五畳の水槽

十月の海月

五畳の水槽

『私達は、人間でした。』


目の前の水槽、

そこに浮かぶ小さな海月、

カップ麺を口に運ぶ手が止まる、僕。


ピタリと、時間が止まった僕と水槽のあいだを、規則正しい秒針の音が埋めていく。


この、空白の何秒間に対して言い訳をこじつけるとすれば、その声が、目の前の水槽にぷかぷかと浮かぶそいつからから聞こえたきたという事実を、噛んで、飲み込むのまでに要した時間、というのが1番妥当だろう。


『……そうなの?』


頭の中に無数の、言葉にならない文字達がコポコポと、水の中に吐き出された二酸化炭素のように溢れかえる中で、可能な限り整頓し、絞り出した言葉がこれ、とは。

情けない。

が、今回の議題は僕の脳の侘しさについて、ではない。というか多分、それどころじゃない。


小さい頃から、海月を飼うのが夢だった。

『むかし、家族で水族館に行った時に見た、狭い水槽にぎゅうっ、と押し込められたそれが、とても綺麗だったんです。』なんて、エピソードは、残念ながら後付けの建前で。

ただ単に、心の臓をもたない半透明の物体の生体をじっくり観察したい。できる限りゼロの距離で。それだけだった。

大学進学を機に、一人暮らしを始めてから4ヶ月。検索サイトに知恵を借り、環境を整え、やっと、やっと海で見つけた、掬ってきた海月が、


『私達は、人間だったんです。』


なるほど、世の中には、半透明の物体の生体なんかより突き詰めるべきことが、たくさん潜んでいるわけだ。


彼、もしくは彼女の言い分はこうだった。


自分はもともと人間だったのだが、交通事故にあった際車から海に投げ出され、そして、次に目が覚めた時には、この姿になっていた。と。


『私"達"?』

『恋人、だった人。』


助手席に乗っていたその恋人も、同じように投げ出されたのだか、気づいたら、溶けて消えて無くなっていたらしい。


『ほとんど、水分だからさ。泣いても泣いても、干からびることがないんだ。そこだけは、こうなって良かったよ。』


この、出来すぎている話を信じるつもりはさらさらないのだが、かと言って、僕の目の前でペラペラと話すこの物体をみていると、どうも、全てを信じない訳にもいかない気がしてしまう。


『人間に、戻りたいとは、思わないの。』

『戻れるよ。』


海月と会話している、というとやはりおかしな状況に違いはないが、『おかしな状況』と理解出来る程度には、僕のお情け程度の脳みそはちゃんと回転しているらしかった。


『戻れるの?』

『朝日。』

『朝日?』

『朝日を、浴びると。』


カップ麺は、伸びきってしまっていた。

ああ、これいつものより少し高いやつなのに。


『ハズレだ。』


僕が欲しかったのは、

海月と会話をするなんていう摩訶不思議体験でも、人間が海月に変身する、はたまた、海月が人間に変身するなんていう御伽噺でもない。


僕が本当に欲しかったのは、正真正銘、ただの海月だ。海月、100%だ。


目の前に浮かぶ物体は、僕の『バカバカしい。』を最後に、何も言わなくなった。


しん、と。

僕だけになった五畳に、静寂が訪れる。


なんだよ、話すだけ話しておいて。

勝手なやつ。


いや、違う。

話さないのが当たり前なんだ。

当たり前に戻っただけ。

"海月は、話さない。"

当たり前、当たり前。


だから、きっと、当たり前に朝が来るし、当たり前に学校がある。それも、一限から。


目が覚めたのは、時計が7:00を回った頃だった。

カーテンの隙間から光が差し込で、からっぽの水槽を照らす。


からっぽの水槽、を。


あたりを見渡すと、所々に点々と水たまりができていた。視覚的な処理はできているが、半ば夢現の僕の頭は、全く使い物にならない。


なぜ、水槽がからっぽになっているのか。

この、水たまりは。

僕の家の台所に、我が物顔で立っている彼女は。


『おはよう。』


彼女の足元を見ると、散らばったものよりはるかに大きい水たまりが出来ていた。

透き通るように青白い肌に、長細い手。

それはまるで、触手だ。


『ねえ、おはよう。ったら。』


全てを受け入れるには、いささか要素が足りな過ぎる。気がする。けど。


『…おはよう。』


……あ。

"彼女"、だったのか。

"彼"であるよりは、ほんの少しお得、なのかもしれない。


ぱちん。


彼女、と目が合った。

青、緑、黄色、ピンク。

淡い、深い。

朝日に反射して、ビー玉のようにコロコロと色を変える瞳から、目が離せない。


『ほら、朝が来たよ。』


何故か勝ち誇ったような彼女の、絹のような髪から滴る水が、床にまた、小さな水たまりを作った。

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