かきつばた(後編)

 日曜日は、あいにくの花曇りだった――。

 大文字山の向こうに、どんよりと黒ずんだ雲の塊が見える。あの雲がこっちへ来たなら雨が降り出すかもしれないと夏乃は思った。

 四条通りから八坂神社を抜けると、そこがもう円山公園だ。こんな天気にもかかわらず、大勢の人で賑わっていた。公園の入り口付近にはたくさんの露店が並び、咲き誇る桜の木の下、びっしりと敷きつめられたレジャーシートに、ほろ酔い加減の花見客たちがひしめいている。

 夏乃たち三人は、早々に食事を済ませると酔って騒ぐ大人たちの喧噪から逃れるように公園内を散策しはじめた。園内には小川が流れており、さらさらと心地良いせせらぎを聞かせてくれる。その川に沿って石畳の回遊路を歩きながら、三人はため息をついた。

「あーあ、大人ってなんでああなんやろ」

「ほんまやなあ。あっ夏ちゃん、そこ足下にゲロあんで、踏まんよう気ぃつけや」

「ぼくとこのお父ちゃんなんか、酔うたら泣き上戸んなんねん、もう最悪やで」

 そんな愚痴をこぼしながら川の流れをどんどん遡っていくうち、三人は枝垂れ柳の覆う涼しげな池の前へ出た。さっきまでの喧噪が嘘のように静かな場所だ。ときおり水鳥の羽がぱしゃりと水面をはじく音が聞こえてくる。

「ねえ夏ちゃん、あれ見て」

 その池に何かをみつけて美也が指さした。見ると灰色の空を映し出す池のほとりに、鮮やかな群青色をした花が群をなして咲いていた。三人は喚声を上げながら駆け寄る。花はどれもしんなりと水に濡れ、散りゆく桜とは対照的にあふれんばかりの命の輝きを放っていた。

