杏奈

@teamnishinomori

杏奈

 「…あんたは先入観があるか?」開口一番にその老人は言いました。

 「突然何ですか?」

 「先入観があるかと聞いている」

 「先入観、ですか…人間誰しもある程度は持っているものだとは思いますが…」

 「じゃあ帰りなさい」

 「はい?えっと…どういうことでしょうか?」

 「あんたに話しても時間の無駄だ」

 「ちょっと待ってください。先日取材のことはお伝えしたはずです。突然どうしたんですか?」

 「あんたの目を見れば分かる。あんたはわしの話を絶対に信じない」

 「信じない?」

 「あんたには真実は見えんよ」

 

 老人はそう言って、普段見慣れているはずの自宅のリビングを見回していた。


 なぜこんなことになったんだろう?

 

 その頑固な老人を前にして、僕はここに来るまでのことを妙に冷静に振り返っていました。

 

 半年前、大学を卒業した僕は雑誌編集社に就職しました。

 雑用ばかりが続いていましたが、約一か月前に僕は「祖父と孫」というテーマの記事を担当することになりました。それは初めて任された大きな仕事でした。

 右も左も分からないまま取材に追われ、その後寝る間もないほど忙しい毎日でした。


 少しづつ取材した内容をまとめ、ようやく形になりかけたのがつい一週間前でした。


 そんな時先輩に呼び出されました。

 「おまえ来週取材に行ってこい」

 「取材ですか?」

 「そうだ。ある老人から話を聞いてこい」

 「もう充分記事になりますが」

 「これで最後だ」

 「これ以上の取材は必要ないと思い…」

 「いいから行ってこい。この老人、普通じゃないから」

 「普通じゃない?どういうことですか?」

 「行けば分かる」

 

 先輩はそれ以上何も教えてくれませんでした。先輩にそう言われると行かないわけにはいきません。僕は渋々「普通じゃない老人」に会いに行くことにしました。ただでさえ忙しいのにさらに仕事を増やされたのです。正直、迷惑以外の何でもありませんでした。


 普通じゃないってただの頑固じじいってこと?


 わざわざ来る必要なかったじゃないかと心底先輩を恨み、イライラしながら僕は老人に言いました。「僕もプロの記者のはしくれです。真実か嘘か、その見極めくらいはできる自信はあります」


 僕がそう言うと老人はじっと僕の目を見つめました。老人は明らかに僕のことを値踏みしていました。


 「プロの記者が嫌々取材に来るとはな」嘲るように老人は言いました。

 「嫌々だなんて、そんなことはありません」

 「悪いことは言わん。帰りなさい。あんたにはこの取材は無理だ。真実は見えん」


 頭にきたので本当に帰ってやろうかと思いましたが、手ぶらで帰るわけにはいきません。


 「無理かどうかはやってみないと分からないじゃないですか。えっと…先入観ですよね?当然ありますよ。人間ですから。見えないも何も、自分が信じたものがその人にとっての真実になるんじゃないですか?」


 取材相手には絶対にやってはいけないことなのですが、つい感情が表に出てしまいました。

 無理やりスケジュールを確保してここまで来たのに、値踏みされ、あげく帰れと言われる。誰だって少しくらいは頭にくるでしょう。


 すると老人は声のトーンを落としぼそっと言いました。「自分が信じたものが真実、か…」

 

 老人は家の中を見回していました。何かと思い僕も見ましたが、特に何もありません。しばらくすると、頑固そうに力の入った目はすっと穏やかな瞳になりました。

 

