第20話 赤い風船
「閣下!」
オズワルドがドアを開くと、人混みでごった返していたはずの会場は閑古鳥が鳴いていた。
「……これは一体?」
様子がおかしい。
周囲を警戒しながら、展示室の最奥へと進んでいく。
何も乗っていなかった展示台。
スポットライトの円い光の中、全身にワセリンを塗ったボールドウィン侯爵がパンツ一丁でその上で座り込んでいた。
周囲には淀んだ空気が漂っている。
「……ったく、あの愚民どもが! オレの最高傑作はこの肉体だというのに、なぜ理解しようとしないんだッ!」
「そんな事より、『風神の籠手』ですよ!」
「そんな事とはなんだ、そんな事とは!」
双眸から滝のような涙を流す侯爵は、唇を噛みながらオズワルドの両肩を揺すった。
何となく嫌な予感はしていたが、予想通りこの何も乗っていない台はボディビルのステージだったらしい。
掴まれた肩に油が付いていないか気になるが、今はそれどころではない。
「いえあのですから、もしかしたら――」
オズワルドは、すでにシルバー・ピジョンが『風神の籠手』をすり替えているのではないか、という仮説を話した。
「……なるほど。お前には後で言いたいことがあるが、とりあえず今は確かめてみるとするか」
侯爵はごく自然な動きでブーメランパンツの中に手を入れると、そこから鍵を取り出した。
下着の中であれば確かに安心だが、あの鍵には二度と触れたくはない。
微妙にテカリがあるともあれば、なおさらだ。
「……オズワルドよ。お前、さっきはオレの筋肉をあんなに褒めてくれたのによ。ずいぶん冷たくなったな」
「は? 何を言って……」
そんな話はしていない。
侯爵が鋭い視線を向けてくる。
「お前は確かに言ったよ。キレテル、板チョコ、ってな。嬉しかったぜ。だが…………まさかとは思うが」
もちろん、そんな事はひと言も言っていない。
侯爵はがっしりとした両腕でオズワルドの両腕を掴んだ。荒い鼻息が顔に掛かる。
天助用のスポットライトが、侯爵の顔に異様な影を作っていた。
頭から血の気が引いていく音がする。
つかまれた部分から先、両腕は血流が遮られ、軽い痺れを感じた。
腕にも油が付いていないか気になる。
「お前、本物のオズワルドか?」
「ぼ……僕は……」
汗が噴き出す。
侯爵の言っている事が事実なら、シルバー・ピジョンが化けたのはオズワルドだ。
つまり、犯行はすでに行われたと見て良い。
その時だった。
全館に響き渡る非常ベル。
せわしない幾つもの足音、慌てふためいた呼び子の響き。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
息を切らせて警備主任が駆け込んでくる。
「閣下! 屋上に!」
「何事だ。まさかおめぇ……」
「出ました! 『シルバー・ピジョン』です!」
◇ ◇ ◇
走る。走る。走る。
警備員が、衛兵隊が、どこからか現れた新聞記者が屋上を目指して階段を駆け上がる。
前も後ろも、紺色の制服に身を包んだ男たちで埋め尽くされ、思うように進めない。
時間的には大したことはない。
しかし、実時間以上に感覚的な時間はとてつもなく長く感じた。
ようやく屋上へと辿り着くと、そこには鉛色の空に響く高笑いが聞こえてきた。
「ハッハッハッハッハッハッハッハ! 諸君、お勤めご苦労!」
屋上階のさらに上。
数十メートルの上空から声は響いていた。
「『風神の籠手』は確かに頂いた! さらばだ諸君! フハハハハハハハハハハハハ!!」
オズワルドは見た。
黒のマントとタキシード、シルクハットを被り、顔の上半分をこれまた黒のアイマスクで隠した男が、広告用のアドバルーンに掴まって上空へと逃れていくのを。
記された『大売り出し』の文字は途中で切断され、男と大地を繋ぐ物は何一つ無い。
風が吹くたび巨大な風船は揺れ、怪人は小さくなっていく。
「オズワルド! 撃て!」
群衆の中にあってひときわ大きく響く声は、ボールドウィン侯爵だ。
オズワルドは右手を伸ばし、魔方陣を呼び出す。
呪文の詠唱は必要ない。
必要な情報処理は全て、脳の奥で一瞬で行われる。
鉛色の空に浮かぶ真っ赤なアドバルーンに意識を向け、叫ぶ!
