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「ううん。全然気にしてないから。僕のことは気にしないで、そっちはそっちで楽しんでよ」


 僕は電話を切った。思わず漏れたため息が、洗面台の鏡を曇らせた。僕は改めて鏡に向かい合う。そこにはついさっきまでやや浮かれた表情で髪型を入念にチェックする男の顔が映っていた。それがいまはどうだろう。まったくの無表情。僕は思った――なるほど、これがクリスマスに予定していたデートをドタキャンされた男の顔 か。とことんまで冴えない。


 冴えない顔の男がクリスマスのパートナーを見つけるのは簡単なことではなかった。この顔では、黙って教室の隅っこに座っていたところで女の子が寄ってくるはずもない。女の子はきれいなものが好きなのだ。顔のいい男や、自分を着飾る装飾にお金を出してくれる男に集まるのは当然のことと言えた。それはいわば自然の道理で、僕自身にはどうしようもできないことだ。十九年間、そんな諦観を抱えて生きてきた。


 それが変わったのは去年、大学の友達と酔いつぶれながらイヴを越したときだ。


 目覚めるとそこは友達のアパートで、僕はこたつに半身を突っ込んだまま寝ていた。こたつの天板には空のビール缶がボーリングのピンよりもたくさん並んでおり、その中身がどこへ消えたのかを想像すると戦慄を覚えた。床やこたつで雑魚寝している男たち(未成年)を勘定に入れたとしても常軌を逸した飲みっぷりだった。


 このすさんだ光景はいったいなんだ。


 そう考える頭がひどく痛んだ。名状しがたい不快感が僕を混乱へと叩き落す。何かひとつでも確かなことが欲しくてスマホで時間を確認すると、十二月二十五日がもう半分しか残っていないことに気づいた。


 あのときに覚えた惨めさは他にたとえようがない。当時の僕には、「人生初の二日酔い」というだけで片付けることができなかったとにかく僕は、こんなクリスマスは二度とごめんだと堅く誓った。


 冴えない顔の男が彼女を作ろうと思ったら、それこそ一大決心が必要だ。年が明けてからコンパや飲み会の話には積極的に食いついた。「キャラ変わった?」と言われるほど陽気にはしゃぎ、場を盛り上げた。最初は空気を読み違えて手痛い失敗をしでかすこともあったものの、そのうちコツがつかめてきた。僕のくだらない冗談で手をたたいて笑う女の子を見るのは何にも勝る快感だった。そしてある日のコンパで彼女と出会った。


 相手があまり乗り気でないことくらいは分かっていた。彼女はイケメンの金原を狙っていたのだ。僕だって最初から彼女を狙っていたわけではない。どうせ、お近づきになるならその場で一番人気の吉住さんがよかったのだ。しかし、金原と吉住さんがくっついたとき、僕らの望みは途絶えた。いや、いつもならそこで途絶えていただろう。けれど、僕は諦めなかった。目に見えて落胆している彼女に声をかけ、最初から君を狙っていたんだとでも言うように誘いをかけた。そんな僕の演技がどこまで通じたかは不明だが、なんとかメールアドレスを聞き出すことに成功し、デートの約束まで取り付けた。それからデートを重ねること数度。何も予定がなかったらという条件付きとはいえ、クリスマスの約束を取り付けたときは天にも舞い上がる気持ちだった。


 それがたった数秒の通話ですべてご破算だ。今日のために空けた時間、デートのために用意した軍資金が重みとなってのしかかってくる。この持て余した時間と金を僕はどう使えばいいのだろう。途方にくれたままスマホを握り締めていると、そんな僕の事情など知ったこっちゃないとでも言うように着信音が鳴り響いた。


