フランケンシュタイン・ブルーハート
棚尾
第1話 ‐宣戦布告‐
「英雄になりたいんだ!」
運動場のはしっこに建てられた小屋の中で、フランクが興奮気味にまくし立てる。ビニールカーテンで仕切られているこの部屋では、声はくぐもって聞こえた。手元の携帯端末とにらめっこをしていて、意識も向けていなかったこともあり、何と言っているのかわからなかった。
ひとつのことに集中すると、周りが見えなくなるのは悪い癖だった。顔を上げてカーテンの向こう側にいる声の主を見る。
「いったいなんと言ったんだフランク」
「英雄になりたいと言ったんだよワトソン」
赤いくせっ毛を右手でひっかき回しながら、白衣姿のフランクがカーテンを開けてこちらにやってくる。頭をかきむしるのは、彼が興奮しているときの癖だ。
「それと僕のことはクリックと呼べよ。洒落が利かない奴だ」
フランクが口を尖らせて不満を露わにする。体裁を取り繕うことも他人に気を使う素ぶりも見せない。この率直な性格をジェームズは好ましく思っていた。
彼がワトソンと呼びかけるのは一種のおふざけだ。本当の名前はワトソンではなく、ジェームズ・ウェストという。そして、クリックと呼べと迫る赤毛の彼の名前は、フランシス・グレイだ。
DNAの二重らせん構造を明らかにした科学者。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックに、たまたまファーストネームが同じだからと洒落をかけているのだ。普段はお互い愛称でフランクとジミーと呼び合っている。
ワトソンとクリックは二人だけの研究室にこもり、DNAの分子模型を試行錯誤しながら組み立てていた。今のフランクとジミーも、二人だけの研究室でDNAのモデルを組み立てている。分子模型ではなく床から浮き上がるホログラフで、二重らせんの構造ではなく中身の遺伝子をデザインするという違いはあるが、科学的な正解と美しい答えを求めている姿は変わらない。
ワトソンとクリックという二人の科学者はそれまで謎めいた情報の運び手だった遺伝子の構造を明らかにして、その機能の根源を
それから150年近くの時が流れて、21世紀も終わりに差し掛かったころ、人間ではなく道具である《ビーグル》によって、人類の前に新たな世界の扉が開かれた。
この世界には人間の知能を超えて、人類社会へ多大な影響を及ぼしている道具たちが存在している。《ビーグル》は世界に39基ある超高度AIの一つで、様々な生物の遺伝子の機能を網羅的に解析して見せた。そして、その恩恵は人類に新たな可能性を提示する。
遺伝子デザインというフロンティアが、今は世界にあまねく広がっていた。
伝統的なアプローチである組み換えや遺伝子を直接編集する技術の先にあるものであり、複雑な遺伝子の相互作用さえも折り込んだフルスクラッチによる生物の作製。
その行為は生命をゼロから創り出す神の領域へと踏み込んたものだった。
「僕らがワトソンとクリックなんておこがましいよ。英雄視されるような、世界を揺るがす大発見なんて、今の時代にできるはずが無い」
興奮気味のクリック、もといフランクの言葉をなだめるように冷静に否定する。フランクがまたも不服そうな顔をした。けれども言い返してはこない。だから、続けて今の時代の科学者が置かれている状況を言ってやった。
「科学は神から人の手へ、そして今は道具の手に渡ったんだ。僕らはそのおこぼれを頂戴して、社会という枠組みの中でどう使うかを考えるだけしかできないよ」
今の時代の科学者は《ビーグル》をはじめとした超高度AIたちが創り出す、現在の人類には再現できない
人類が主体となり道具を活用して研究をするのではなく、道具が人類よりはるか先に研究領域を広げ、神秘を解き明かし、人類がそれに追いすがるかたちだ。
「ジミー。謙虚で冷静なのは君の美徳だが、そこまでいくと卑屈だぜ。科学者は理性的でありながら、あふれる情熱とロマンがなくちゃいけない」
フランクもそのことは理解しているのか、ジミーの言うことを直接は否定してこない。だからと言って、かわりに科学に対するジミーの姿勢を批判するのはどうかと思うが、不思議とムカッと来なかった。
フランクは確かにジミーには無い情熱を持っていた。ジミーを引っ張って、この二人の研究室を手にしたのもフランクのおかげだ。
だから、フランクの言うことを真面目に聞いてやろうという気にもなった。彼の情熱は刺激的で、冷めた心に火をいれてくれる。
「英雄になりたいというのが君のロマンなのかい」
