第1話 エイプル中央駅
「――さま、オズワルドさま」
オズワルド・ノートンの肩を揺すっている少女の声は、お馴染みのナオミ・グリーンバーグだ。
ノートン家に仕えるメイドで、オズワルドを起こすのが日課になっている。
二つばかり年下の幼馴染みでもあり、臆病で泣き虫な所もあるが優しい少女だった。
「ん……ナオミ……あと五分だけ」
ナオミはとても優しいので、大抵の場合は実際に五分待ってくれる。
そもそもそれを見越して、最初から早めに起こしてくれるのだ。
「駅員さんが困りますよ。到着です、王都ですよ、王都!」
「なにっ!」
不意に意識が現実へと帰る。
「到着……ですよ! 見てください! 建物がたくさんあります!」
窓の外には、どこまでも建物が並んでいる。高い物、低い物。
昔ながらのレンガ積みもあれば、最新の鉄筋コンクリートらしきものもいくつかある。
ここは屋敷のベッドでもソファでもない。
オズワルドが居たのは、汽車の車内。寝台車の個室だ。
到着を告げる駅員のアナウンスと、行き交う無数の人々の喧噪が響いていた。
他の乗客は、一人、また一人と車外へ出て行くのが開け放たれた扉越しに見える。
山高帽を被りステッキを抱えた紳士が、日傘と扇子を持った貴婦人が、次々と列車を降りていく。
「そうか……! ついに、ついに着いたんだな!」
長い旅だった。
実家のあるウバスから最寄り駅のあるボルドックの町まで、馬車で丸三日。
そこから夜行列車で丸々一晩。周囲はすっかり朝になっていた。
「はい……まるで夢のようです……! ナオミは今ここで人生が終わったとしても、なんら悔いはございません!」
ナオミはメイド服のエプロンで目もとをぬぐった。
「いや、そんな大げさなことでもないだろう」
「そんな! オズワルドさまはナオミの分の切符も買ってくださいました。駅員さんに行き先を告げて、お金を払って……私一人であれば、とても為し得なかった偉業です!」
降りようとしていた乗客が振り向いて、不思議そうな表情を浮かべた。
注目されているらしい。
オズワルドは自分の耳が赤くなるのを感じた。
「と、とりあえず降りようか」
「はい」
ここはエイプル王国の首都、王都エイプル。
エイプル
蒸気機関のブロー音が喧噪をかき消す。
この一歩こそが、全ての始まり。ここから全てが始まるのだ。
大きなリュックサックを背負ったナオミは、目を丸くして周囲をキョロキョロと見渡している。
「どうした?」
「いえ……すごい人ですね」
人混みに驚くのも無理はない。
地元のウバスは、はっきり言って田舎だ。
隣国アリクアム共和国との国境近くに位置しているが、それはすなわちエイプルとアリクアム両方から辺境扱いされている、ということでもある。
最も人口が多い王都エイプルとは比べものにならない。
人ごみをかき分け、改札を抜ける。
「とりあえず、朝食にしよう。ナオミ、何か食べたいものある?」
「は、はい。あの、オズワルドさま……」
ナオミの視線の先にあるのは、新しい料理として近年人気の『ハンバーガー』。
焼いた挽き肉をパンで挟んだもので、都会の若者に人気があるという。
当然、ウバスには存在しない。
かつて、王都から帰った兄がその味を忘れられず、料理人に命じて作らせた事がある。
彼はノートン家に古くから仕える料理人で確かな腕を誇ったが、見たこともない料理を再現できず、完成したのはなぜか三角形に切りそろえられたサンドウィッチであった。
「そうだね。僕も食べてみたい。行こうか」
「は、はい!」
店内に入り、適当な席に付く。
しかし、いつまで経っても注文を取りに来ない。
客の残した食器を片付けながら、店員が言う。
「お客様、あちらでご注文を承ります」
奥にあるカウンターで注文するように店員に言われてしまった。
「なるほど、これがセルフ・サービスというものか……」
カウンターの上に料理のイラストが描かれたメニューがあり、天井付近にも大きな看板で同じ内容が掲示されている。
「らっしゃっせー。バーガー・エンペラーによーこそー」
「初めてなんだ。おすすめの物を頼む」
「はぁ」
下手に知ったかぶりをするよりも、素直に助言を求める方が、結果的に恥を掻かずに済む。
「あー。これなんか人気っすねー」
「それを頼む。二人前だ」
代金は二人で銀貨一枚。平民の食事としては、特に安いものではない。
ものの一分で料理が出て来たが、これにはナオミも驚いたようだ。
「ナオミがお持ちします」
ハンバーガーと揚げた芋、飲み物が乗ったトレイをナオミが席に運ぶが、座ろうとしない。
「ナオミ、座りなよ。ここは屋敷じゃない。父上も母上もメイド長もいないんだ。誰も文句は言わないさ」
「は、はい。ではその、失礼します」
