自己紹介とかしてもらうからね、その前に名乗れって感じ。オレは吉井っていうんだ。三年ね、あー残念、あ、うけないね。ちなみにオレのポジションはシューティングガードね、これは譲れないからよろしく。アイバーソンとジョーダンの聖域だからね。それ以外のポジションなら充分狙っていいよ、さあ、行こうぜ」

無理矢理に哲也の手をひっぱっていった。

「ウチは万年地区予選二回か三回戦で負けちゃう学校なんだけどさ、今年は全国行くって張り切ってたよ、うちの色男が」

 体育館の扉を開けると練習をすでに行っているバスケ部員がいた。ボールの弾む音が体育館中にこだましている。

「色お、じゃないキャプテーン連れてきたよ、期待の新人、えーと、まぁ後で自己紹介してもらうか」

キャプテンは哲也に笑顔をみせた。

「よーし、じゃあ全員いったん集合」

マネージャーだと思われる女子生徒が笛を吹く。全員が練習をやめて中央に集まる。一年生は前に座るよう指示され、六人が前に立って並ぶ。

「これからも入部があるかもしれないが、とりあえず挨拶はしておこうと思う。監督というか顧問の先生は遅れると言っていたが今日は来ると思う。オレは一応キャプテンをやらせてもらっている加納。ポジションはセンター。じゃ次」

「オレは関山。ポジションはフォワード」

「えーオレは吉井。ジョーダンかアイバーソンと呼んでくれたらいい。ちなみにアイバーソンならジ・アンサーと呼んでくれ。あとでオレ様が超絶テクニックを披露するんで一年は楽しみにするように」

「余計なことは言わなくていいんだよ」

加納が口をはさむ。

「オレは鈴木。ポジションはポイントガード。ガンガン怒鳴っていくんでよろしく」

「コイツはマジックジョンソンに憧れてんのに自慢のリーゼントが崩れると不機嫌になるから注意するように」

「うっせーぞ、吉井」

鈴木が吉井に蹴りを入れる。

「あーうーああー」

もうひとりがなかなか挨拶できずにいた。

「あ、コイツはレイラ。ゼロの零に甲羅の羅でレイラ。なんでもエリッククラプトンのファンだった親がデレクアンドドミノスの愛しのレイラからつけちゃったんだ。大仏みたいな顔だけどコイツの親は罪だからこんな名前にしてやんの」

吉井がレイラの肩を抱き説明をする。

「ちょっと、大仏はひどいでしょ」女子マネージャーが言う。

「おお、悪い。で、唯一の二年生ね。去年はオレたちのしごきがきつくて結局残ったのはコイツだけ。無口だから退部を言い出せなかっただけなのか、それともマネージャーに手を出しちゃったからなのか」

「もう、いいかげんにしなよ」

マネージャーが吉井を押した。

「えっと私はマネージャーをやらせてもらっている加納です。あ、キャプテンの妹です。よろしく。加納さんって呼ぶとお兄ちゃんまで振り向いちゃうから私は下の名前の裕子って呼んでくれたらいいから」

「えーオレが呼ぶと怒るじゃん」

「アンタは私をふだんたぬきって呼ぶじゃん、お兄ちゃんには色男って今も呼んでるし」

「アルマジロって呼ぶともっと怒るじゃん」

「当たり前でしょ」

「おーい裕子、吉井、いいかげんにしろ。次は一年生の自己紹介な。今年は五人か。結構集まったな」

加納が今度は一年生を立たせて自分たちは座った。

「自己紹介っつてもバスケ経験があるかどうか、あればポジションを。出身中学とかはどうでもいいから」加納が言う。

順番に自己紹介がはじまる。バスケ経験のない人がふたり。ある人も大きな大会に出たことがあまりないということだった。最後に哲也の番になった。

「前野哲也といいます。バスケ経験はあります。ずっと今でも練習しています。バスケ部は木村君や先生が意地悪をするのでポジションはもらえません。だけどお爺さんがフォワードをやっていたと言えというので僕のポジションはフォワードです。家ではバスケのルールの本とか毎日読んでいます。お爺さんが毎日読むようにと言うからです。ここの高校に行けば・・・」

