第3話 ボールドウィン侯爵

「……ぬぅん」


 ナオミは腰が抜けたのだろうか、力なくへたり込んだ。

 スカートがめくれ上がって、形の良い健康的な太腿がむき出しになっているのに、それを直す事も忘れている。

 見開いた瞳には恐怖の色を浮かべ、歯の根も合わないようだ。


「どうしたんだ、ナオミ」


「あわわ……。お……お化け……」


 アパルトメントの前に立っている大男は、身長が二メートル近く、全身をオークのような筋肉に覆われ、服装は小さなパンツ一枚であった。

 全身は塗られた油でテカテカと光り輝き、黄ばみ一つ無い整った歯が陽の光を反射して眩しく輝いた。

 通行人は目を逸らし、足早に立ち去っていく。

 中には巡回中の衛兵に駆け寄る者もいたが、驚くことに衛兵は通報者を追い返すとこちらに敬礼してきた。

 どうやら、この近所ではありふれた光景らしい。

 納得は出来ないが、現実は無視できない。


「よく来たな、ハッハッハ! オレが大家だ! ……ぬふぅ」


 大家は奇妙なポーズを取った。

 右膝を曲げ、両手の拳を脇腹で突き合わせている。

 どうやら筋肉を見せつけようとしているようだが、都会では色々な人がいるらしい。

 このボールドウィン侯爵も、とても上級貴族には見えなかった。

 どう見ても怪しいおっさんにしか見えない。


「おっさんじゃねぇ」


「えっ?」


 どうやら口に出ていたらしい。


「――し、失礼しました。オズワルド・ノートンです。こちらは当家のメイド、ナオミ・グリーンバーグ。お世話になります、ボールドウィン侯爵閣下」


 ボールドウィン侯爵はその場で右に回転すると、両腕の力瘤を強調した。


「何か困った事があればオレに言え! 無意味な根性論で非合理的なトレーニングをする必要は無いからな! 合理的に行け、合理的に!」


「はぁ」


「よーし、オレに付いてこい! 中を案内するぜ!」


 アパルトメントの中に侯爵は消えていった。

 ドアをくぐる直前、尻の筋肉がキュッ、と締まる。


「ナオミ、立てる? 大丈夫だよ、あの人はたぶん人間だから。アパルトメントのオーナーだよ」


「……そ、そうみたいですね……ぐすっ」


 手を貸してやると、ナオミは産まれたての子鹿のように立ち上がったが、コソコソとオズワルドの背中に隠れてしまう。

 まるで背中に目があるかのように、ボールドウィン侯爵の尻肉が再びキュッ、と締まった。

 言いたい事は色々ある。

 なぜこの人はパンツ一丁なのか。そして、周囲の人は誰もそれに突っ込まないのか。

 しかし、オズワルドは今日この街に来たばかりだ。

 ここでの暮らしが長くなれば、自然と分かってくるはずだ。

 あれもこれもと考えすぎると、頭がパンクしてしまう。


「い……『イケイケどんどん』だ」


 石造りの三階建ての建物は、アーチ状の窓ガラスが付いた昔ながらのデザイン。

 古くからある建物らしいが、侯爵は先の『大陸戦争』で上げた功績の褒美として、このアパルトメントを王家から下賜されたという。

 今や、エイプル王家もサラ王女しか残っていない。

 そのサラ王女は不鮮明な写真が数枚出回っているだけで、顔を知る者は一部の関係者のみ。

 田舎貴族のオズワルドは当然会ったこともない。

 それにまだ子供なので、摂政のケラー首相が実質的に国を統治しているのだ。

 サラ王女が女王として即位するまで、エイプル王国の王位は空白である。


「まず、ここがトレーニング・ルームだ!」


 入ってすぐの広いホールには、使い方もよく分からない器具がいくつも並んでいた。

 奥の壁には筋肉モリモリマッチョマンが奇妙なポーズを取ったポスターが貼られている。

 煽り文句は『筋肉は、愛。』とあった。

 ナオミの顔がみるみる青くなり、震えだす。


「どうした、ナオミ?」


「あ……あのっ……こ、これって……ご、拷問器具ですか?」


「ちっっっっがああああああああああうッ!!」


 ボールドウィン侯爵は着ようとしていたタンクトップを途中で破り捨て、再びパンツ一枚になった。

 オズワルドはとっさにナオミの前に出るが、侯爵はその場で奇妙なポーズを取る。


「――これはベンチプレス! これはアブドミナル! これはロウアーバック! 他にもあるが、全て美しい筋肉を作るために必要な器具だッ! この、オレ様のようにな」


 そう言って侯爵は仁王立ちになると、胸の筋肉が触れてもいないのにピクピクと震えた。

 いっぽうナオミはオズワルドの背中に隠れ、ビクビクと震えている。

 

「し、失礼しました。後で僕からよく言って聞かせますので、どうぞお許しください」


 エイプル王国は公爵位が存在しない。

 制度上は創設可能なのだが、長年の友好国である大国、オルス帝国においてエイプル王家は公爵に準ずる扱いを受けている。

 そのため外交的な配慮から公爵を置かず、侯爵が王家に次ぐ爵位であった。

 つまり、ものすごく偉い人である。機嫌を損ねるわけにはいかない。


「まあいい。本来、ジムの月謝は月に銀貨三枚だ! ……が、しかし! アパルトメントの入居者は、いつでもタダで使い放題だッ!」


「へぇ……」


「よかったな!」


「……はぁ」


 侯爵がオズワルドの両肩に手を置く。

 何がよかったのかさっぱり分からなかった。

 いずれ分かる日が来る。……かもしれないが、来ないほうが良いかもしれない。


「生徒には平民も多い。だが、ここでは貴族も平民も無ぇ。自分の求める、自分による、自分のための、そんな美しい筋肉を作り上げようとする者がエライのだ! 横柄な態度は許さんからな。そして!」


 侯爵はオズワルドの両肩に置いたままの手に、さらに力を込めた。

 がっしりとした巨大な手は、まるで万力のような力だ。

 妙に顔が近く、鼻息が顔に掛かる。まるで突風のようだった。


「――今はひょろひょろでモヤシのようなお前も、王立学院を出る頃にはオレの領域に近づけるだろう……! 期待しているぜ!」


 侯爵の大胸筋が、触れてもいないのにピクピクと動いた。

 何か勘違いされている気がするが、ここではオズワルドが新参なのだ。

 郷に入りては郷に従えという。


「ど、どうも……」


「よし! お前の部屋は二階の二号室だッ! 来いッ!」


 パンツ一丁で全身に油を塗った怪人も、きっと都会ではありふれているに違いない。

 ここは辺境のウバスとは違うのだ。


「そうだ、そうに決まってる……。多様な価値観を認められる男になるんだ、僕は……」

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