第12話 覆水盆に返らず

「ただで叶えてくれるんじゃね~の!? オレ、何も用意してきね~よ!?」


「大丈夫、心配しないで。こっちで勝手に取るから」



その日光一は、久しぶりに寝坊した。


『葉音、怒ってるだろうなぁ……』


昨日の夜、光一は葉音のことで母親と喧嘩になった。


それで寝るのが遅くなってしまい、寝坊したのだ。


『お母さんはずっと、いつか僕が葉音の家に行くのに飽きると思ってたんだろうなぁ……』


光一の母は、葉音とした口約束を光一が12年もの間本気で守り続けるとは思っていなかったようだ。


しかし光一はこれからもずっと葉音の家で働き続けるつもりでいる。


『いつかわかってくれるといいけど……』


そんな事を考えながらも、小走りで葉音の家に急ぐ。その途中、10歳くらいの男の子とすれ違った。


鼻歌でも歌い出しそうなくらい、ご機嫌な男の子。


それを見て、嫌な予感が光一の胸をよぎる。


その子は今、葉音の家の方から来た。願いを叶えてもらった帰りかもしれない。


『代償、大変なもの取られてないといいけど……』


葉音の家が見えてきたので、小走りをやめて全力で走る。


「遅い」


ついた途端、息を整える間もなくドアが開き、葉音の不機嫌な顔が目に入った。


やはり葉音は、怒っている。


「ごめんね」


「おかげで生意気な客一人で接客する羽目になったじゃないの」


やはりさっきの子は、葉音に願いを叶えて貰って帰ったところだったようだ。


「途中で男の子とすれ違ったんだけど、やっぱりあの子、お客さんだったんだ。


どんなお願いをしに来たの?」


光一が尋ねると、先ほどまでと打って変わって、葉音はニィッと笑った。


悪魔を連想させる、怖い笑み。


「好きな女の子がいるんですって。で、その子も自分を好きになるように、って言うから、叶えたわ」


それを聞いた光一は、言葉が出なかった。


『寝坊するんじゃなかったよ……』



今から約12年前。光一の7歳の誕生日。


光一が葉音の家で働くようになってから、初めて迎えた誕生日だった。


「今日ね~、ぼく、誕生日なんだ!」


光一がそう言うと、葉音は少し考えてからこう言ってくれた。


「じゃぁ特別に、願いを一つ、ただで叶えてあげる」


「本当!?」


「本当よ」


光一は嬉しくてたまらなかった。「ふ~ん」っと、流されるだろうと思っていたからだ。


「何がいい?」


「えぇっと……どうしよっかなぁ……」


しばらく考えて思いついたのは、最悪の願い。


でもその時は、無邪気に。ただただ無邪気に、光一は願った。


そしてそれを葉音は、いとも簡単に叶えてくれたのだ。


魔法、あるいは奇跡を使って。


「ぼくは葉音のことが好きだから、葉音もぼくを好きになってよ!」




光一が寝坊した日から、数日たったある日。


この前の男の子が、もう一度葉音の家を訪ねてきた。


「こんにちは~!」


元気よく挨拶をして入ってきたその子をちらっと見た葉音の目は、冷たかった。


幼いとはいえ相手はお客さんなのだが、お茶やお菓子を出せと光一に指示することもしない。


けれど一応、光一はお湯を沸かし始めた。


「どうしたの? また何か叶えて欲しいの?」


話しかけた葉音の顔は笑顔。だがそれは、気に入らないタイプの客に向ける営業スマイルだ。


その営業スマイルを、光一は心の中でこっそりと『悪魔の微笑み』と呼んでいる。


「いや、そうじゃなくってさ。この間の願い、取り消してもらおうと思って」


そんなこととは知らない男の子は、何でもないことのようにそう答えた。


光一は驚いて、食器を準備していた手を止めてしまう。


「どうして? せっかく代償払ってまで、叶えてもらったんでしょ?」


代償を返して欲しい、ならわかる。光一自身過去にそう葉音に訴えたし、そういう人は他にもいた。


けれど、願いを取り消して欲しいと言ってきたのは、光一の知る限り彼が初めてだった。


「だって、オレもう理絵香ちゃんのこと好きじゃないし」


「えっと……もうちょっと詳しく聞かせてもらえる?」


「だからさ~」


彼の声には、面倒くさい、という思いがにじみ出ている。


「この前来たときはオレ、理絵香ちゃんのことが好きだったから、理絵香ちゃんにもオレのこと好きになって欲しかったんだよ。


でも、オレもう理絵香ちゃん好きじゃなくなっちゃったんだよね。なんでかわかんないけど。


だからさ、好き好き言ってくる理絵香ちゃんうざったいし、魔法にかかってるなんてかわいそうじゃん?


だから魔法、解いてもらおうと思って」


くーりんぐおふってやつだよ、っと。よくわかっていないであろう言葉で、彼は説明を締めくくった。


『葉音、この子嫌いだろうなぁ……』


光一は恐る恐る葉音の表情を窺う。葉音は営業スマイルを捨て、蔑むような目で男の子を見ていた。


「無理よ、そんなの」


声も、ひどく冷たい。


「彼女があなたを好きなのは、”魔法にかかっている”からじゃないの。


”魔法にかかって好きになった”からよ。かかり続けているわけじゃないんだから、解くも何もないわ。


それに、うちにはクーリングオフなんてありません」


こぼれた水は、元の器には戻らない。


「えっと……?」


「彼女があなたのことを好きじゃなくなる魔法をかけない限り、そのままってこと。


そうして欲しいって言うなら叶えるけど、別に代償取るわよ」


「えぇ~!」


男の子は不満そうな声を上げ、しばらく考えて


「じゃぁいいや。何取られたかよくわかんないけど、この前もなんか取られてるんだろ?