ナオミは遠慮がちにボックス席に掛けた。
周囲の客を観察すると、ナイフやフォークを使わずに齧り付くものらしい。
意を決してハンバーガーを口にする。
パサパサとしたパンの食感、そして。
「…………ゴム?」
ゴムから肉汁と香辛料の香りが染み出し、口腔内に広がっていく。
確かに変った味だが、どことなく癖になる味だった。
行商人が持ってきたチューインガムの食感を思い出す。
あれはいくら噛んでも飲み込めない、食べ物とは思えない食感だった。
飲み込むのではなく噛んだ後吐き出すと知ったのは、次に行商人が来た時である。
無論、これはゴムではなく肉のはずだ。
「……なるほど、これが王都の『ナウなヤング』に人気の料理か。……ナオミ、どうした?」
ナオミはポロポロと涙を流していた。
顔をくしゃくしゃにして、ハンカチで目を押さえている。
「も、申し訳ありません、オズワルドさま……私、こんな都会的なもの食べたの、初めてで……」
「な、泣くんじゃない! ノートン家が使用人にロクなものを与えていないみたいじゃないか!」
「し、失礼しました! でも……これが『トレンディな』都会の味なんだなぁ、って思うと嬉しくて嬉しくて……オズワルドさま! ナオミは今日の事、一生忘れません! 王都行きのお供に私をお選びいただき、本当にありがとうございますぅ……」
この料理のレシピとセルフ式の店舗を発明したのは、エイプル王国の国王、ジョージ。
家柄のはっきりしない流民と言われるが、三十年程前に当時の王女、マリアに見いだされ、様々な発明を成し遂げた。
その発明は画期的なものばかりで、蒸気機関をはじめ自動車、電灯と枚挙にいとまが無い。
科学文明という概念を打ち立てた偉人だ。
「ナオミ、僕はやるぞ。王立学院に入って、うんと勉強して。ジョージ王のように、人々の暮らしをより良くしてみせる」
「その意気ですわ、オズワルドさま。でも……」
ナオミは顔を伏せた。
「でも?」
「国王陛下のように、亡くなられては困ります」
ジョージ王の数々の発明は、総称して『産業革命』と呼ばれている。
剣と魔法と封建主義が支配する世界を、瞬く間に塗り替えた大改革だ。
画期的ではあったが、人間の能力というものにはあまり差が無いようで、多くの発明品はコピーがコピーを生み、瞬く間に全世界へと波及していった。
しかし、あまりにも急速すぎる改革は大きなひずみを生み出すことになる。
隣国クレイシク王国の過激派によってジョージ王は暗殺され、『大陸戦争』と呼ばれる大戦争が始まったのだ。
参戦各国の国力を総動員する総力戦で、各国は疲弊。
ついにはこのエイプル王国でも、王家を追放するクーデターまで起こってしまった。
同盟国の支援を受けて程なく鎮圧されたのが幸運である。
「ナオミ。戦争はもう終わったんだ。僕はジョージ王のようには死なないよ」
「オズワルドさま……」
ナオミは僅かに頬を染め、オズワルドを上目遣いで見つめてくる。
子供の頃からの付き合いだが、近年はずいぶんと女らしくなっていたのだ。
ナオミはハッとしたように目を逸らすと、肩まで伸びた黒髪を弄んだ。
「さ、そろそろ行こうか」
「はい!」
二人で席を立つ。
外に出ると、通勤ラッシュも和らぎ、落ち着いた町並みが広がっている。
しかし辺境出身の二人にとっては、何もかもが新鮮で過剰に賑やかに見えた。
年に一度の祭りでも、これほど人が集まることはない。
焼け付くような真夏の日差しは、二人に容赦なく突き刺さった。
森に囲まれたウバスとは比べものにならない暑さだ。
ほんの一瞬で汗が噴き出してきた。
「す、すごいな……」
「は……はい……」
馬も無しに走る車が行き交う。
ガソリンと呼ばれる石油系燃料を使う『自動車』だ。
何本もそびえる電柱は、通信信号や電気エネルギーを各家庭に行き渡らせるものだという。
立ち並ぶガス灯の灯りは、夜でも昼間のように明るいそうだ。しかも、より明るい電灯に徐々に置き換えが進んでいるという。
建物も石造りやレンガ積みが多く、木造建築はほとんど無い。
道路も石畳で舗装され、歩道と車道に分けられている。
二人は駅前通りをお上りさんを丸出しにして歩いた。
周囲の通行人は、そんな二人をまるで気にも留めようとしない。
ウバスでは住民全てが顔見知りだったが、ほんの数分歩いただけでウバスの人口を超える人々とすれ違った。
「なるほど、これが王都か……」
煤煙に覆われた空は、強い日差しがリング状に乱反射していた。
時に、大陸歴九一九年。
全世界を巻き込んだ前代未聞の『大陸戦争』終結から一年が経っていた。
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