空のカケラ
武上 晴生
空のカケラ
それは豪雨の日の翌日、登校中のことだった。
空に、ヒビがはいっていた。まだ小さいが、確実に。
まっすぐなこの大通りは、学生や大人やらで賑わっているのに、誰一人として気づいちゃいない。僕一人だけが、驚きのあまり腰を抜かしていた。
だって、おかしいじゃないか。空が、割れるだなんて。
僕は小さい頃から空が好きで、暇さえあれば雲を指でなぞっていた。今でも晴れの日には、近くの公園で寝っ転がって、移り変わる空の色を楽しんでいる。雨の日だって、傘を差さずに、天からの贈り物を存分に浴びるのが僕のたのしみだ。
そんな風に僕は毎日空を見ている。でも、いままで、ヒビが入ったなんてのは、見たことも聞いたこともない。
確かに、昨日の雨は酷かった。雨水は、天空の貯水槽を叩いて割ったみたいに降り注いでいたし、雷はすぐそばの森に何度も落ちた。こんなに怖い空は、始めてだった。1日中家で怯えていたくらいだ。
でも、今日になってしまうと、何事もなかったみたいにあっけからんと晴れたので、僕は嬉しくてたまらなくて、ずっと鼻歌交じりに晴れ晴れした空を見ながら歩いていたのだ。
まさか、空が壊れているなんて、夢にも思わずに。
そのとき、ふと視界の端の、チラリと光るものが目に留まった。道路に落ちているようだ。
急いで駆け寄って拾ってみると、淡い青色をした、透明な、ガラスでもない、見たことのない、何かのカケラのようだった。
✳︎✳︎✳︎
僕のクラスには、物知りのメガネ君がいる。教室に入ると、僕は真っ先に彼に話しかけた。
「ねぇメガネ君! えっとね、朝さ、空にヒビが入ってて、その、僕はこんなカケラを拾ったんだけどさ、あの、何だか分かったりしない?」
クラスのみんなは、慌てたような僕の口ぶりにきょとんとしていたが、メガネ君はメガネをくいとあげると、無言のまま、カケラと空を交互に眺めた。クラスのみんなも、固唾を呑んで回答を待つ。
「これは空のカケラだ。間違いない。」
メガネ君は、断言した。
「じゃあ、空は壊れかけているの?」
誰かが不安げに尋ねると、
「そうかもしれないな。今年は世界的に異常気象が起きているって、テレビでも言っていただろう?」
深刻そうな声で答える。それはクラスの不安を煽ったようで、みんなは口々に騒ぎ出した。
「どうしよう。世界が終わっちゃう。」
「空が壊れたらどうなるの?」
「いやだ、まだ死にたくない!」
「俺、来月の給食楽しみなのに!」
「はいはい! 皆さん静かになさい! 給食より先に授業の準備をしなさいな!」
いつの間にか担任の先生が、黒板の前に立っていた。僕たちはしぶしぶ話を取り止めて、席に着く。
窓の外を見ると、太陽が笑っているようだった。
✳︎✳︎✳︎
「先生、いくらなんでも暑すぎませんか?」
ひとりが紅白帽で扇ぎながら問いかける。5時間目、今日最後の授業は、外で体育だ。
「そうね。無理をしないで、こまめに水分補給をしなさいね。」
そういう先生は、サングラスにつばの大きな帽子、ジャージの長袖長ズボン。暑さ耐性は0、見た目は明らかな不審者スタイルで立っていた。
「なんであんな格好しているの……?」
僕がこっそりメガネ君に尋ねると、彼は即答した。
「まあ、紫外線対策でしょう。」
授業は、80メートル走だ。準備体操を終えると、みんなそれぞれに並んでは走り、並んでは走りを繰り返す。先生の言いつけ通り、合間合間にはちゃんと水道で水分補給。しかし、当の先生本人は、ずっと
「大変だ、先生が熱中症だ。」
「誰か救急車呼んできて!」
「AEDってどこだっけ?」