別にこのままでも困らないし、さらに取られるなんて嫌だし」


取り消しという願いを、取り消した。


「あっそ、じゃぁ帰れば」


「……昨日と全然ちげぇーな……」


ぶつくさ言いながら、男の子は帰って行った。


「ああいうやつって大っ嫌い! 光一、お茶!」


ドサッと。葉音はイスに勢いよく座る。相当腹が立ったようだ。


光一は素早くティーカップを差し出した。


「はい」


「……早いわね」


「さっき、準備してたからね」


一応、お湯を沸かしておいたことが役に立った。


「偉いじゃない」


お茶を飲み、葉音は機嫌を直したようだ。柔らかく微笑んでいる。


今なら聞いても嫌な顔はしないだろうと思い、光一は尋ねた。


「ねぇ葉音、あの子の最初の願いを叶えたとき、代償は何を取ったの?」


光一が寝坊したあの日。男の子の願いを尋ねた光一に、葉音は悪魔のように笑って


”好きな女の子がいるんですって。で、その子も自分を好きになるように、って言うから、叶えたわ”


と答えた。


それは、少しおかしい。


『それだけじゃ、あんな風には笑わないよね』


人の心を変えること。歪めること。それは、葉音にとっては何でもないことだ。


自分の心を変えることすら、なんとも思わなかったぐらいなのだから。


だからあの話には、続きがあったはずだった。その時光一がショックで聞きそびれてしまった続きが。


「あの子が女の子――理絵香ちゃんを好きだっていう気持ちを、貰ったわ」


ざまぁみろ、って感じよね。葉音はそう言って笑った。


「なるほどね」


光一が思った通りだった。


願いが叶っても意味のない状況をつくったからこそ、葉音はあんな風に笑ったのである。


「じゃあさ、僕からお願い。


理絵香ちゃんの心を、魔法がかかる前、つまりあの子を好きになる前に、戻してあげてくれない?」


魔法がかかり続けているわけではないから、魔法を解くことはできない。


ただし、”元に戻す魔法をかける”ことはできるのだ。


葉音の力をもってすれば、こぼれた水を元の器に戻すのだって、簡単なこと。


「いいけど代償取るわよ」


「わかってるよ。お金でいい?」


光一は基本的にお金を使わないので、葉音から毎月貰うお給料がそこそこ貯まっている。


「いいわよ。五万円ね」


「わかった。明日持ってくるね」


笑顔を浮かべながらも、光一は複雑な心境だった。


『お金で、人の気持ちが変わっちゃう……』


人の気持ちを変えることなんて、葉音にとってはちょっとした事。


おそらく五万円は、なんとなく思いついただけの値段なのだ。


そんな事を思っていると、葉音は突然パンっと手をたたいた。


光一は思わずびくっとしてしまう。


「びっくりした……」


「今ので戻したわよ」


「あぁ、なるほど……ありがとう」


本当に、あっという間にことはすんでしまった。


これで、理絵香ちゃんという子はあの男の子のことを、好きでもなんでもなくなったのだろう。


どうしてここ数日あの男の子を好きになっていたのかわからない、と不思議がるかもしれない。


「ぼーっとしてないで、仕事始めなさい。屋根裏の床がほこりだらけだから、拭いてきて」


「は~い」


返事をした瞬間、光一は屋根裏部屋に立っていた。一瞬とまどったが、すぐに葉音が魔法か奇跡を使ったのだと理解する。


ご丁寧に、水の入ったバケツとぞうきんもすぐ横に置いてあった。


『これぐらい自分でやるのに』


苦笑いしながら作業を開始する。


絞ったぞうきんで床を拭きながら、光一はぼんやりと考えた。


『本当は葉音の気持ちも、元に戻してあげるべきなんだろうなぁ……』


”好きになって欲しい”という願いを叶えて貰ったときは幼すぎて、光一は自分がしたことがよくわかっていなかった。


単純に、葉音に好きになって貰えたことを喜んだのだ。


それから何年もたって自分が願ったことを忘れていき、それからまた何年もたったある日……


何のきっかけもなく。唐突に。その誕生日のことを思い出した。


『きっとそのときの葉音には、人を好きになるってどういう感じかよくわかってなかったんだろうなぁ……


僕もわかってなかったし。きっと今日の男の子だって、よくわかってないだろうし』


ぞうきんが真っ黒になったので、バケツの水で洗う。たちまち水は真っ黒になった。


が。


『さすが』


水はすぐに透き通った綺麗なものに代わった。


どうやら葉音は、光一がお茶をすぐに出したことで上機嫌になったらしかった。


『無理矢理気持ちを変えちゃったのは悪いことだし、戻してあげた方がいいって、思ってはいるんだけど』


床ふきを再開しながら、ため息をつく。


『葉音が僕のこと好きじゃなくなっちゃったら、寂しすぎるよ……』


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