フランクの表情が露骨にぱあっと明るくなり、邪気の無さそうな笑顔が顔一杯に広がる。ジミーが話に乗ってきたのが嬉しくてたまらないようだった。
「そうさ。誰にも出来ないことをやって英雄になるんだよ。ひと足飛びに次の世界の扉を開くのさ。これがロマンで無くて何と言うんだ」
「まあ、今僕らは誰もやらないだろうことに挑戦しているのは確かだけど、これはロマンじゃなくて、蛮勇と言うのじゃないかな」
ジミーは手元の端末と、床の上に浮かび上がるDNAのホログラフを見比べる。そして、この無謀とも言うべき挑戦について、フランクが言い出したこと日のことを思い出していた。
イギリスの伝統ある全寮制のパブリック・スクールであるイートン校に入学してから3年が経った。二人は今年で14歳になる。
ジミーとフランクは幼いころから生物学の分野に強い関心を抱き、突出した実績をたたき出していた。生物を含む理科分野の成績だけで言えば、学年はもちろんのこと、このイートン校においてもツートップである。
ジミーは中でも、遺伝子デザインの分野において才能を開化させている。遺伝子デザインという概念が、広く普及して生まれた
一方、フランクは実際の実験手技にその精密な能力を発揮していた。最新のナノロボットを使った遺伝子導入や、デザインされたフルスクラッチDNAを胚から発生させる手技はもちろんのこと、ウィルスや細菌を
仮想空間上での遺伝子デザインを得意とするジミーと、それを実際にかたちにする能力に優れたフランク。
二人の関係はDNAの二重らせんの塩基対のように相補的だ。
お互いに学校の中では目立つ存在だったためか、二人は何かと交流があった。主にフランクが議論をふっかけ、ジミーがそれを冷たくあしらうというのがいつものやり取りである。
そんな関係が続いて2年がたったころ、フランクがこんな提案をしてきたのだ。
「二人だけの研究室を創らないか」
ジミーが得意としている遺伝子デザインは、もともと端末が一台あれば事が足りる。だから、研究室の存在は特に必要と感じていなかった。フランクも実験をしたいときには、学校の実験室を借りているようだし、絶対になくてはならないものではない。
フランクになぜ研究室が必要なんだと尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。
「君と一緒に世界を変えるような研究成果を残したいんだよ。ひとりじゃ駄目なんだ。二人で、歴史に名を刻みたいんだ」
フランクはそんなことを、恥ずかし気もなく言ってのけた。いつも冷たくあしらっていたつもりのジミーは、呆気に取られつつも、その提案を承諾して一緒にいることに決めた。
研究室が欲しいと相談した生物学教師は面倒そうな顔したが、この小屋を用意してくれた。なんと、もともとは倉庫として扱われていたこの小屋を、実験室として機能するように改装までしてくれたのだ。
あとで聞いた話だが、フランクの両親が多額の寄付と圧力をかけたのだそうだ。それも、フランクの差し金である。この一件で、ジミーはフランクのしたたかな一面を思い知った。ただの情熱と勢いだけの人間ではない。目的のためならあらゆる手段を使うのがフランクだ。
そうして、この研究小屋を手に入れた。部屋はそんなに広くはない。ジミーが使うデスクと本棚が一つ。ビニールカーテンの向こうには薬品棚がついた実験机が一つと、小さな冷蔵庫。
生物学の教師が顧問につき、定期的に監督することにはなっているのだが、ここには滅多に顔を出さない。あまり関わりたくはないのだろう。
それから、2か月ほどは研究室を実際に稼働させる期間だった。フランクは《ビーグル》製の遺伝子操作ナノロボットを取り寄せ、研究室としてその使用申請を政府に提出した。
遺伝子デザインが広く普及した現代では、設備を整えて政府に申請すれば誰でもフルスクラッチDNAによるデザイン生物の作製や遺伝子の編集が出来るのだ。標的遺伝子の改変だけでなく、フルスクラッチDNAからデザイン生物の作製を行えるこの《ビーグル》製のナノロボットを自由に扱えるようにすることが、フランクが研究室を創ろうと言った本当の狙いかもしれない。
《ビーグル》製のナノロボットは人類未踏産物だ。それがどうやって標的をピンポイントに判断して遺伝子を導入したり、デザイン生物を正常に発生させるように導いているのか、詳細な部分は解明されていない。それでも、このイギリスという国の産業には欠かせない存在として利用されている。この国では、デザイン生物を活用して、医療、農畜産、環境関連産業など、多岐にわたる分野において、革命ともいうべき爆発的な発展が起きていた。