 「杏奈はもういない」それまでとは人が変わったと思えるほど弱々しい声で老人は言いました。なんだか体も一回り小さくなったように見えました。


 僕は急いで録音機のスイッチを押しました。「杏奈さん…お孫さんですか?」

 「そうだ。杏奈はいなくなった」

 「いなくなった?どういうことですか?」

 「杏奈に会えん。永遠にな」

 「お亡くなりに?」

 「違う」

 「では行方不明、ということでしょうか?であれば事件の…」

 「違う」

 「ではどういうことですか?」

 「ここにはいない。でも杏奈はいる」

 「えっと、それは…心の中にいる、という類ですか?」

 「違う」


 まるで話の方向が見えませんが、せっかく話し始めた老人の機嫌を損なうわけにはいきません。

 僕は慎重に言葉を選びながら質問しました。


 「ここにはいないけれど、いる、と?」

 「そうだ」


 何を言ってるのかまったく理解できません。もしかして先輩が言った普通じゃないということは頭がおかしいという意味だったのでは、と僕は思いました。


 「杏奈さんは今何歳ですか?」僕だってプロのはしくれです。イライラしているとはいえ、感情を抑えながら相手から情報をきちんと引き出さなければいけません。

 「十歳だ」

 「十歳の少女がいなくなった。亡くなったわけでも事件性もない。ここではないどこかにいる、ということでよろしかったですか?」

 「少し違う」

 「少し、とは?」

 「ここではないどこかにいるわけじゃない」

 「ではどこにいるのですか?」

 「だからここだ」と言いながら老人はとある部屋を指差しました。


 不毛な問答のように見えますが、こういった頑固な老人は不用心に質問すると何も話さなくなるものです。僕はより慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと次の質問を始めました。

 

 「部屋にいるのに永遠に会えないのですか?」

 「そうだ」

 「えっと…申し訳ありません。仰ってる意味がまだ把握できないのですが…部屋にいるのに会えないということですか?」

 「そうだ」

 

 老人はいたって真剣な様子です。はぐらかしているようには見えません。だから僕も真剣に考えました。


 「…亡くなってはいない。事件でもない。きっと不慮の事故でもないのでしょう。となると、このことには杏奈さん自身の意思が関係している。違いますか?」

 「…」一瞬老人は僕の目を見つめました。


 頭の中を整理しながら僕は質問を続けました。


 「何かしらの明確な理由、しかも前向きな理由によって杏奈さんに異変が起きた」

 「…そうだ」

 「その理由とは何なのでしょう?」

 「…あんた…何か飲まないか?」

 

 この瞬間僕は気付きました。その理由は安易には説明できないことを。老人にとって胸を痛める事実であることを。


 これから老人が話すことがさっきの先入観に深く関わること、真実と思えないほど奇妙なことなんだ。僕はそう確信しました。

 

 僕は録音機のスイッチが入っていることを改めて確認しました。

 

 「水でけっこうです」

 「ビールはどうだ?」

 ビール?

 「いえ、仕事中なので」

 「いいだろう別に」


 取材が終わった後は録音した内容を文章にする作業があるので取材中に飲むなんて言語道断です。


 にも関わらず僕は言いました。「いただきます」

 なぜか飲んだ方がいい。そんな気がしたのです。

 

 老人は何も言わず瓶ビールと栓抜きとグラスを二つ持ってきてテーブルに置きました。僕も何も言わず、瓶ビールの蓋を開け老人と僕のグラスにビールを注ぎました。


 僕はいただきますと言って一口飲み、老人はグラスの半分ほどを一気に飲みました。


 「杏奈は裁縫が得意な子だった」二杯目のビールを自分でつぎながら老人は言いました。「ミシンよりも正確に裁縫ができた。十歳で、だ」

 「十歳で裁縫ですか?それは母親の影響でしょうか?」

 

 老人は一瞬顔をしかめました。「…母親…か。わしの娘は生まれて間もない杏奈をわしに預けた。それから間もなくして死んだよ。病気でな」

 「父親は?」

 「一度も見たことがないな」

 「…失礼しました」

 「ばあさんは杏奈が生まれる前に死んでたしな。なのでわしと杏奈はこの家で二人だけで暮らしていた。むろんわしが裁縫なんか教えられるわけがない。なぜ杏奈が裁縫ができたのかはわしも知らん」

 「…」

 「杏奈は控えめな性格でな。あまり外に出たがらなかった。いつも部屋に閉じこもって何かをしていた。何か欲しいものがあるかと聞くといつも人形を欲しがった。だからできる限りわしは人形を買ってやった」