「当たれッ!」
巨大な火の玉が、炎の尾をひきずって上昇していく。
勢いは十二分にある。命中すれば、あんな布きれは一瞬で蒸発してしまうだろう。
「……!」
しかし、火球は垂れ幕を少しかすっただけだ。
空には比較できる物が無いため、距離感を掴みにくい。
発射後にある程度の誘導ができるとはいえ、命中は至難の業だった。
二発目を放つが、今度は怪人よりもかなり前で燃え尽きてしまう。
魔法の有効射程はせいぜい百メートル。
もうすでに、射程範囲を大きく超えている。
それでもオズワルドは火球を放ち続けた。
「当たれ、当たれ、当たれッ!」
「……もう、いいぞ」
肩に侯爵の手が置かれる。
『シルバー・ピジョン』はすでに空の彼方の点になっていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
侯爵に連れられ、衛兵隊本部に出向く。
体育館のような広い部屋に並んでいるのは、防水布の上に並んだいくつもの残骸。
泥で汚れ、ガスの抜けた真っ赤なアドバルーンがひときわ目を引く。
「で、これがムーサの海岸で発見された『容疑者』だぜ。衛兵隊だけじゃ足りなくて、軍隊まで動員して大捜索よぉ。オレの戦友が見つけたんだ」
ムーサの町は王都の東方、ビリデという山を挟んだ所にある港町だ。王都からだと汽車で四十分ほどの距離にある。
人間の形に並べられているのは、木でできた人形の手足と頭部。
「
「やられたぜ。『シルバー・ピジョン』を釣るつもりが、紳士服売り場のマネキンに俺らが釣られたって訳よ。笑い声の正体はこれだ」
侯爵が指さしたのは、直径三十センチほどの黒い円盤が乗った見慣れない機械。
「これは?」
「電気製品売り場から無くなった蓄音機だ。あらかじめ録音した声を再生する事ができる。屋上には給水塔があっただろう。その蔭から出てきたぜ」
辺境出身のオズワルドは初めて見るが、王都で暮らす都会人には見慣れた物らしい。
レコード・プレイヤーとも言われ、本来は音楽鑑賞に使う物だという。
その隣に目をやる。
「で、これがあのクソ鳩が用意したニセモノだ」
一見複雑な、それでいて安物の部品を組み合わせた装置らしきもの。
「近くでよく見れば、いかにもスクラップ置き場から拾ってきたって雰囲気ですね。遠目にはそっくりだけど……」
結局、オズワルドたちは『風神の籠手』を守り切れなかった。
アドバルーンにぶら下がったマネキンに釣られ、その隙にまんまと持ち去られてしまったのだ。
「あのクソ鳩は、やっぱり会場内にいたのさ。新聞社に予告状をばらまいたのも人を……『観客』を集めるためだ。ま、さすがに実社会を劇場に見立てて犯罪ショーやるのが目的とは思えんがな!」
「さすがにそれは無いでしょう」
「ま、今さら言ってもどうしようもねぇな。帰るか」
本部を出てアパルトメントへの道を歩く。
普通であれば乗り物を使う距離だが、偉大なるエイプル王国侯爵カーター・ボールドウィンは少しでも身体を鍛えるために歩くのだ。
店子兼助手たるオズワルドがタクシーや辻馬車を使うわけには行かない。
本当はマラソンをしたいのだろう。
鉛色の空は昨日と同じ。
いや。工場の煤煙が太陽を覆い尽くしているが、ごく僅かな隙間から光が射している。
「オズワルド」
「はあ」
肩を並べる侯爵の視線は、正面を向いたまま。
「お前、魔法を外したのはわざとだな?」
叱りつけるような口調ではなく、優しく諭すような。そんな口調だった。
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