他にも、フランクは寄生虫の一種である線虫を実験動物として飼育していた。遺伝子生物学やそれを発展させた発生生物学分野において昔から扱われている実験動物だ。《ビーグル》製のナノロボットを使った実験は、ナノロボット自体のサポートがあるから実験精度のぶれが少ないが、伝統的な手法については日頃から実際に行わないと、腕がなまってしまうから、線虫を使って実験をしたいらしい。
ナノロボットを中心として行う現代の研究現場で、どうして伝統的な手法をそんなに研鑽するのか疑問だった。フランクに言わせるとこういうことらしい。
「過去の技術に敬意を払うのはもちろんだが、俺たちは繊細かつ深遠な生物を扱っているということを実感として知らなければならない。伝統的な手法はそれを実感するのにぴったりなんだ。ここでは、ひとつのうかつさや傲慢さが全てを台無しにするからね」
もっぱら仮想空間上での遺伝子デザインしかしないジミーには、あまり理解できないこだわりだった。今の時代ではあらゆる場面で人間より道具の方がうまくやる。道具に託せるものに、そんな抽象的な理由でこだわる必要性はないと思えた。
そして、研究室の運営が軌道に乗ったある日、フランクはこんな提案をしてきた。
「ジミー。俺たちで人間を怪物に作り替える生物を創り出さないか」
何を言っているのか、とっさに理解できなかった。フランクはときどき突拍子の無いことを言い出す。
「それは、標的の遺伝子を自在に改変できる生物を創るということかい。《ビーグル》のナノロボットみたいに」
「違う。文字通り。人間を、人間でないものに作り替えるのさ。遺伝子はもちろん。その身体の構造も含めて、次の世代に引き継ぐような変化を与える。そう例えば、ロンドンで噂になっているフランケンシュタインの怪物みたいなやつだ」
フランクが引き合いに出したのはロンドンでここ数年噂になっている
フランクの話は、まったく現実的ではない気がした。ばっさりと切り捨てることも可能だけども、ジミーは話に付き合うことにした。研究室の運営が軌道に乗って、二人の研究課題を決める時期でもある。
「人間の身体を、目に見えるレベルで作り替えるとなると、幹細胞の制御をはじめ高度な機能が必要になってくる。遺伝子デザインそのものが困難なのもあるけど、それ以上に越えられない壁があるんじゃないかい」
ジミーは部屋の中央を開けるように椅子を壁に寄せた。フランクにも隅に寄れと、手振りで指示する。
手元の携帯端末を操作して、天井に設えられたホログラフの投影機を起動させる。二人で端末を覗き込むより、この方がやりやすい。
まず表示したのは、政府が発布している遺伝子デザインに関するガイドラインだ。
遺伝子デザインには大きく分けて二種類のアプローチがある。
ひとつは既存の生物のゲノムを編集することで、新たな性質を付与することを目的としたもの。もう一つは、フルスクラッチDNAによる新種の生命の創造だ。
どちらのアプローチを行うにしても、このガイドラインを遵守することが前提となっている。
「まず、人間を作り替える生物そのものが危険だ。創ろうとするだけでもバイオテロすれすれどころか完全にアウトで、法的にも倫理的にもやっちゃいけないことだろ」
ガイドラインには生物及び遺伝子の多様性に配慮して、生命の唯一性を著しく侵すものの作製を禁じるとある。遺伝子デザインは特定の目的のために実行されるべきであり、広範かつ無秩序なものの作製は禁じられているのだ。他の生物に影響を与えるものについては慎重に取り扱われなければならない。生命を扱う研究者の最低限の倫理を定めた項目だ。
他にも社会秩序を侵すことを目的とした生物の作製も禁じられている。人間の身体を侵し、バイオテロへ転用できるような遺伝子デザインは法律違反だ。
フランクの提案は、法的にも研究倫理的にも認められるものではない。さらに言うなら、挑むことすら、現在の環境では不可能だ。
「それに実現するには《ビーグル》製のナノロボットやAIの支援を受けないといけない。けれども、それは政府に監視されている。挑戦するだけで僕らにお縄がかかる。保健省の遺伝子監督官が一日も経たずにやってくるし、最悪、特殊防疫部隊が踏み込んでくるかもしれない」
ジミーは続けて遺伝子デザインソフトを立ち上げた。政府の遺伝子デザイン
遺伝子デザインは、基本的に、この遺伝子デザイン
ホログラフ上でそれぞれの機能を意味する赤と青のブロックが並ぶと同時に短い警告音が鳴り、文章がポップアップされた。
『危険が予測される操作が行われました。アーカイブへのアクセスを1時間制限します。なお、遺伝子デザイン
