かきつばた(前編)

 抜けるような青空に、風がやさしく光っている。そのはるか上を、ひきちぎったような雲がゆっくりと滑る。萌えはじめた草のかげから雲雀が飛びたち、ふいっふいっとさえずりながら、その空へ一直線に吸い込まれてゆく……。

 見るものすべてが生命の息吹と彩りにあふれている、春とはそんな季節だ。

 きみどり、みず色、もも色、よもぎ色、うすむらさき……。

 春には、それにふさわしい色がある。

 たとえば、アザミの花びらのすみれ色、カラマツの新芽のときわ色、スズカケの花のもえぎ色、送り雛の着物のあかね色、祇園の夜桜のなでしこ色……。

 こんなに、たくさん似合う色があるというのに――。

「なんや、あんたまだそないな格好して。早う仕度せな、お葬式にまに合わへんで」

「……うん」

 なんで今日は、黒い服なんか着いひんとあかんのやろ。こないな辛気くさい色、春にはぜったい似合わへんのに。そう思って、夏乃はため息をついた。

「お葬式行ったら、ちゃんと大ちゃんにお別れ言うんやで」

「……」

 大ちゃんと聞いて、夏乃はまた胸がずきんと痛むのを感じた。きのう美也ちゃんと二人であんなに泣いたのに、夜はベッドにもぐり込んで一人でずっと泣いていたのに、もう涙なんか涸れてしまったと思っていたのに……、大ちゃんのことを思い出すと、どうしてもまぶたの裏が熱くなるのを止められない。うつむいて涙をこぼしていると、ママがそっと背中を押した。

「ほらほら、女の涙は真珠て言うやないの、そない気安う流すもんちゃう」

 ママの言うことはいつもピントがずれている。でも夏乃はようやくのろのろと着替えをはじめた。畳の上にひろげられた黒のワンピースにそでを通すと、かすかにナフタレンのにおいがした。

「あ、そうそう、ママちょっと駅前に大切な用があるよってな、少し遅れていくさかい、あんた悪いけど一人で先行っといてんか」

 大切な用というのが、えびす屋のタイムサービスにならんで特売の黒毛和牛フィレ肉をゲットすることだと夏乃は知っていた。今朝ちゃぶ台の上にひろげられたチラシに赤いマジックペンで印が付けられていた。どうせお葬式へは美也と二人で行くつもりだったので、夏乃は「へぇへぇ」と適当に相づちをうっていた。

「そや、ついでに花屋さん寄ってお弔いのお花注文せんならんのや。ああ、いそがしいそがし……」

「あっ」

 花屋ときいて夏乃はとつぜんひらめいた。

 ――春に似合う色がもう一つある。

「なあママ、花屋さん行くんやったら、うちお願いがあるんやけど。どないしても聞いてほしいお願い……」

「なんやのん?」

「カキツバタ買うてきてほしいねん」

「杜若……、そないなもんどないするんや?」

「大ちゃんの棺にな、入れてあげんねん」

「入れてあげんねんて……、それはええけど、お葬式にはお葬式用のもっとふさわしい花があらはるんやで」

「カキツバタやのうたらあかんねん、なあママお願い」

 夏乃が両手を合わせておがむまねをする。ママはしばらくうーんと首をかしげ唸っていたが、ふいに時計を見て「あれ、もうこんな時間やないの」と言ってバタバタ動きはじめた。

「一応あんたの願いは聞きとどけたわ。そやけど杜若なんか花屋さんに置いたはらへんかもしれへんで。あれは水物っちゅうて水棲植物やから」

「絶対あると思うねん、だってあないにきれいな花やもん」

 あないにきれいな群青色した花やもん――。な、そやろ、大ちゃん。



 大ちゃんが転校生として夏乃の通う小学校へやって来たのは去年の春のこと、始業式の全体朝礼も終わり、ざわついた雰囲気のなか、担任の先生に連れられ熊みたいにのっそりと教室へ入ってきた。まゆ毛の濃い、目がくりんとした大柄な男の子だ。ガキ大将のあっちゃんが思わず顔を引き締めた。