哲也の話は終わらない。少しまわりがざわつき出す。鈴木が舌打ちをする。加納はしばらく呆気にとられていたが我に返って言った。

「あー前野君だっけ。もう自己紹介はわかったよ」だけど哲也の話は終わらない。

「いつまで喋ってんだ。もうやめろよ。お前のそんなとこまで別に知りたくねーよ」鈴木が叫んだ。体育館中に響いた。

「やめるのは自己紹介ですか、バスケ部ですか」哲也は頭をなでながら言った。

「バスケ部をやめることはないよ。入ったばっかりなんだから。ちょっと緊張したのかな。自己紹介はもういいから。とりあえず前野君は体操着に着替えて来てくれるかな」

哲也は走って体育館を出て行った。

「なんだよ、アイツ。部活紹介のときもイキナリ叫んでいたし、変人か。勘弁してくれよ。おい吉井、お前責任とれよ」鈴木が舌打ちしながら吉井を睨んだ。

「まぁ、いいじゃねえか」吉井もひきつった笑いを返すのが精一杯だった。

「オレがコートにいる間、アイツを中に入れるのだけはゴメンだぜ。ポイントガードの気にもなれってんだ」鈴木が加納に言った。加納は頭をかいた。

 哲也が戻ってきて一年生の力量をみるため、レイアップシュートとディフェンスひとりおいたオフェンス、それからパスワークを試すことになった。初心者のふたりは見学。まずは先のふたりが普通にレイアップシュートをする。続いて哲也。哲也はここでも「はい、わかりました、お爺さん」と声を出してスタートした。それを見て鈴木が肩を落とす。だが、みんなの目は釘付けになった。ビトウィーン・ザ・レッグズ・ドリブル、次にビハインド・ザ・バックドリブル、そしてスタート。速く低く鋭く進む。そのドリブルだけで関山は驚嘆した。加納は叫んだ。「鈴木、見ろ」フリースローラインに入った瞬間そのスピードを維持したままドライブを入れてジャンプ。

「うおお、カーメロ・アンソニーみてーだ」

吉井が叫んだ。吉井は大はしゃぎだったがみんなは言葉が出なかった。ボールの弾む音だけが響く。哲也はボールを拾ってみんなのところへ走っていった。哲也は加納にボールをわたしてまた整列の最後尾に並んだ。加納はしばらく呆気に取られていたが段取りを行わなければならないと思い直した。

「じゃ、次はオフェンスをしてもう。ここでは一番うまい鈴木にディフェンスをしてもらう」鈴木は返事して立ち上がる。

 鈴木は手加減なしのディフェンスを仕掛ける。スティールをあっさり決めてひとり目はアウト。もうひとりもがんばったがなかなか抜けず、つい歩いてしまってアウト。そして哲也の番になった。鈴木はなんとしても哲也を止めようと集中力を高めた。さっきのレイアップには戦慄を覚えたが、それだけに負けられない。全員が息を飲む。

 哲也はゆっくりドリブルをして進む。クロスオーバー・ドリブル。目線は鈴木とリングを交互に見る。この目の鋭さはどうだ。鈴木は一年生である哲也にプレッシャーを感じていた。認めたくないから払拭したい思いからやや強引に当たろうとする。哲也はドリブルスピードをあげる。右方向に行こうと飛び出す。しかし右足を踏み込んでひざを前かがみに腰を落とす。手を下げる。ボールを大きく右から左へスライドさせる。ドリブルが鋭く交差する。なんというボディバランスだ。鈴木は悔しいが目で追うのが精一杯だ。見ていた吉井は、今度は騒げない。哲也は意識せずにやっただけだが、行った技はエクストリーム・クロス。吉井の尊敬するアイバーソンの得意技だ。だからまたの名を

