えんじぇる おあ でびる

木兎 みるく

本編

第1話 桜の花と母の記憶

「うん。ここだ」


男の子は目の前に立っている古ぼけた小さな家を眺めると、そうつぶやいた。


この家には女の人が一人、住んでいる。


その人は天使とも悪魔とも呼ばれていて、魔法が使えると噂されていた。


男の子はその人に、お願いをしようとやってきたのだった。


ドアをノックしようと、手を伸ばす。すると……


「どうぞ~」


中から女の人の声がして、一人でにドアが開いた。


「!」


「私に用があるんでしょう?」


中にいたのは、真っ黒いワンピースを着た女の子。


彼女は男の子の手を取ると家に引っ張りあげ、ばたんとドアを閉めた。


「名前は?」


「ぼくの名前は……光一、です」


男の子、光一は、緊張してそう答えた。


「そう、光一。いい名前ね」


女の子はにっこり笑う。かわいらしい笑みだったが、光一はその笑みを見ても緊張が解けなかった。


「私は、葉音(はね)。私に、なんの用?」


「願いを、かなえてほしいんだ」


光一はそう言うと、葉音に一枚の写真を見せた。


「枯れかけた、桜の木?」


「うん」


光一はうなずく。


「春が来たのに、この木だけ花が咲かないんだ。そんなの、悲しいから。


だから花を咲かせてほしいの」


「ふ~ん。なるほどね」


葉音はうんうんと頷いた。


「悪いけど、ただで願いを叶えるわけにはいかないの。


今日一日きつい仕事をするのと、大事な物と交換するの、どっちがいい?」


「えぇっと……」


光一が迷っていると、葉音は独り言のようにつぶやいた。


「働いてもらうとしたら、まず雑巾がけでしょ。


薪も運んでもらわなきゃいけないし、魔法の薬を作るのに使う大釜も、汚れてきたから綺麗にしてもらわないと。


全部終わる頃には……外は真っ暗かもね」


「物と、交換で!」


思わず光一は叫んだ。そんなにたくさんの仕事は、自分にはとてもできないと思ったのだ。


「OK☆ じゃあ、あなたの大事な物をもらうね」


葉音はそう言うと、光一の頭に手を当てた。


「?」


しばらくして、葉音は光一の頭から手を離した。


「もう帰っていいわよ。願いは、叶ってるから」


「本当!?」


光一は驚いて叫ぶ。


「本当」


葉音がにっこり笑ってそう答えたのを聞くと、光一も嬉しくなって、笑顔になれた。


「ありがとう! 葉音は悪魔とも天使とも言われてるけど、ぼくにとっては天使さまだったよ♪」


光一はそうお礼を言うと、葉音の家を飛び出し、桜の木を見に行った。


桜は綺麗に咲いていた。


「わぁ……」


その美しさにしばらく見とれていると、後ろから肩をたたかれた。


「桜、咲いたのね。よかったわね、光一」


振り返ると、女の人が立っていた。親しげに話しかけてきたが、全然知らない人だ。


「おばさん、誰?」


「ままごとでもしてるの? でもそんな風に言われたら、お母さん傷ついちゃうな」


光一の問いに女の人はふざけた調子で答えた。その女の人の態度が、光一には不思議でならない。


「そういえば、なんでぼくの名前知ってるの?」


「光一? 何言ってるの?」


「おばさん、誰?」


「光一? お母さんじゃない。なんでそんな……」


「オカアサン? 何それ」


光一がそう言うと、女の人の表情が変わった。光一の肩を強くつかんで揺する。


「光一、ふざけてるの? お母さんいい加減怒るわよ!!」


「痛いよ! おばさん、いきなり何するのさ!」


女の人に怒鳴られ、光一は怒鳴り返した。


何を言われようと光一にとってその人は、初めて会う、知らないおばさんだった……



「愚かな子ね。失った物に、全く気づかないなんて」


葉音は水晶玉で光一の様子を見てそうつぶやいた。


彼女の顔には、光一に見せた笑みからは想像もできないような邪悪な笑みが、浮かんでいた。



数日後、葉音の家に再び光一が尋ねてきた。


「オカアサンの記憶を、ぼくに返して」


光一は小さな声で、でもしっかりとそう言った。


それに対し、葉音は意地の悪い笑顔で答える。


「返してあげてもいいけど~」


「それなりの代償、払ってもらうよ?」


「父親の記憶と交換、とか」


「大事な友達の記憶と交換、とか」


「それとも一生、ここで働く?」


「それくらいの覚悟があるなら返してあげるよ?」


予想通り、光一はうつむいた。


葉音はさらにたたみかける。


「お母さんの記憶ってさ、あんたにとってそんなに大切?」


「そんなにしてまで取り戻さなきゃいけないものかな~?」


「思い出せなくても特に困らないでしょ?」


「それってホントに必要なの?」


「ん?」


光一の顔をのぞき込む。


すると光一は、葉音の予想を裏切った。




顔を上げ


葉音の目をしっかり見て


はっきりと、言った。




「オカアサン、毎日泣いてるんだ」


「それは、嫌だから」


「毎日働くよ。だから、返して」




葉音は驚いて、一瞬言葉を失った。


それでもすぐに我に返り、言葉を紡ぐ。


「ホントにいいの~?」


「きっつい仕事、たくさんやってもらうよ~?」


今度こそ逃げ出すだろう、と思ったのだが。


「がんばる」


そう答えた光一の目には、強い力がこもっていた。


「……!」


「じゃぁ、早速。外に薪が積み上げてあるから、運んできなさい!」


葉音は慌ててそう言って、怒ったような目で光一をにらむ。


光一は、慌てて家の外に飛び出していった。


逃げるようにではなく。


使命感に燃えているかのように。

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