 気付くと僕のグラスも空になっていました。老人は僕のグラスに、ごく自然な動作で二杯目を注ぎました。


 「杏奈は妙に部屋の様子を覗かれるのを嫌がった。絶対に覗くなと、よくわしにきつく注意してたよ」

 「覗かれると嫌なことでもあったんでしょうか?」

 「さあな。覗くなと言われれば、わしも覗かん。杏奈の部屋に入れないわしは一つ、また一つとここに人形を置き始めた。いつしかこのリビングは人形でいっぱいになった」


 老人は懐かしい物を見るようにリビングを見回しました。僕も見ましたが、もちろん今はもう人形は一体もありません。


 「ここがいっぱいになるほど買ってあげたのですか?」

 「買ったのはそれほどじゃない。妙なことに置いてある人形をよく見ると買った覚えがないものまで置かれていた」

 「買っていない人形?」

 「むろんわしが買った人形もあった。だが様子は違っていた。買ったままではなく手が加えられていた。肌の色が違うもの、髪が伸びているものなど、買ったものよりはるかに優れた人形がここに置いてあった」

 「それは杏奈さんが?」

 「わしがやるように見えるか?」老人は軽く笑いながら言いました。

 「いえ。見えませんね」僕も笑いながら言いました。

 「杏奈は自分の好きなように人形の姿を変えたんだろう。姿形を変えたもの、初めて見るもの、それらは日に日に数を増やしていった。そのうちこのリビングだけではなく家中に人形が置かれるようになった」


 少女のことを思い出しているのでしょう。老人は言葉を止め、ビールを飲みました。

 何も言えなかった僕も黙ってビールを飲みました。


 少し間を置いてから老人は言いました。「杏奈はわしが買ってきた人形を素材にして新しく自分で作り直していたんだ」

 「それはすごい技術ですね」

 「すごいなんてもんじゃない。十歳の女の子が誰にも何も聞かず、商品と区別がつかないほど見事な人形を一人で作ってたんだ。しかも和、洋、問わず世界中の人形をだ。それも一つや二つじゃない。百体以上だ」

 「百体以上?」僕は家の中を眺め、百体の人形が至る所に置いてあることを想像してみました。

 おびただしい数の日本人形や西洋人形がそこかしこに立っている…言葉は悪いのですが、正直不気味でした。

 

 「気味が悪いと思わんか?」

 「…いや、その…」

 「正直に言ってかまわんよ。わしも気味が悪くてな」老人も僕と同様周りを眺めていました。

 「初めは杏奈が楽しいなら好きにさせようと思っていた。だが、さすがに十体、二十体ともなると、異常に思えてな。増え続ける人形を見ながらわしは杏奈に聞いた。おまえ、これをどうするつもりだ、と」

 

 僕が唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえました。

 

「杏奈は言った。『おじいちゃん、これね。きっと高いお金で買ってくれる人がたくさんいるよ』」

 「買ってくれる人?」

 「そうだ。さらに杏奈は言った。『だからおじいちゃん。これを売ったお金の半分はおじいちゃんが持ってて。もう半分のお金で杏奈にお人形さんを買ってきて。杏奈、これからもたくさんお人形さんを作りたいの』と」

 

 この時、僕は仕事を忘れ、小さな人形職人の話に引き込まれていました。最初からかわいい孫との温かいエピソードを期待してたわけではありませんが、十歳の女の子にしてはやはり異常です。


 「杏奈さんは自分が作った人形をあなたに売ってきてくれと頼んだ。半分は貯金のため、半分は基になる人形を購入するため。そういうことですか?」

 「ああ。そうだ。ここに人形を作る材料なんかあるはずがないからな」

 「杏奈さんの目的は何だったのでしょう?」

 「…目的、か…」


 それまでテンポよく続けられていた会話が途端に歯切れが悪くなりました。

 

 「恩返し、らしい」

 「恩返し?」

 「育ててくれてありがとう、と…」

 「育ててくれてって?十歳の少女が家族に?」

 「杏奈は不治の病だった」

 「え?」

 「そう長くは生きられない体だったんだ。だから小学校にも行っていない」

 「なぜ病院に行かなかったんですか?」

 「杏奈が嫌がったからだ」

 「どうして…」


 老人はぼんやりとビールの泡が弾けるのを眺めていました。でもきっと老人の目に映っているのは違うものだったのでしょう。


 「杏奈は延命措置を拒んだ。多額の医療費を払いながら結局病院で寝たきりになるのなら…」

 「…」

 「ここでおじいちゃんとずっと一緒にいる、と」

 

 僕には何も言えませんでした。

 

