洪嶽とアルバート
アーレ川のほとりに寝転んでまどろむうち、男はいつしか夢を見ていた。それは他愛のない夢だった。夢のなかで彼は通勤バスに揺られていた。見慣れた街の景色がゆっくりと窓の外を流れ過ぎてゆく。やがてクラム通りの突き当たりに
男は思った――自分は今、光とおなじ速さで宇宙を進んでいるのだ。
不意にまばゆい光が目をつらぬいた。太陽だ。太陽がどんどん近づいてくる。バスは巨大な火のかたまりへ向かって真っしぐらに突き進んでいた。いけない、重力に引っ張られているのだ。男は太陽の有する圧倒的な質量を感じて恐怖した。ひたいから大量の汗が噴き出す。このままでは自分は燃え尽きてしまうだろう。今や眼前に迫った太陽は、旧約聖書に登場する
熱い、熱い、だれか助けてくれっ。
ちっぽけなバスがいよいよ巨大な火の海に飲まれようとする瞬間、男の頭のなかである数式がひらめいた。
E=mc²
そこで男はがばっと身を起こした。手のひらが熱せられた草の感触を味わう。ひたいから幾すじも汗が伝い落ちた。まぶしい。七月の晴天から日が容赦なく照りつけている。目のまえには、エメラルド色をしたアーレ川の清流が、夏草の隙間からまばゆい輝きを放っていた。その涼しげな水音を聞いたとき、男はようやく安堵の息をついた。
今の夢は一体なんだったのだろう。
手についた草を払ってから懐中時計を取り出す。いけない、もうすぐ昼だ。家ではそろそろ妻のミレヴァが得意料理のレシュティでも焼いていることだろう。もう帰らなければ。そう思って腰をあげた瞬間、男はぎょっとして立ちすくんだ。すぐ後ろの土手で、異様な風体をした男が黙ってこちらを見下ろしていたのだ。頭髪をきれいに剃りあげた東洋人で、黒い民族衣装のようなものを着ていた。
少し躊躇したが、もしかしたら自分になにか用があるのかもしれないと思い、声をかけてみた。
「やあ、こんにちは。今日も良い日和ですね」
そうドイツ語であいさつしたが、東洋人は小首をかしげただけだった。そしてアメリカ訛りの英語で、こう言った。
「河原を散歩していたら、あんたがずいぶんと夢にうなされているようだったので、不躾ながらこうして様子を眺めておったのです。一体どんな怖い夢を見ていなさったのかね?」
子供じみた夢の内容を思い起こし、男は気恥ずかしくなった。
「なに、くだらない夢ですよ。それより失礼ですが、あなたは中国人ですか?」
「わたしは日本人で、名を
よく陽に焼けた顔をくしゃっとほころばせる。その天衣無縫とした仕草が好ましく思え、男はみずから右手を差し出した。
「わたしは特許庁の役人で、アルバートといいます」
英語の発音でそう名乗ってから、どちらからともなく河原にならんで腰をおろした。
「日本の僧侶がなぜスイスの街なかを散歩されているのです?」
そうたずねると、洪嶽はバツが悪そうに頭をぽりぽり掻いた。
「じつは、わたしの国は今ロシアと戦争中でしてな。自分も従軍布教師として戦地へ赴いたのですが、いかんせん不殺生を旨とするはずの仏教の僧侶が、殺戮の真っただ中へ身を置くというのはどうにもつらいものがあります。あれこれと思い悩むうちとうとう身体をこわし、戦線を離脱したついでに保養もかね、こうしてヨーロッパの国を旅しているのです」
そう言ってから、洪嶽は急にまじめくさった顔でアルバートを見つめてきた。
「ところでこういう稼業をしていると、人間の苦悩というか、業のようなものが気になって仕方ありませんでな。さしつかえなければ、あなたが夢にうなされるほど思い悩んでいるわけをお聞かせ願えませんでしょうか」
「話しても、きっとあなたには理解できないと思いますよ」
アルバートは遠い目をして言った。
「今までいろんなひとに聞いてもらったけど、だれも相手にしてくれなかった……」
すると洪嶽はあぐらをかいたひざを、ぽんと打った。
「こんな話があります。あるとき
アルバートの顔をのぞき込んで、洪嶽は楽しげな口調で言った。
「その、捨てるものがないという心を捨ててしまうのだよ」
一瞬の沈黙のあと、アルバートはプッと吹き出した。
「あはは、こりゃいいや。日本人というのは、なんて面白いものの考えかたをするんだ」