「いやぁ、綺麗やわぁ……大ちゃん、これなんっちゅう花?」

「これは……杜若やな」

 その青い花弁を注意深く観察して、大ちゃんが言った。

「カキツバタ?」

「そや。文目とか花菖蒲ともよう似とうけど、ちょっとちゃうねん」

「ふーん……」

 夏乃はしゃがみこんで花をしげしげと眺める。そんな彼女と美也を見比べながら大ちゃんが言った。

「ほら、いずれアヤメかカキツバタ、っち言うやろ。あれ夏乃ちゃんと美也ちゃんのこっちゃで」

 とたんに二人がぷうっと頬を膨らませる。

「あー、大ちゃんゆうたら、うちらのことバカにしてえ」

「ちゃうちゃう、どっちも甲乙つけがたいほど美しいっちゅう意味や」

「ほら、やっぱりバカにしてるう、なあ、美也ちゃん」

「ほんまや、浜口君、イエローカード」

 大ちゃんは、困ったように頭をぽりぽりと掻いた。

「二人にはかなんなあ。ほんなら、こんなんどうや? ……から衣、きつつなれにし、つましあれば、はるばる来ぬる、たびをしぞ思う」

「なんのこっちゃ分からへんわ」

「こ、これはやなあ、伊勢物語のなかで在原業平が詠んだっちゅう歌で、言葉の頭をくっつけたらカ・キ・ツ・バ・タになるっちゅう……」

 夏乃が立ち上がって、つまらなさそうにぽんと小石を蹴った。

「大ちゃんてなんや頭良すぎて、うち、ときどきよう付いていかれへんわ」

「ほんまやわぁ、うちらまだ小学生やのに、ありわらのなんちゃらっち言われても……」

「大ちゃん、勉強しすぎちゃう?」

 すると大ちゃんは、急に寂しそうな顔をして俯いたままこう言った。

「じつはなあ……ぼく二人に秘密にしとったことがあんねん」

「え……?」

 夏乃と美也が顔を見合わせる。

「なんやのん、秘密って?」

「ぼく……、来年なったら東山中学受験すんねん」

 夏乃は驚いて、思わず訊き返した。

「え、よう聞こえへんかったわ。もう一回言うて」

「せやからぼく、東山中学受験せなあかんねん。ほんま残念なんやけどなあ、せっかくこないして夏乃ちゃんや美也ちゃんたちとも仲良うなれたのに……」

 驚いて声もない夏乃のとなりで、美也が嬌声をあげた。

「いやぁ、東山中学っちゅうたら、めっちゃ偏差値の高い名門校やないのー。浜口君すごいわあ」

「……ぼく、ほんまは行きとうないんやけどな、お父ちゃんが」

「あほちゃうか! ほんま、ようゆわんわ!」

 急に夏乃が二人に背を向けて言った。

「別々の中学行ったかて家近所なんやもん、いつかて会えるやないの! そないな永遠にお別れするみたいなこと言わんといて!」

 大ちゃんが、慌てて言った。

「ごめんな、ほんま夏乃ちゃんの言う通りなんやけど……、そやけど、やっぱほら、人間て会わんようなると、なんちゅうか……」

「新しい友だちぎょうさん出来て、うちらのことなんか忘れてまうっち言うん?」

「そやないけど……」

「そうやないの!」

 大ちゃんは、ふうーっと大きく息を吐いて、そして夏乃の顔をまっすぐに見た。

「……むかしお母ちゃんが死んだときな、お父ちゃん、ぼくに向こて言うたんや。ええか大助、今のうちにお母ちゃんの顔よう見とけ、火葬場で焼かれて灰になってもうても忘れへんよう、ちゃんと目ぇに焼きつけとけって……。そやからぼく、泣きたいの我慢してお母ちゃんの死に顔しっかり見たんや、棺のふたに釘打たれて見えへんようなるまで、ずっとずっと……、そやのに」

 大ちゃんが涙をこぼした。

「ぼく……今じゃもうお母ちゃんの顔忘れてもうてん。目ぇつぶって必死に思い出そう思ても、なんや眩しい光みたいになってもうて顔の輪郭しか浮かんでこぉへんねん。なあ、夏乃ちゃん。人間ってどないに大好きな人がおっても、ほんでその人の顔ぜったい忘れへんて誓こても、長いこと会わへんかったらけっきょく……」

 大ちゃんが袖で涙を拭った。美也も俯いてもらい泣きしている。でも夏乃は込み上げてくる涙を必死にこらえた。

「うちは……、うちは絶対忘れたりせえへんよ。たとえ別々の中学通うことんなっても、大ちゃんのことも、美也ちゃんのことも、ぜったい忘れたりせえへんよ。高校生んなっても、大学生んなっても、結婚してママになったかて、ぜったいぜったい……」

「……夏乃ちゃん」

「ぜったい忘れたりせえへんからっ!」

 そう叫んで、夏乃は駆けだした。同時に冷たい雨がぽつぽつと降りだし、池の表面に無数の水の花を咲かせてゆく。それはやがて石畳を叩き、夏乃の後ろ姿を茫然と見送る大ちゃんの顔にも、そして美也の顔にも等しく降りそそいだ。そんな雨のなか、鮮やかな色彩を放つカキツバタの群は、しっとりと濡れながら生き生きと咲き誇っていた……。


 それからちょうど一年後の、つまり昨日の朝早く、大ちゃんは登校する途中、車にひかれて死んでしまった。


「――あ、ママ」

 大ちゃんの葬儀が終わったころ、ぞろぞろと引き揚げてゆく弔問客をかき分け夏乃のママが現れた。右手にスーパーのレジ袋、左手には水色のポリバケツを提げている。

「ほれ、あんたの欲しがっとった杜若や」

「……おおきに」

 夏乃はママが差し出すポリバケツから、きれいな花の束をそっと抜き取った。水に濡れ艶やかに光る群青色の花弁が散ってしまわないよう細心の注意をはらう。

「その花、手に入れんのほんま苦労したんやで」

 ママがふんと鼻息をはいた。

「思てたとおり花屋さん、置いたはらへんかったさかいな、そやからほれ、西小路のご隠居はん、あのひと池坊のお師匠はんやったはるやろ。あっこ行って、お花分けてくださいっち言うて丁重に頭下げてなあ……」

「おおきにな、ママ。そのうちしっかり親孝行させてもらいます」

「そうそう、分かっとったらええねん。さあ、早うそのお花、大ちゃんにたむけたりぃ」

「うん」

 夏乃は花束を抱えたまま、担任の木下先生のところへ行った。彼は葬儀に参列した生徒たちが全員ぶじ家に帰るのを見とどけるため、まだ斎場に残っていた。夏乃が近づいてゆくと、先生は眼鏡のふちを持ち上げおやっという顔をした。

「あの先生、このお花……、大ちゃ、いえ浜口君の棺に入れてあげたい思うんですけど」

 そう言って手のなかの花を見せると、先生は柔和な顔にくしゃっとしわを寄せて微笑んだ。

「やあ、きれいな花だねえ。これはハナショウブというんだよ。むかし先生の家の近くにも花菖蒲園があってね、夏の初めころにはきれいな花を咲かせたものさ」

「ええっ」

「ちょっと待っていなさい、いまお父さんにお願いしてあげるから」

 そう言って木下先生は、弔問客に挨拶をしている大ちゃんのお父さんのところへ行った。入れ替わるように美也が泣きはらした顔でやってくる。

「夏ちゃん……その花、もしかして」

「うん…………、一応」

「うちも浜口君のこと考えたら、この青い花思い出すねん」

「ああ、やっぱり美也ちゃんも……」

 先生が夏乃の名前を呼んで手招きをした。大ちゃんの棺のところだ。その横には、彼のお父さんが立っている。さっきあいさつしたときは気づかなかったけど、夏乃が想像していたよりもずっと若い人だった。