 「杏奈はいつまで生きていられるか分からなかった。わしは覚悟を決めた。残り短い時間、杏奈の望むままにしてやろうと」


 そう話す老人にはそれまでの頑固さはまるで見当たりませんでした。家族はすでになく、幸せだった頃の思い出に浸る老人。それはあまりにわびしく、切ないものでした。


 「最後にあなたに対して恩返しがしたい。それが杏奈さんの人形作りに込められた想いだったのですね」

 「…あんなにやさしい子は他にはいない」


 思いもしない悲劇でした。僕は涙が出そうなのを必死でこらえていました。

 その時、ふとさっき言った老人の言葉を思い出しました。


 「それで…あの…会えないのにここにいる、という意味は一体?」

 「それを今話そう。すまんな。落ち込ませてしまって」

 「…いえ、そんな」

 「杏奈の人形は驚くような高値で売れた。それを元手にして新しい人形を買った。貯金もかなりできた」

 「杏奈さんの人形はそんなに素晴らしい出来だったのですか?」

 「もちろんだ。だが見た目の出来以上に…」


 そう言ってから老人は少し言葉を探していました。「ありきたりな言い方だが、魂が込められていた」

 「魂?」

 「そうだ。魂だ。生きているような人形。表情豊かで、雰囲気も人間のように一体一体が違った」

 「良い人形はよくそういった評価をされますね」

 「杏奈の場合は…」

 

 その後ぴたっと老人は口を閉じてしまいました。いつの間にか瓶ビールは空になっていたので、老人は冷蔵庫からまたビールを持ってきてグラスに注ぎました。

 

 「杏奈の場合は、言葉通りのそれだった」重い口調で老人は言いました。

 「とおっしゃいますと?」

 「魂を人形に込めていた。自分自身の魂を削って、それを人形に込めた」

 「それほど気持ちを込めて作っていたのですね?」

 「違う。そうじゃない。言葉通りと言ったろう。本当に込めていたんだ。自分の魂を」

 「どういうことですか?」

 「杏奈が作る。それを売る。新しいものを買う。それをしばらく続けていたんだ。すると、ある時ふと気付いた。杏奈の様子がおかしいことに。顔は青ざめ、やつれ、体も細くなっていた。髪も少なくなっていた」

 「それは病気の影響なのでは?」

 「違う。杏奈の異変は人形作りと同時に始まった。そして一体作るごとに、杏奈の体は明らかに弱っていった。まるでその一体に自分の一部を差し出しているかのように」

 

 魂を人形に込める?そんなことが…?

 

「そして徐々に人形を作るペースが遅れていった。最終的に百体以上あった人形は、わしが売ることにより日に日になくなっていった。もちろんわしは言った。もう何も気にしなくていいからゆっくり休め、と。だが杏奈は、もう少しがんばれるから置いてある人形を売ってきて、としか言わなかった」

 「…」

 「杏奈はとにかく売ってきてとしか言わない。しかたなくわしは売った。そうして家の中の人形は全てなくなった」


 そう言うと老人はまた家の中を眺めました。かつて飾られていた人形達を思い出しているのでしょう。

 

 「最後の一体を売った時には、もはや杏奈は別人だった。髪は全部抜け、骨と皮だけになり、まともに立てないほど衰弱していた。そんな杏奈が言ったんだ。『おじいちゃん、お金貯まった?』と…」


 いつの間にか僕は泣いていました。


 「わしは言った。お金はたくさんあるから人形作りはもうやめなさいと。すると杏奈は言った。『ごめんね、おじいちゃん。杏奈あともう一体しか作れないの。次で最後になっちゃう』」


 老人は気丈に振舞っていましたが、その瞳はうっすらと潤んでいました。

 

 「『杏奈の最後の人形、それもきちんと高いお金で売ってね。おじいちゃんが幸せになれるように杏奈がんばるから』杏奈はそう言ってそのまま部屋にこもった。そして…いなくなった」