ひとしきり笑ったあとで、アルバートが言った。
「じゃあ、あなたに訊ねますけど、りんごがみずからの重みで枝から落ちるとするでしょう。そのまま地面と衝突するわけですが、これはりんごが地球にぶつかったのか、それとも地球のほうがりんごへぶつかっていったのか、どちらですか?」
洪嶽は、ふむと息をついて考え込んだ。ほうら理解できないでしょう、とばかりにアルバートが鼻白む。しかし程なくして洪嶽は、川の対岸にある建物を指さして言った。
「あれをご覧なさい」
それは役所の建物で、正面玄関のまえにはスイス国旗がはためいていた。
「あれは旗が動いているのか、それとも風が動いているのか」
アルバートは半ばむっとして言った。
「あれは気流が作用して旗を揺らしているのだから動いているのは旗です。ああでも待てよ、旗は風の動きに合わせて揺れているのだから、つまり……」
洪嶽がにっこりして言った。
「動いているのは、あなたの心です」
アルバートはびっくりして洪嶽を見つめた。そのうちに彼は憑き物が落ちたように晴れやかな表情になった。
「よくわからないけど……今なぜだか急に心が軽くなったような気がします。わたしはあまりにも相対的な観念に囚われすぎていたのかもしれない」
「仏教ではこれを不二法門と言います」
「不二法門ですか。宗教的な思考法は苦手ですが、その教えにはなにか物理学にも通づるものがあるように思えます。あの、それではこれはどうでしょう」
先ほどまでとは違い、洪嶽を見るアルバートの目には明らかに尊敬の念がこめられていた。
「わたしは以前より、質量とエネルギーは等価であると考えていたのですが、これは正しいことでしょうか?」
洪嶽はふたたび視線を宙へさまよわせた。しかしそれは途方に暮れるというより、思いついたイタズラの効果をじっくり検証しているといったふうだった。
「氷は水より生じて水よりも冷たく、青は藍より作られて藍よりも青し。また水を水で洗うことが不可能ならば、金を金で買うこともまた無意味。つまりは、そういうことでしょうな」
さっぱり理解できないにもかかわらず、ものすごく根源的な部分においては当を得ているように思え、アルバートは感心してうなずいた。
「ではもうひとつだけ。今わたしが一番悩んでいる命題なのですが、自由落下する箱のなかに置かれた物体には、はたして重力が作用するものでしょうか?」
聞いているのかいないのか、洪嶽はアーレ川のゆるやかな流れをぼんやり見つめていたが、やがて川面の一点を指さした。
「あれはなんという鳥ですかな?」
少々面食らったアルバートだが、それでも目を凝らしてその鳥を見た。
「あれは……たぶんアオサギですね。どこか南のほうから渡ってきたのでしょう」
そう言っていた矢先に、涼しげな羽音を立てて二羽のアオサギはどこかへ飛び去ってしまった。
「飛んでいったのかな?」
「はい、そのようです」
「どこへ行くのかね?」
「さあ、どこへ行くのでしょうね」
それを聞いた洪嶽は、いきなりアルバートの鼻をひねりあげた。
「痛いっ、なにをするのです」
「飛んでいったというが、アオサギはちゃんとここにいるではないかっ」
そのとたん稲妻のように閃くものがあった。アルバートは忽然となにかを悟り、そして同時に頭のなかである数式が浮かびあがった。
Gμν+λgμν=κTμν
「これだ……」
一瞬夢見るような目つきになった彼は、やがて洪嶽の手を握りしめて言った。
「やっと解を導き出すことができました。全部あなたのおかげです」
「法問を機縁として大悟するは、最上のなかに最上なり、と申しましてな」
「またいつかお会いすることはできますか?」
「お互い生きていれば必ず会えるでしょう。もし日本へ来ることがあったなら、鎌倉の円覚寺という寺をたずねてきなさい」
そう言い残し、洪嶽は悠々と歩き去っていった。
彼こそは、あの夏目漱石にも禅の道を説いたという臨済宗の高僧、
そしてアルバートはこの十七年後、ノーベル物理学賞を受賞することになる。
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