「ねえ、夏ちゃん……」

 うしろの席にすわる子が、夏乃の耳に口を寄せてひそひそと囁く。

「なんや、恐そうな子ぉやね」

 そやなあと、夏乃は目だけでうなずいた。教室の空気がぴんと張りつめている。四月だというのにとても寒い朝で、校舎の前庭にひろがる紅梅の枝に忘れ霜が降りていた。

「神戸の学校から転校してきました、浜口大助いいます」

 みなが注目するなか、そうていねいに挨拶してから大ちゃんは背中を丸め、くしゅん、くしゅん、と立て続けにくしゃみをした。教室じゅうがどっとわいた。すると彼は恥ずかしそうに顔を赤らめ、先生から手渡されたティッシュでちーんと鼻をかんだ。体が大きいぶん、その仕草がなんとも可愛らしく見える。赤い鼻をぐずぐず鳴らして、彼はもう一度ぺこりと頭を下げた。

「ほな、よろしゅうお願いします」

 やがて、コーヒーに落としたシュガーキューブがふんわりと溶けてゆくみたいに、彼はごく自然にクラスのなかへとけ込んでいった……。

「夏ちゃん知ってる? 浜口君てめちゃめちゃおもろいねんで、桂三枝のものまねとかしやはんねん。こんな感じでな、いらっしゃーい、やて……うふふ、ほんまよう似たはるわ」

 先に大ちゃんと仲良しになったのは、親友の美也だった。席が近いということもあって、よく休み時間には楽しそうにお喋りをしていた。

「今度うちらに新ネタ披露してくれやはんねんて、楽しみやわぁ」

「そういうのうち興味ないねん。美也ちゃんひとりで見してもろたらええやん」

「えーっ、でも浜口君、夏ちゃんのことごっつぅ気になるみたいやで。あの子どこ住んでるん? とかお笑い芸人はだれが好きなんやろ? とか、しょっちゅううちに訊いてきやはんねん。あれ、ぜったい夏ちゃんに気ぃあるでー」

 そう言って美也は華やいだ笑顔を見せた。夏乃はびっくりして顔を赤らめる。

「あ、あほらしー。うちあんな熊みたいな子ぉよう好かんわ」

「夏ちゃんはええなぁ、べっぴんさんやさかい、いっつも男子にモテて、うち羨ましいわ」

「美也ちゃんかて……」

 その日から大ちゃんは夏乃にとって、熊みたいな転校生からちょっと気になる男の子へと変化した。そして三人でよく遊ぶようにもなった。

 小学校の西を流れる桂川沿いの緑地が彼女たちの遊び場だ。大ちゃんはいつもそこで、朽ちかけたベンチをステージがわりにお得意のものまねを披露した。芸人や映画俳優、人気タレント、はては陰険なことで知られる教頭先生のものまねまでして、二人を笑わせた。

「ひー、おかし。浜口君ってほんまおもろいわぁ、将来はぜったい吉本興業入ったらええ思うよ」

「うちもそう思うしぃ。デビューしたら美也ちゃんと二人で応援行くわぁ。あ、そうや、なんやったら三人でお笑いトリオでも結成しよか」

 二人でそうはやし立てると大ちゃんは照れたように頭をぽりぽり掻いて、そしてぼそっとつぶやいた。

「いや、実はぼくなあ……、植物学者になりたいねん」

「植物学者ぁ?」

 夏乃と美也は、思わず顔を見合わせた。

 大ちゃんはたしかに頭が良い。転校してきてすぐに算数のテストで満点をとった。かなり難しいテストで、いつもは算数の得意な学級委員の深沢くんでさえ八十二点だったのに、大ちゃんはややこしい分数の割り算まで全て正解していた。以来、神戸の子ぉて頭ええんやなあ、とみなから尊敬のまなざしを浴びるようになったのだ。

 そやけどなあ……、と夏乃は思う。いきなり植物学者やなんて……。

「あんたまた、えらい難儀なもんになりたがんなあ」

「そうやで、学者なんか頭でっかちのインテリがなるもんや。浜口君みたいにごっつイカれた子ぉにはよう似合わへんわ」

 すると大ちゃんは、ふっと笑みを消し、足下に生えるクローバーを一本引き抜いてそれを太陽にかざした。まぶしそうに目を細める。しばらくして彼はこんな話をはじめた。

「……むかしお母ちゃんがな、ようきれいな花摘んできてはそれを押し花にしとったんや。すみれ、なずな、おみなえし、一輪草に、夕化粧……。ばりきれいやったで。葉っぱなんか、こう薄ら透けとってなあ、まるで透かし彫りの工芸品みたいに見えるんや」