またみんなが口々に騒ぎ出す中、メガネ君がいち早く職員室まで走って、別の先生を呼び出してきてくれた。なんとか先生は無事に保健室まで運ばれ、僕たちは教室に戻ることになった。
「メガネ君、ありがとう」
僕がお礼を言いに行くと、彼は天を指差した。
「そんなことより、君、見た? 空が崩壊を始めたんだ。」
見ると、空には穴が開き始めて、そこからパラパラとカケラが降っていた。
「大変だ。」
僕は一目散に穴の下に向かって走り出し、校庭を抜け出した。
「待ってくれ、1人じゃ危険だろう!」
メガネ君も、あとを追ってくる。どこかの先生の怒声も、2人に耳には届かなかった。
✳︎✳︎✳︎
たどり着いたのは、いつもの公園。小さな敷地が、空色のカケラでいっぱいになって、まるで地上にできた小さな空のようだった。そんな空の上に立っているだなんて、なんだか不思議な感覚だ。
「メガネ君、このカケラは、どうやったら空に戻せるの?」
メガネ君は、クラス1の物知りだもん。何でも知っている。そう、信じていた。信じ込んでいた。
しかし、彼はメガネを外した。
目線を下ろし、目をつむり、首をふるりと振った。
「分からない。そんなの、聞いたことがない。」
僕は唖然とした。
悲しみ、怒り、虚しさ、絶望……。言葉では表せない無数の感情。心臓が、ぺしゃりと押し潰されそうになる。
気持ちに任せた言葉の濁流が、頭に届かないうちに、一気に吐き出されてしまった。
「じゃあ、じゃあどうするの? この空はどうするの? 傷はどうにもできないの? 空を助けてあげられないの? もう、もう空は、戻らないの?」
「うるさいな! そんなに空が好きなら、君が助けてあげるべきだろう?!」
はっとした。初めて、メガネ君の強い声を聞いた。初めて、メガネ君が怒っているところを見た。彼の言葉が、耳の奥でガンガン響く。
僕は空が好きだ。大好きだ。空を誰よりも救ってやりたいのは、僕なのだ。いつも幸せをくれる空に、恩返しをしたい。助けてやりたい。だから学校を飛び出したんだ。だからメガネ君を頼ったんだ。
何かしてやりたくて、ここまで来たのに。助けてやりたいのに、何も出来ないだなんて。
気付けば僕は、彼を見つめながら、泣いていた。自分の無力さに、泣いていた。
メガネ君もまた、ポッケの横で手を握りしめ、歯を食いしばって、小刻みに震えていた。
ぽつり、ぽつり。涙が落ちる。2人の涙が、地面に落ちる。空のカケラを、じわりじわりと湿らせた。
そのとき。
カケラのひとつが、虹色の光を放った。そして、しゅわっと泡になった。
驚いて周りを見ると、他のカケラも泡になって、天へ向かって飛んでいた。
「メガネ君、メガネ君! 空を見て!」
僕がメガネ君の肩を叩くと、彼はびっくりしたように肩をあげた。そしてメガネをふくと、真上を見上げた。
「虹だ、虹がかかっている!」
「やったよ! 僕たち、空を治したんだ!」
青空の下、虹のふもと。僕たちは、手を取り合って喜んだ。
✳︎✳︎✳︎
そのあと、学校に戻ると、2人は無断で学校を出たことをこっぴどく叱られた。
でも、クラスのみんなは僕たちの帰りを喜んで、その行動を英雄と称えてくれた。少し照れくさかったが、どこか清々しかった。
教室の窓からは、まだ虹が見えている。その片端は、さっきの公園についていた。
「知ってるかい? 虹の端っこにいる人には、幸せが訪れるんだって。」
光を反射して眩しいメガネをくいとあげた彼に、明るい笑顔で僕も答えた。
「じゃあ、僕たちも幸せになれるね!」
柔らかな夕日が、この町を、どこまでも優しく包み込んでいた。
空のカケラ 武上 晴生 @haru_takeue
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