「アイバーソン・クロス決めやがった」吉井は体が震えた。何度もビデオを見て研究しているアイバーソン・クロスをこうも見事に決められるなんて目の前が信じられなかった。

 そのままレイアップシュート。鈴木にはなすすべがなかった。加納は目を見張った。拳に力が入る。顔がにやけてくる。裕子も心臓の鼓動が抑えられない。

「あいつ、変人ってだけで中学で使ってもらえなかったのか。信じられねぇ。あいつ、どこの中学だ。よっぽどバスケに興味のない学校だったのか。じゃなかったら、よっぽどのバカ学校だな」関山が言う。加納は頷くだけだ。

「よーし。次はパスだ。ま、これは軽くやろう。オレが相手する」加納が立ち上がる。

 これは初心者も交えてパスをしあう。パスは初心者でもできる。要は手首のスナップをみたかったのだ。ひとりひとりパスをする。哲也の番になる。加納は今までを思って強めのパスを送る。一直線に伸びていく。だが哲也はボールをとれない。はじいてボールを後ろに飛ばしてしまう。哲也は急いでボールをとりにいく。

「悪い、さあ今度は前野君、投げてみてくれないか」

哲也はドリブルをして前に進もうとしてはっとして止まる。加納を見る。ボールを抱える。視線が下がる。息があらくなる。投げられない。足がすくむ。みんなが哲也を見る。静寂が流れる。「さあ、どうした」加納が叫ぶが哲也は答えられない。沈黙。そしてやっと言葉がでる。

「投げられません。僕はパスの練習はしたことがありません。誰も僕にパスをしてくれません。だからパスも受けられません。だからパスの練習はできませんでした。だから、だからできません。でもドリブルできます。シュートできます。スリーポイントもできます。だけど、パスはできません」

沈黙。

「オッケーオッケー。地区予選もまだ時間がある。ゆっくりこれから覚えよう。大丈夫だ、これからはオレがちゃんとパスするから」加納が声をかける。「ゆっくり投げてくれたらいい。さあオレにパスをしてくれ」哲也は誰よりもダサいパスを投げた。分度器のような山なりのパスを。「オッケー」加納はパスをジャンピングキャッチして受け取る。

 哲也はつぶやいた。「はじめてパスができた」哲也は加納が他の部員にパスするのを眺めていた。

 体育館の扉が開いた。

「オーッスやってるね」女性が入ってきた。

「ちーす」「ちーす」上級生が挨拶する。

「おーい、一年生、顧問の井上先生だ。挨拶するんだ、ちーす」加納が言う。一年生全員がマネをする。

「みんな、ちょっと集まってくれる。私も挨拶するからさ」ジャージがきついのかジャージをいじってばかりいる。気づいた吉井がからかう。「先生、あんま無理すんなよ」「うっせーぞ、吉井、赤点だ、テメェー」みんな集まって先生を囲んで座る。

「えー去年までのバスケの専門監督だった木下先生が学校異動されまして今年から私が担当することになりました。私は先生まだ二年目でまだ先生業務が慣れてないというのに、もうクラブをまかされたもんだから、なかなか練習とかつきあえないかもしれないけど、まぁ許して下さい。といっても私はバスケ経験がまったくなくて高校のときはバイクを乗り回して、まぁスポーツは無縁だったんだけど、でも体力では負けないんでそこだけは」

「先生ってなに、レディースだったの」吉井が口を挟む。

「まぁ喧嘩上等だったけどね」

「うおー先生かっこいいじゃん、なんでそれが今、先生やってんだよ」

「いろいろあってよ、でも吉井、お前だけは死んでも理由なんて教えないけど」

「なんだよそれー」

「どこまで言ったか忘れたけど、まぁ君たちは若いんだから目標は高くもって活動するように。以上。じゃ練習続けて」

「よーし、じゃあ、はじめるか」

「あ、加納君はちょっと来て、話があるからさ、じゃあ副キャプテンの鈴木君お願いね」

加納を残して部員はランニングを始めた。井上先生が加納を手招きする。

「どうなの、今年は全国制覇いけそうかい」先生が加納の胸を叩く。

「まだ、わかりませんが一年生で面白いのが入ってきました。僕らがうまいことやれば結構いいところまではいけそうですし、上を目指すのも夢じゃないかもしれません」

「おー、頼もしいこと言ってくれるじゃねぇか」先生は手を思いっきり伸ばして加納の頭をかいた。

「加納君、私はアンタみたいな好青年好きよ、なんていうか、高校のときのイカレたヤツらとも違うし大学のときのチャラいやつか、さもなくば根暗なやつとも違う、はじめてのタイプっていうの、だから応援すっからさ、頼むよ」先生は軽く加納の尻に膝蹴りをした。加納は顔を赤らめて一礼して走り出し、ランニングに参加した。先生は音を出して笑った。