「はい」


「よう、小路ちゃん。どうよ、彼女としけこむホテルは決まったか?」


 こんな最低な切り出し方をする知り合いは一人しかいない。


「村上、何の用だよ」


「おいおい、ひどいな。小路ちゃんはよ。小路ちゃんがせっかくものにした女だろ? デートを成功させられるかって心配してんじゃん。俺、まじいい兄貴じゃん」


「同級生だし、誕生日は僕の方が先だろ。酒も飲めないガキが大人の恋愛に口を挟むなよ」


「あっ、感じワリー。ちょっと先に生まれたくらいで兄貴面かよ」


「最初に兄貴ぶったのはお前だからな?」僕は嘆息した。「お前、飲んでるだろ。まだ早いんじゃないか?」


「まさか。いくら俺でもまだ日のあるうちに条例に引っかかるようなことはしないぜ」


「それもどうだか」


 村上の声を聞いていると、電話越しにでも酒の匂いが漂ってきそうだった。


「あのな。こっちだってマジで心配してるんだぜ? まさかとは思うけど、ドタキャンなんてされてないだろうな」


 そのときギクっとしなかったと言えば、嘘になるだろう。村上にはこういう鋭いところがある。


「俺も知ってるが女ってやつは……」


「村上、その話長くなるなら後は一人で喋ってくれ」


「なんだよ、せっかく人が女というこの世の神秘と地獄について……」


「お前がこれまでどんな女に引っかかってきたか知らないけど」僕は言った。「僕はそんなババみたいな女はつかまされないんだ」


「小路ちゃんってホントかわいげないよな。まあ、小路ちゃんがそう言うならいいけどよ。でも、こっちは深夜まで飲んでるからいつでも来てくれよ」


「やっぱり飲んでるのかよ」


 とはいえ、悪くない話だと思った。このまま一人でいてもきっと気分がくさくさするだけだ。飲んで騒いで、この惨めな気持ちを一瞬でも忘れられるなら、その方がいい。僕にはその時間もあれば金もある。僕ももう二十の大人だ。いきがって酒を飲んでいた去年までとは違う。酒の飲み方も二日酔いのつらさも知っている。飲む量を控えれば去年のような惨めさを覚えることもないだろう。慎ましやかに、節度を持って聖夜を楽しもう。そうだ、ケーキでも買ってこいつらを驚かせてやろう。こたつの天板にはビールではなくケーキを置くのだ。


 そこまで想像したところで村上が言った。


「ぐへへ、小路ちゃんが振られたらどんな顔をするか楽しみだな」


 想像の中のケーキがぐしゃっとつぶれた。


「絶対行かねーから」


 僕は通話を断ち切った。せっかくの誘いを無碍にしてしまったとは思わなかった。自分がまた時間と金を持て余してしまったことに気づくよりも先に、また着信があったからだ。


「もしもし? あんた今日暇?」


 実家からだった。家業のスーパーが忙しいから手伝いに来いという。なるほど、品出しの作業にでも没頭して気を紛らわせるのもよかったのかもしれない。


「だいたいあんたね、近場に住んでるんだからたまには帰ってきなさいよ」


 つまりもっと頻繁に手伝えということだ。それがいやで実家を出たというのに、母さんときたら電話の度にこれだ。イラッとした僕は「友達と先約がある」と嘯き通話を終わらせた。


 女の子、友達、親。たった数十分の間にたくさんの嘘をついてしまった。僕はいつもこうなのだ。つまらない見栄や保身から嘘をついて、それで周りを固めてしまう。ありのままの自分に自信がなくて嘘という鎧で身を固めなければ、他人の視線を受け止めることができない臆病者。そんな自分を情けなく思いながらも、変えることができない。


 握りっぱなしだったスマホで時間を確認すると、午後の四時を回ったところだった。それは本当なら駅前の広場で彼女と待ち合わせしているはずの時間だった。昨日の夜、布団の中で何度も繰り返したシミュレーションでは、僕は広場の時計でその時間を確認するはずだった。それが出かけもせず家でスマホを手に立ち尽くしているだなんて昨日の僕が知ったらどう思うだろう。あまりの惨めさに首をくくっていたかもしれない。


 それからどれだけ時間が経っただろう。僕はコートに腕を通し、財布を持って家を出た。気晴らしが必要だった。時間も金もいくらでも余っているのだ。その方法には困るまい。そうは言っても何のあてもないまま僕は家を出た。

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