帰郷

 冬ともなれば吹雪のため国道が寸断されすっかり陸の孤島になってしまう、そんな町でした。さいわい今は秋ですが、海から吹きつける風はとても冷たく、ときおり道路わきの斜面にひろがる防風林のすき間を縫っては、まるで幽霊の口笛みたいに、ひゅうる、ひゅうると鳴っています。小さな漁港で働くのはもう年寄りばかりで、海岸に沿って延びるローカル線もすでに廃線が決まっていました。そんな辺鄙な町に、私はじつに五年ぶりに帰郷したのでした。

 生まれ育った家は、缶詰工場のわきから坂道を少し上った先にありました。深く息を吸い込むと、子どものころから嗅ぎ慣れた、あのはらわたの腐ったようなにおいが肺腑の奥まで染み込んできます。これこそが、私のふるさとの香りでした。

 生家には、役場で勤める弟夫婦が老いた両親とともに暮らしていました。私が六歳のときに建てたその家は、長いあいだ塩辛い海風に洗われたせいで、壁のモルタルがはげ落ち、トタン屋根も錆びて、しばらく見ないうちにひどくくたびれた様子でした。

 玄関の前で、ちょうど弟の奥さんと鉢合わせになりました。私にとっては義理の妹にあたるひとです。買い物へ行くところなのでしょう、右手に使い古したエコバッグをひとつ提げています。

「……どうも、お久しぶりです」

 腰を折って丁重に挨拶したのですが、彼女は無言のままわきをすり抜けてゆきました。無理もありません、老いた両親の面倒を彼女たちにずっと押しつけてきたのですから。

 玄関の引き戸を開くと、居間のほうからにぎやかなテレビの音が聞えてきました。「ただいま」と言うのもはばかられるので、消え入りそうな声で「ごめんください」と声を掛けてみましたが、だれも私には気づいてくれないようでした。少し敷居が高かったのですが、思いきって三和土でハイヒールを脱ぎ、家のなかへ上がり込むことにしました。

 板敷きの廊下に沿って足音をきしませてゆくと突き当たりにドアがあり、その向こうが居間になっています。ノックしてからそっとドアを引くと、ちゃぶ台を囲んで両親と弟と彼の娘の四人がのんびりとくつろいでいました。母がすぐ私の存在に気づいて、目を丸くします。

「おやまあ、あんた帰ってきたのかね」

 父も懐かしそうに笑顔を向け、手招きしました。

「ああ、家出娘のご帰還か、まあこっちへお上がりなさい」

「ご無沙汰して申しわけありません」

「ほんと葬式にもぜんぜん顔を出さないで、しょうがない子」

 母が立ち上がっていそいそと台所へ消えます。いっぽうの弟はというと、私のほうへは顔も向けず、ただじっとテレビを睨んでいました。故郷を見限り、家を飛び出したまま無沙汰していた私のことを、きっと許す気にはならないのでしょう。ただ今年三歳になる彼の娘だけが、落ち着かない様子で私のほうをチラチラと気にしていました。

 遠慮がちに父の横へ腰をおろすと、母がコップを二つならべてそれにビールを注いでゆきます。私は慌てて言いました。

「あの、ごめんなさい、わたし薬物依存の治療で、お酒は医者に止められていて……」

「なにを言っとる、そんなこと今さら関係ないだろうに」

 そう言って父は機嫌良く片ほうのビールを干しました。とたんに腹巻きのあたりから、飲んだものがダラダラと床へこぼれ落ちます。母がそれを笑いながら布巾で拭いました。

「あらあら、お行儀の悪い」

 そう言う彼女も、身を屈めたひょうしに腹の中のものをすべて床にぶちまけました。ピンク色の腸がにゅるにゅると絡まり合い、体液につやめきながらのたうっています。今度は父が笑いました。

「なんだ、母さんもひとのことは言えんぞ」

「田舎の医者は下手クソだから、よけいに切りすぎるんですよ」

「ははは、違いない、わしのときもひどいもんだったよ。あのヤブ医者にも困ったものだ」

 せっかく母がすすめてくれたビールなので少し口をつけてみましたが、どうしても食道から先を通ってゆきません。口から逆流して、だらだらとワンピースの胸を汚してしまうのです。それを見て、母がため息をつきました。

「あらまあ、なんですかあなたまで」

「ごめんなさい。首を絞められたときに喉が潰れてしまったものですから……」

「だから都会へ出るのは止しなさいと言ったんですよ。あなたも大人しくこの町で暮らしていれば、今ごろは結婚をして子どものひとりも生んでいただろうに」

「……それは、そうですけど」

 しゅんとなる私を見かねて、父がかばってくれました。

「今さらそんなこと言っても始まらんだろう。とにかくここでゆっくり骨休めをすることだ。どうせ他に行くところはないんだから」

「……はい、しばらくご厄介になります」

 そう言って頭をさげる私を、弟の娘がじっと睨んでいました。やがて彼女は自分の父親の袖を引くと、不安そうな声を出しました。

「ねえ、だれかこの家にやって来たよ。ほら、あそこ。ジジのとなりに、あたしの知らないオバサンが座っているよ」

 すると弟は、そんな娘のことを自分の膝のうえへ抱き上げて、優しく頭を撫でました。

「バカだなあ、だれもいやしないさ。ジジもババも去年死んで、この家にはもうパパとママとお前しかいないんだから」

 娘は、まだなにか言いたそうに弟の顔を見上げていましたが、そのうち甘えるように大きな胸へ顔を埋めてしまいました。

 外では霧が出てきたらしく、どこか遠くのほうで、ぼおーうっ、ぼおーうっと霧笛が鳴っています。これからサンマ漁へ向かう漁船なのでしょうか。それはとても物悲しい余韻を引きずりながら、少しずつ遠ざかってゆくようでした。私は漁の安全を祈りつつ、今年の正月は久しぶりに家族そろって過ごせるんだなあと、ぼんやりそんなことを考えていたのでした。

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