 そう言って夢見るような目つきで微笑んだ。指先でつまんだクローバーが風にゆらゆらと葉を揺する。

「ぼく、植物ってええなあて、しみじみ思うねん。花はきれいやし、嗅いだらええ匂いもする。葉っぱかて、いろんな色とか形とかあっておもろいんやで、ハーブやったら薬にもなるしな。ぼく、植物図鑑三冊持っとうけど、そこに載ってる花の名前、ぜーんぶ覚えてもうたわ」

「すごい……」

 大ちゃんは得意そうに、へへへと笑ってしゃがみ込み、そこに生える草花の説明をはじめた。

「……これはヨメナや、若い葉っぱはおひたしにして食べれんねん。こっちはイタドリ、戦争中にはタバコの代用にしたんやで。おっ、珍しいな、これムラサキソウやん。根っ子が薬にもなるし、むかしはこれ煮詰めて紫色の染料にしたんや」

「ほんま、大ちゃん詳しいわぁ」

「植物のことやったらまかしときぃ、誰にも負けへんで。――あ、夏乃ちゃんこの花なんっちゅうか知っとう?」

「いやぁ、かいらし花やわぁ、うすーい瑠璃色で……、なんちゅう名前なん?」

「イヌフグリや」

「いぬ……ふぐりぃ?」

「そうや、犬のきんたまや」

「いややー、もう大ちゃんの、えっち」

 夏乃が肩を押すと、大ちゃんは尻もちをついて笑った。

「なあ、自分ら今から僕んち来ぉへん? お母ちゃんが造った押し花見したるで」



 大ちゃんの家は、近くにできた総合運動施設のすぐそばにあった。お洒落なタイル貼りの十二階建てマンションだ。エントランスホールの床がぴかぴかの黒大理石でできていて、夏乃はスニーカーの底に付いた泥が足下を汚さないかと、そればかりを気にしながら歩いた。

「大ちゃん、ええとこ住んでんねんなあ。ここアクアリーナがすぐ目の前やんか」

「ほんまや。来月はいよいよプール開きやし、こっからやったら毎日通てもええもんな」

「……そんなええとこちゃうって、ぼくかなづちやし」

「あれま、そりゃ残念やったなぁ」

 やがて三人を乗せたエレベータがゆっくりと動き出した。

 大ちゃんの家族が暮らす部屋は、十階の、南西の角にあった。リビングにある大きな窓からは、桂離宮の御苑がまるで手の込んだジオラマみたいに見える。そして部屋の中には鉢植えの観葉植物がところ狭しと並べられ、芳香剤とはちがうやさしい香りが満ちていた。

「いやぁ、きれいやわぁ。押し花って、こないにきれいなもんなんや」

 部屋の壁にびっしりと飾られた押し花を見て、夏乃がほうと感嘆の息をもらす。大ちゃんが、ふふんと得意げに鼻をうごめかせた。

「どや、すごいやろ? これみんな、お母ちゃんの手作りやで」

「大ちゃんのお母はんて器用なひとなんやねえ。これやったら市役所前でやってるフリーマーケットに出品しても絶対売れるわ」

「ははは、これ売りもんちゃうで。お母ちゃんとの大事な思い出や」

「――え?」

 大ちゃんのくりんとした目を見つめて、夏乃が首をかしげた。

「思い出て……大ちゃん、お母はんとは一緒に暮らしてへんの?」

「うん、ぼくがちっちゃいころ死んでもうてん」

 夏乃は、はっと息を飲んだ。大ちゃんには母親がいなかったのだ。そう思ってあらためて眺めると、壁に飾られた押し花の数々が、まるで母親との思い出を詰めこんだ写真集みたいに見えてくる。

「まあ、ぼくにとったらこれがお母ちゃんの形見みたいなもんやな」

 静かに目を伏せて夏乃がつぶやいた。

「かんにんな……うち、いらんこと言うて」

「べ、別に謝らんかてええねんで。見に来い言うたのぼくの方やし……」

 そのとき突然、美也が弾んだ声を出した。

「あ、そうや、なあなあ二人とも日曜日ってひまぁ?」

 びっくりして夏乃と大ちゃんが顔を見合わせる。

「うん、ひまやけど……」

 二人がそう答えると、美也は、ふふんと笑いながら人さし指を振ってみせた。 

「ほんなら、お花見行けへん? うちとこの町会の恒例行事なんやけど毎年そろって円山公園行くねん」

「え、うちらも一緒に行ってええの?」

「うん、友だちも連れてきなさいて町会長さん言うたはったし」

「やったー、花見できる」

「うち、なに着てこ」

 二人はもう一度顔を見合わせ、そしてガッツポーズを決めた。

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