 そんなことが本当にありえるのか、といった疑問は一切浮かびませんでした。僕は恥ずかしげもなく、声をあげて泣いていました。


 その後沈黙が続きました。時計の音がやけに大きく聞こえました。無言のまま老人はビールを飲み、僕は泣きながらビールグラスを眺めていました。


 残されたわずかな時間で、命を賭けて、魂を人形に込め続けた少女。

 祖父の為だけに。祖父の幸せだけを願って。


 そして最後の一体に自分の全てを込め…いなくなった。


 もし僕がこの老人の立場だったら、どうしていただろう。


 そんなことばかり考えていました。


 「…杏奈の最後の人形は杏奈の部屋に置いてある」唐突に老人は言いました。

 「…売らなかったのですか?」

 「…当然だ。金なんかもういらない。あれは杏奈だ。杏奈そのものだ」

 「もう会えないけど、部屋にいる、というのはこういうことだったんですね」


 老人は立ち上がって言いました。「見るか?」


 この話を聞いてしまった今、僕はそれを見届けなければいけないと思いました。老人が僕を信じて話してくれたその気持ちを、少女に対する想いを、なによりも少女の魂を、僕には受け止める責任がある。


 僕は覚悟を決め、固い決意を込めて頷きました。 


 彼女の部屋に入ると机に一体の日本人形がありました。

 「これが最後の人形…杏奈だ」


 杏奈と呼ばれた日本人形の「それ」は確かに生きているように見えました。呼吸して、表情をくるくると変えているかのように。温かい体温さえ感じられるようでした。

 

 「別に触ってもかみついたりしないぞ」老人は「それ」の髪をなでながら言いました。

 

 僕はじっと「杏奈」を見つめました。彼女の方でも僕を見つめているようでした。


 「触るとな、温かいんだ。これは決して冷たい人形なんかじゃない」

 「知ってますか?最近はむやみに女性に触るとセクハラって訴えられるんですよ」

 「それはまずいな」老人はそれまで見たことない表情をしていました。そこに込められているのは単なる悲しみだけではないようでした。


 僕は杏奈の手に指先で触れました。

 確かに温かく感じました。まるで柔らかい春の日差しのように。


 僕は杏奈に深々と頭を下げ、その部屋を後にしました。


 リビングに戻ると老人はさらにもう一本の瓶ビールを開けました。

 「杏奈に乾杯してくれんか?」

 「もちろん。喜んで」

 「あんた。わしの話を信じるのか?」

 「はい」

 「先入観ないじゃないか」

 「あるはずなんですけどね」


 まるで世界でたった2人だけの秘密を抱えた仲間のように、僕と老人の間には親密な空気感がありました。


 僕たちは他愛もない話題で盛り上がりました。杏奈にも聞こえるように、出来る限り大きな声で。


 こうして予定されていた取材時間はあっというまに過ぎ、老人宅での僕の仕事は終了となりました。


 最後に玄関先で僕は改めてこの話を本当に記事にしていいのか、老人に尋ねました。

 

 「その為にあんたはここに来たんだろう?かまわんよ。どうせきっと誰も信じん」

 「僕は公表するべきではないと思っています」

 「なぜだ?」

 「悲しすぎます」

 「あんたもプロなんだろ?だったら個人の感情抜きで仕事しないといけないんじゃないのか?」


 まさかこの老人にそう言われるとは思ってもいませんでした。「…おっしゃるとおりですが…」

 「誰が信じようと信じまいと、杏奈はいなくなった。でもここにいる。世の中にはこういったことがあるんだ。真実とは思えないようなことも起こりうる。わしが言えるのはそれくらいだ。記事にするしないは好きにしたらいい」


 僕は老人に頭を下げ、足取り重く会社へ戻りました。

 

 会社に戻った僕は録音機材をデスクの上に置き、ぼんやりしながらイヤホンで老人の話を改めて聞いていました。


 記事はすでに充分ある。この話を記事にする必要はない。


 僕は改めて決心しました。

 

 すると先輩が近付いてきました。「普通じゃなかっただろ?」

 「…はい。もしかして知ってたんですか?」

 「ああ。知ってた」

 「どうして知ってたんですか?」

 