「やあ、大助のお友達やね。今日はうっとこの息子んためにわざわざありがとう」

 そう言って棺の蓋にある小窓をあけ、なかにいる大ちゃんに語りかけた。

「ほら大助、お友達が来てくれとってや」

 夏乃と美也も、そっと棺のなかをのぞき込む。大ちゃんは、色とりどりの花に埋もれていた。

 きみどり、みず色、もも色、よもぎ色、うすむらさき……。

 その甘い香りを放つ花の合間には、副葬品としてお母さんが造った押し花が収められていた。そんな大好きな草花にかこまれて、彼はまるで楽しい夢でも見ているようにかすかに微笑んでいた。

「浜口君――」

 美也は、早くも両手で顔を覆い泣きはじめた。でも夏乃は泣かない。込み上げてくる涙をぐっとこらえ、嗚咽をのみこみ、大ちゃんの顔をじっと見つめた。そして手にした花を、顔の横にそっと置いた……。

 この花は、べつに大ちゃんのために手向けるんとちゃうで。うちのためや。うちが大ちゃんの顔忘れへんためや。楽しかった思い出をいつまでも忘れへんよう、この群青色の花といっしょにうちの心に焼きつけとくんや。そやからうち泣かへん。泣いたら大ちゃんの顔見られへんもん。そしたら大ちゃんの顔、大ちゃんの声、うちが好きやった大ちゃんのなんもかんも忘れてまいそうな気がするもん。だからうちは……うちは…………。

 大ちゃんの白いほっぺたを夏乃の温い涙が打った。先生がそっと肩に手を置く。お別れは、そのまますぐに終わってしまった。

 葬儀場の玄関にはママが待ってくれていた。夏乃のことを見つけ小さく手を振っている。その姿を目にしたとたん、夏乃のなかから今までこらえていたものが一気にあふれ出した。

「わあーん」

「あれあれ、どないしたんや、急に泣き出したりして」

 ママの黒いカーディガンに顔を押し付け、夏乃はしばらく泣きじゃくった。鼻をすすりあげると、ほのかな香水と石鹸と、そして母親の匂いがした。ママは、黒毛和牛を持っていない方の手でずっと夏乃の頭を撫でてくれた。そんな二人の姿を、帰り支度を終えた弔問客が見るともなしに見ては次々通りすぎていった。

「ママ、あんな、あんな……」

 しばらくして夏乃が、えっえっとしゃくり上げながら顔を上げた。ママは、ひざを折ってしゃがみ込み、夏乃と視線を合わせる。

「どないしたんや? 聞いたげるさかい、言うてごらん」

 そう優しく微笑むママに向かって、夏乃は鼻水をずずーっとすすり上げながら言った。

「あのお花な……、カキツバタやのうて、ハナショウブやった」



 あれから十と二年……。

 夏乃は明日、大ちゃんの知らない誰かのお嫁さんになる。カーテンが外され、だだっ広くなった部屋の窓から暗い夜空を見上げ、彼女はそっと目を閉じた。

 大ちゃん、うちな……明日、結婚すんねん。

 まぶたの内に、懐かしい彼の姿を思い描く。転校してきてすぐの熊みたいだなと思ったときの顔……、面白いものまねで自分や美也ちゃんのことを笑わせてくれたときの顔……、野に咲いた草花のことを誇らしげに説明してくれたときの顔……、そしてカキツバタの群生する池の前で寂しそうに微笑んだときの顔……。記憶の底をていねいにさらってひとつずつ大切に拾い上げた大ちゃんの面影は、しかしどの顔も、どの顔も、まるで朧月みたいに淡くかすんで見えた。着ていた服や、髪型や、顔の輪郭は、はっきりと思い出せる。でも肝心の顔の部分だけがなんだか優しい光のかたまりみたいになって、ぜんぜん浮かび上がってこないのだ。夏乃はしばし呆然となった。

 うち、知らんまに大ちゃんの顔忘れてしもてん、くやしいわあ。お葬式んとき絶対忘れへんて誓こたのに。そやのに、けっきょく忘れてまうやなんて。かんにんなあ、大ちゃん……。

 もう一度目を閉じてみる。やはり大ちゃんの顔は、光の彼方にかすんで見えた。

 でも……。

 それとは対照的に、鮮やかな感覚をもって脳裏に甦ってくる色があった。

 ――カキツバタの花が見せる群青色だ。

 その匂い立つような鮮烈の青は、遠ざかる大ちゃんのイメージを優しく包みこんだまま、いつまでも、いつまでも夏乃の胸の内にうずまいて、楽しかった子供のころの思い出や、かつてひとりの少年が思い描いた夢のことを、色鮮やかに訴えつづけるのだった……。



(※ 関西弁監修……かじゅぶさん)

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