 練習はハーフコートを使っての攻守を変えてのものに切り替わった。最初は新入部員も加えて上級生が練習の主旨を教えながらゆっくりと行われた。

「なんだと、テメェ」

鈴木が叫んだ。どうしたんだとみんなが集まってくる。鈴木が言う

「こいつが生意気にオレに意見しやがるんだ、なにがディフェンスはもっと腰を低くして足を広げるだ、オレができてないっていうのかよ」鈴木が哲也の胸倉をつかむ。哲也はなにも言い出せず鈴木の顔を見つめた。それがまた鈴木を怒らせてしまった。

「まぁ待て。前野も悪気があって言ったんじゃないだろ。鈴木もいいディフェンスをするが足が狭まることはたまにある。ごくたまにな。それが前野には気になったんだろ。それだけだろ、さぁ持ち場に戻れ。前野も今度はディフェンスだ」

加納は鈴木をなだめたが、鈴木は納得がいかずに舌打ちを繰り返した。哲也はうつむいてしまって動くことができなくなっている。吉井は声を出してギャグをいくつも言うのだけど全員に無視された。裕子はそれを見ながら心配になって井上先生に声をかけるが先生は「あの子たちにまかせましょう。これで私がでていってもダメでしょ」と笑うだけだった。

 練習はなんとなくぎこちないものになった。哲也のプレーは目を見張るものがあるが加納はそれをどう生かすか手立てがわからなかった。なにしろパスができないのだ。だが加納は哲也にパスを続けた。ボールを手にした哲也は果敢にシュートを狙いに行った。パスはしない。これではいくらテクニックがあっても相手は哲也をマークしたら終わりになってしまう。関山もそれが面白くない。人の言うことを聞かない哲也に苛立ちを覚え始めた。レイラはリバウンドだけに集中していた。加納は手が少し冷たくなるのを感じた。

「一度休憩しよう」加納がそう言うとみんな賛成した。

 だが哲也はひとり練習を続けていた。休憩の言葉が聞こえなかったのだ。みんな休憩をしていたが自分には言われていないので練習は続けていたのだ。レイップやジャンプシュートを黙々と続けた。

「おい、うっせーな。いつまでやってんだよ。みんな休憩してんだろ。ひとりでダムダムうるさいんだよ。さっさと休憩しろ」

鈴木が哲也に叫んだ。ボールの弾む音が消えて体育館が静寂する。哲也はボールをもって体育館の隅に腰を下ろした。

「先輩、あの前野って僕と同じクラスなんですが一週間たってもう浮いた存在なんですよ。やっぱりアイツ変ですよね」哲也と同じクラスである福田が鈴木に耳打ちする。

「ああ、中学でもイジメられてたっていうじゃねぇか。そういうヤツなんだろ。ったく、ここまでチームワークを乱すヤツも珍しいぜ」

鈴木はボールハンドリングしながら言った。加納がそのボールを取って言った。

「やめないか。チームワークを乱すといっても別にサボってるわけじゃない。練習熱心ならいいじゃないか。パスはまだできないが他のプレーはいいものがある。それをどうにかすんのがオレたちじゃないのか」

「けっこの青春野郎、ホモかお前は」

「なんとでも言え」

加納は息を吸い込んで言った。

「おーい前野君そんな端っこにいないでこっち来いよ。休憩が終わったらオレとパス練習しよう」

哲也は立ち上がって答えた。

「はい、ありがとうございます。僕、がんばります」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る