実現性が無くても、強い感染性と致死性を引き起こす配列をアーカイブから引き出して組み合わせたことに対して、その思想そのものを危険と支援AIが判断して警告が表示されたのだ。
政府に《ビーグル》製のナノロボットの使用申請を出すと、その研究室のネットワークも監視対象になるのだ。ナノロボットやそれを活用するために《ビーグル》が整備した遺伝子デザイン用の
監視しているのはイギリス政府保健省の遺伝子監督官だ。ケースによっては警察以上の権限を発揮する。より強い実行力として、軍隊並みの装備を備えた特殊防疫部隊だって控えている。
「それにナノロボットや支援AIのセーフティがそもそも突破できないだろ。危険性のある操作は、そもそも受け付けられない」
生物に対して著しい致死性があるものや、強い感染性や他の生物の遺伝子に強い干渉を行えるような能力を許諾無しに付与しようとすると、《ビーグル》製のナノロボットと繋がったネットワークを通して、政府のAIがその危険性を判断してナノロボットの動作そのものを停止する。
遺伝子デザインに用いられる支援AIも同様の監視を受けており、さらにデザインの過程で禁忌となるものが検出された場合は警告が出てくる。
研究、開発の目的によっては政府の審査のもと許可されることもあるが、厳重な管理と運用を行うことが課せられる。ジミーとフランクのこのちっぽけな研究室では、とてもじゃないが許可を受けることなどできない。
「ナノロボットや支援AIのセーフティに干渉しようとしても、その時点で自壊する。さらに通信が途切れたことが遺伝子監督官に伝わり、すぐさまナノロボットや支援AIの使用権限が停止される」
《ビーグル》製のナノロボットは人類未踏産物だけあって万能だ。だが、それの使用には強い制限がかかっている。
フランクが挑戦しようと言っていることは、その制限に真正面からぶつかる内容だった。
「君はそれでもやろうって言うのかい。僕は無謀なことにしか思えないけど」
「ジミーの認識は正しいさ。俺がやろうとしていることは、今の社会では受け入れられない。それでも、俺はやってやりたいんだ」
「理由を聞いてもいいかい。何でそれにこだわるんだ」
フランクを携帯端末を寄越せと手を差し出した。ジミーは、立ち上がりフランクに携帯端末に渡す。何か、見せたいものがあるのだろう。
「遺伝子デザインには無限の可能性がある。ここには、人間が望んでいるもの。“
フランクが遺伝子デザイン
あらかた基本的な構造が出来上がったのか、免疫を制御する領域にまで、フランクは手を広げていく。
フランクの手際は見事だった。遺伝子デザインによる、
ジミーには、その操作の先にある人間が成長した姿がありありと想像できた。身長も高く筋骨隆々かつ頭脳明晰で、免疫も完璧に調整した誰もが憧れるスーパーマンだ。
遺伝子デザインによって望んだ姿を手に入れる。誰もが“
夢のような技術だった。だが、決して無制限に望まれる技術ではない。なりたい自分が、既存の社会とミスマッチを起こすことだってあるのだ。多くのひとに望まれない性質を手にすることで、生きづらさを感じることだってある。法律に違反してしまえば、罰せられるしかない。
遺伝子がもたらす性質の中で社会とのミスマッチを引き起こすものは、疾患と呼ばれてしまうことだってあるのだ。
社会が変わらなければ、“
遺伝子デザインに取り組む誰もが一度は熱狂し、やがて冷めていく。無限の可能性を手にしながら、社会との適応という制限に縛られるしかない現実に打ちひしがれるのだ。
「例え技術があっても、誰もが“
「そうさ。俺たちは多くのもの縛られている。それはいいさ。けれども、問題はそこじゃないんだ」
フランクは携帯端末を操作する手を止めない。遺伝子デザインにおける研究者の在り方を見せたいのかと思ったが、目的はどうやら別にあるみたいだ。
フランクが免疫細胞の成熟に関わる遺伝子領域を操作している途中に、短い警告音が鳴った。
『この操作は、個人のパーソナリティに著しい影響が生じます。パーソナリティに強い影響を及ぼす操作は、一部の疾患の治療を目的としたものしか認可されていません。認可コードを入力してください』
フランクが操作した領域が個人のパーソナリティに影響があると支援AIに判断されて、禁止事項に引っかかったのだ。
「何が問題だったと思う」
「具体的に何が問題だったのかはわからないよ。免疫を制御する領域と、他の遺伝子との相互作用の中でパーソナリティの形成に関する影響が検出されたんだ」