 先輩はにやりと笑って言いました。「俺もやったんだよ昔」

 「何をですか?」

 「取材」

 「あの老人にですか?」

 「ああ。俺も先輩から命令されてな」

 「じゃあどうしてわざわざ僕を行かせたんです?」

 「おまえが記事にするのかしないのか、見てみたくてな」

 「するかしないかって…先輩が記事にしてたらそもそもできないじゃないですか」

 「俺は取材したとは言ったけど記事にしたとは言ってないぞ。まあ、俺の話はいい。おまえ、どうする?記事にするのか?」

 「……しません」

 「なんでだ?」

 「僕にはできません」

 「どうして?」

 「あの話は老人のかけがえのない大切な思い出です。世間に発信するべきものではありません」

 「おまえ、あの話、信じたんだ」

 「あの人形…杏奈には心があります。老人の想いや杏奈の心を公表するなんて間違ってます。この記事は大きな話題になるかもしれません。でもあの人達の想いを踏みにじるような真似はしたくない…たとえ記者失格と言われても」


 すると突然先輩は僕の肩をバンと叩きました。「合格!」

 

 「え?」

 「おまえ合格!」

 「合格って何がです?」

 「あれな、全部嘘」

 「はい?」

 「あのおじいちゃんな、うちの社員」

 「はい?」

 「おまえさ、あんな話、ありえるわけないだろ!あれオカルトだよオカルト!実際にあったらやばいよ!杏奈超怖いよ!」先輩は大笑いしています。

 

 「…あの…説明してもらえますか?」

 「ん?これな、まあ、うちの会社の通過儀式みたいなもんでな。プロの記者としての振舞い、人としての道理を備えてるかどうかの試験なんだ。よくできた話だよなあ。俺も当時信じちゃったもんなあ。じいさんの演技力がとにかく半端ないんだよな。ちなみに、あの日本人形は普通の売り物だから」


 しばらくポカンと口を開けたまま、僕は黙っていましたが、そのうち、ふつふつと怒りがわいてきました。

 

 「分かる!俺も腹がたって、当時先輩にもじいさんにも怒ったよ!」

 「……手の込んだ意地が悪いいたずらにしか見えませんが…」

 「だよな。でもよく考えてみろよ。俺達の仕事は真実を世間に伝えることだ」

 「…」

 「おまえは信じた」

 「…」

 「でも記事にしない」

 「…」

 「結果あの話は嘘だったが、この試験で大事なのは、真実かどうかを見極めることじゃない」

 「…」

 「どんなに奇妙なことでも、悲しいことでも、恐ろしいことでも、受け止めれるかどうか?相手の心と向き合えるかどうか?これが重要なんだ」

 「…」

 「おまえはあの頑固じいさんと真剣に向き合った。記事にしないことも決心した。100点満点だよ」


 ありったけの怒りを込めて僕は先輩を睨み続けていました。


 「まあまあ。そんなに怒るなよ。おまえかなり優秀なんだぞ。あの話を記事にするって奴多いんだから。確かにそれはプロ根性かもしれんが、仕事優先で相手の心を見ていない。問題は心なんだ。俺達は人の心を文章にしているんだ」


 黙ったまま僕は先輩の話を聞いていました。


 「人の心を踏み台にする記事なんて絶対に書いちゃダメだ。おまえがそれを分かってて安心したよ」


 人の心を踏み台にしてるのはあなた達でしょうが…。

 

 「じいさん褒めてたぞ。おまえはいずれすごい記者になるってな。まあ、おまえが号泣した時はさすがに胸が痛んだらしいけど」

 「…号泣なんてしてませんよ…」

 「おまえに後輩ができた時は、俺の役目をやってもらうからな。じゃお疲れ!」

 そうして大声で笑いながら先輩は去っていきました。

 

 しばらくの間怒りか悲しみか、よく分からない感情が僕の中で渦巻き、やがて僕は抜け殻のようになりながら録音機を再生してみました。


 イヤホンからは僕の鳴き声が聞こえてきました。そして老人は言っています。

 「『杏奈の最後の人形、それもきちんと高いお金で売ってね。おじいちゃんが幸せになれるように杏奈がんばるから』杏奈はそう言ってそのまま部屋にこもった。そして…いなくなった」

 

 腹がたったので消してやろうと思いました。


 でもやめました。

 

 一度は信じ、真実となった作り話。


 涙すらも流した作り話。


 腹は立ちましたが、ふとずっと残しておいた方がいいような気がしたんです。


 僕は人としてとても大事な何か、それが何なのかよく分かりませんが、ほんの少しその「大事な何か」に触れたように思えます。


 人形に魂を込め、消えた少女の話。


 もしあなたが何も知らずにこの話を聞いたら信じますか?

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