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「なあ、これに何の意味があるんだい」


「頭を冷やせってことだよ」


 僕らは広場を見下ろす歩道橋の上に陣取っていた。本当なら相方君の邪魔にならないようにどこか適当な喫茶店にでも連れ込みたいところだったのだが、松方があくまで相方君から目を離すつもりはないと言い張ったのだ。


 いまや日はすっかり落ち、歩道橋の上からは闇の中で点々と灯るビルの光や電飾が見渡せた。見慣れた街並みのはずなのに、見ているだけで心が浮かれてくるのが分かる。人間だけじゃなく、街もまた精一杯のおめかしでクリスマスを迎えるのだ。僕は思った。悪くない眺めだ。できれば、漫才狂の男ではなく女の子と見たかった。


「ていうかお前、何で双眼鏡なんて持ってるんだ」


「昔、ピンのネタで使ったことがあるんだ。ちなみにさっきのロープもそうだね」


 松方は双眼鏡を覗いたまま言った。そんな僕らは明らかに不審がられている。通行人がみな僕らを避けて通るのが分かった。


「いいか。クリスマスを恋人と過ごすっていうのは大事なことなんだ」


 僕は物分りの悪い子供に懇々と諭すように言った。家庭教師のバイトで中学生に勉強を教えてる時だってここまで真剣になったことはないだろう。


「大事だって言うけど、それは老人ホームで慰労の漫才をするよりも?」


 出来の悪い生徒が訊く。


「ああ」


「娯楽に飢えた老人たちから楽しみを奪ってでもすることなのかい?」


「意地の悪い言い方をするなよ」僕は言った。「小道具まで用意してるんだ。ピンでやればいいだろ」


「ピンじゃ漫才はできないだろ」


 変なところで頑ななやつだ。僕はため息をついて、広場を見下ろした。約束までまだ時間があるのだろうか。相方君はじっとスマホを見つめている。


「相方はスマートホンで何をしているんだろうね。ソーシャルゲームにはまっているという話は聞かないが」


「バカ。女の子の連絡を待ってるんだよ」


「連絡? だって待ち合わせてるんだろ」


「それでも、だよ。『いま電車に乗ったよ』とか、『もうすぐそっちに着くから』とか『今日のデート楽しみにしてます』とか、逐一情報を伝えてくれるのを期待するのが男心ってもんじゃないか。迫るデートの期待感を確かなものにしたいんだよ」


「やれやれ、男心ときたもんだ」松方はそれがさもいかがわしいものであるかのように言った。「俺にはよく分からないな。それならまだスパゲッティ・モンスターの方がリアリティがある」


「僕にはお前がエイリアンか何かだと思えてきた」


 こいつとは何一つ話がかみ合いそうにない。


「失礼な奴だな」松方はさして不機嫌になるでもなく言った。「それにしても相方の奴も何を考えているのやら。約束の時間はもう三十分は先のはずなんだぜ? ネタの稽古にはいつも遅れて来るくせに、ずいぶんとまた先走ったもんだ」


「こういうのは待つのも楽しみのうちなんだよ。お前だってクリスマスの夜はサンタを待ってワクワクしたんじゃないか?」


「うちのサンタは親父だったしプレゼントはクリスマスの前から物置にしまってあったよ。君の家は違うのかい」


「夢がない奴だな」


「夢ならあるさ。漫才で天下を取るって夢がね」今度は松方が熱くなる番だった。「俺は去年までずっとピンでやってきた。相方が見つからなかったからだ。俺が何の苦労もしなかったとは思わないでくれ。相方を見つけるのだって簡単なことじゃないんだ。みんな、俺の言ったことには笑ってくれるし付き合ってくれるけど普通はそこまでだ。休日に漫才をするからちょっと身体を貸してくれなんて言ったところでついて来てくれる物好きはそういないよ。あの相方も知り合いのツテをたどってようやく見つけた相手なんだ」


「何でそこまで漫才にこだわるんだよ」


「それは俺にもうまく説明できない。Because I love Manzaiと答えるのが精々でね」


「何で英語なんだ」


 言った瞬間、松方がびしっと指をさしてきた。


「それだよ」


「どれだよ」


「君は自分にツッコミが入れられるとでも?」松方は言った。「俺がボケる。相方がツッコむ。それは一人ではできないことだ。笑いには二人じゃないとできないことがたくさんある」


「そういうもんなのか」


「そういうものさ。たとえるなら、君たちがビデオと自分の右手だけじゃ満足できず生身の女の子を求めるのと同じだよ」


「お前に何が分かるんだよ……って、おい。相方が誰かと通話してるぞ」


 松方が双眼鏡を覗き込む。一方の僕は裸眼で広場を見下ろした。癖なのだろうか。相方はスマホを耳に当てながら仕切りに頷いていた。口を動かしているのは見て取れるが会話の内容までは聞き取れない。ただ、通話が終わったとき、何か重たいものがのしかかってきたように肩を落としたのは遠目からでも分かった。


「どうなったんだろうね」松方がのんきに言った。


「きっとキャンセルされたんだろう」


「キャンセルだって?」


 かわいそうな相方はとぼとぼと駅舎に向かって歩いていった。ちょっとそこらでは見られないくらい悲哀を感じさせる背中だ。どっと落ちた肩。うつむき加減の頭。「背中で語る」とはよく言うが、どんな名優でもこの背中の雄弁さにはかなうまい。そっと家に帰して泣かせてやろう。それが僕らが彼に示せる精一杯の優しさというものだ。しかし、そうは思わなかったやつがいた。それも僕の隣に。


「ははは、これはいい気味だ。彼にも約束を破られる気持ちがよーく分かっただろう。よし、これはチャンスだ。あの弱った状態ならロープの助けを借りずとも老人ホームに連れて行けそうだぞ」


 失恋の痛みも、松方にとっては本当に理解できないことなのだろう。それは、僕がこいつの漫才への情熱を理解できないのと同じだった。そう、理解できない。だから言った。


「やめとけよ」


 自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。


「どうして」


 松方は熱を急に奪われたように言った。


「一人にさせてやれ」


 僕は駅舎に吸い込まれていく相方の背中を目で示す。松方は何か言いたげだったが、口をつぐんで哀愁漂う背中を見送った。

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