フランクは免疫を司る領域を操作しているはずだった。神経細胞やホルモンの調整など、パーソナリティに影響が出るような場所ではない。遺伝子は一つの領域で一つ機能を担うようにシンプルな機能をしている訳ではない。人間の性質のほとんどは複数の遺伝子の相互作用によって成立している。
「それを判断したのは何だ」
「遺伝子デザインソフトを補助する支援AIだ」
膨大な遺伝子の相互作用全てを把握することは人類にはできない。それを操作することの危険性や、禁止事項に抵触するかは、《ビーグル》が創り出した莫大なデータベースのもと、支援AIが判断している。
「そうだ。遺伝子デザインにおいて、禁忌とされる行為を定めたのは人間であり今の社会だ。けれども、具体的にその領域を線引きしているのはAIなんだよ」
遺伝子デザインは多くの制限のもと運用されている。無制限に乱用することを、社会が良しとしなかったのだ。だが、その具体的な線引きは人類の手に余る行為だった。だから、人類智を越えた道具に委ねている。
「それは合理的な選択の結果だろ。僕ら人間に届かない領域を、僕らより賢い道具が補う。超高度AI《ビーグル》のおかけで出来ることは格段に広がった。その力を信じるのは当たり前のことじゃないか」
人間は道具の発展とともに歩んできた。人間より高度な機能を持つように設計された道具を信じるのは、ずっと昔から変わらない。ただ、出来ることは昔と比べものにならないほどに多くなった。人類が全てを知ることが不可能なほど、道具は進歩したのだ。
「本当にそうか。俺たちは気づかないうちに、社会との合意も取れて、手を伸ばせば獲得できた領域さえも、AIに蓋をされているのかもしれないんだぜ」
ただの推測でしかなく陰謀論じみている。フランクは、AIが引いた線引きなんて信用できないと言いたいのだ。当たり前のように道具の恩恵を享受している現代の価値観からは、外れているとしか思えない。
「別に、作製した人間を作り替える生物を、実際に使おうなんて思っちゃいない。環境漏出なんてもっての他だ。ただ、人類の手で扱える領域が増やせることを証明したいんだ。道具によって制限された中でもがくだけじゃない。人類があらゆる制約を広げて、先に進めることを、俺は確かな実感として感じたいんだ」
社会が定める禁忌を侵すのではなく、AIが定める領域の一部を人類に明け渡してもらう。人類が、確かに自分の足で歩んでいけるという確信を感じたい。
フランクの提案は、冷静に考えれば無い話だった。ただ、彼の中では大事なことなのだと伝わってくる。そして、フランクは勢いと思い込みだけで突っ走る人間ではないことも知っている。大事なこだわりを貫くために、決して理性を失わないのがフランクだ。
「君の気持ちはわかったよ。けれども社会的に認められる研究だとは思えない。成果が出たとしても、それは僕たちの間で共有されるものにしかならない」
「それでもだ。それでも俺は君とやりたいんだよ」
言葉で否定してみても、心が揺れ動いていた。遺伝子のデザインを制限の中で描いていくことに慣れたジミーにとっては、刺激的な提案に思えた。
制約の中にあるからこそ、可能性を広げていきたい。そんな心の奥に眠った欲求が、フランクの言葉に照らし出されていた。
「あんまり窮屈な世の中をそのまま受け入れるのは、かっこ悪すぎるだろ」
フランクはそう言って笑顔を作ると、手を差し出す。
まるで、こちらが断ることを微塵も考えていないような無邪気な顔をしていた。
素直に手を取るのは、フランクの思惑通りのようで、面白くなかった。だから、仕方なく話に乗ってやったという表情を作ってみる。
「条件がある」
これもつまらない意地かもしれない。本心を見透かされているのか、フランクは底抜けに嬉しそうだった。
照れくさくて、フランクの差し出した手を、ジミーは力まかせに握った。
「期間を決めよう。3か月だ。君の情熱と、友情に免じて、その間だけは手伝うよ」
人間を作り替える生物を創り出す。それは靴をぬぎ捨てて、いばらの道を歩くような行為だ。
何も目的も持たないままでは、ただ流されて、音も立てずに時間がすぎて行ってしまう。それは、かけがえのないやり直せない日々だ。その日々をフランクの情熱と理解できないこだわりに、付き合ってみても良いと思えた。
「これは道具が主導権を握る領域に対する、ささやかな宣戦布告だ。俺たち人間が、理性と情熱のもと、どこまでも歩んでいけると証明するんだよ」
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