ァバの街では首を垂れよ

比良野春太

駅馬車


「もうすぐァバだよ、お客さん方!」

 ァバの街に着いたことを知らせるために駅馬車の御者はベルを鳴らす。

 乗客はそれを聴くとこうべを垂れて瞳を閉じた。

 馬は速度を緩め、パカ、パカ、と調子よく馬蹄を鳴らす。

 乗客のうち、子連れの一組――つばの広い帽子を深々と被った母親と、彼女に抱かれて両手で顔を覆い隠し俯く幼い少年は深く深呼吸をした。

 母親は、馬が速度を緩めたおかげで息子の馬車酔いが良くなるかもしれないと思いながら優しく少年の肩をさする。少年はというと、ベルが鳴ってから必死に呼吸を止めており、両手から膨らんだ赤い頬が溢れていた。

 息はしていいのに、と母親は微笑む。

 ぷはっ、と耐え切れず息を吐いた少年は、何度か浅く深呼吸をした後、再び大きく息を吸って口を閉じ、両手で顔を隠してしまった。

 本当は話をしたっていいはずなのだが――ァバの街に入るとそういう雰囲気ではなくなるのだった。空気そのものが粘性を帯びたようで、言葉を発そうと吸い込んだ空気が口内に纏わりつくように感じ、やっとの思いで母親が発した言葉は「もう少しだから」だったが、その言葉も直ぐに蹄鉄の音にかき消される。

 馬蹄の音に合わせ車体が上下すると、乗客の老婆の垂れさがった頬も振り子のように揺れた。刻まれた皺は痩せ尾根のようで、急峻な谷を汗が伝い、祈るように組まれた染み塗れの両手に滴り落ちている。

 少年は指と指の合間から老婆を見、いつかママもこうなるんだ、とぼんやりと考える。少年は、自分の体の経験則から時間が経つと人間は「膨らむ」ものだと信じていて、どれほどの時間が経てば老婆の「萎んだ」ような顔と手に至るのかは想像を絶していた。彼にとっては、まだ老婆のようになるより風船のように破裂するほうが現実味があった。

 さらに視線を移すと、半端に締め切られたカーテンから向日葵畑が覗く。

 だるような暑さに、向日葵でさえ首を垂れていた。

 ――ァバの街では向日葵だって下を向く!

「何してるんだい!」

 閉ざされた口から漏れ出るように、小さく、しかし強い声で老婆が釘を刺す。

 すぐさま母親が少年に覆いかぶさるようにして、「すいません」と小声で呟いた。

「全く、何してるんだい。お母さんに言われただろ?

 首を垂れるんだよ!」

 老婆はふん、と鼻を鳴らして祈る両指を解いて腕組みをした。

 しばしの沈黙の後、馬蹄のリズムに合わせて御者は静かに童歌を呟きだす。


 ァバの街で首を垂れないものはたった二つ

 一つ目は異教の者で

 一つは焼却炉の煙突

 ※ほらほら!

  皆で首を垂れよ

  灰舞う我らのァバの街では

 (以降、御者の気分によって※を好きなだけ繰り返す)


 それから御者は調子に乗り、持ちネタの異国の首を撥ねられても生存した鶏――首なし鶏の名はマイクと言うらしい――を始めたが、乗客の無反応に冷めて途中からすっかり無口になった。

 数分後、気分を持ち直したのか、それとも「ガイド」としての彼のいつも通りの勤めか、御者はわざとらしく両手でフードを深くかぶって告げる。


「さて、お客さん方! 『ァバの雪』が深くなりますから、お降りの際はフードや頭巾、マスクで顔を覆いなさることをお勧めします。ここからが本当のァバの街ですからね、準備は良いですか。

 それと、みなさん――今日は誰がお亡くなりになったんで?」


 少年は窓をこっそりと見る。

 雪が降っていた。

 ――お母さん、雪だよ。

 そう言おうとしたが、少年の母親は両肩を震わせながら彼を強く抱きしめた。

 これは話しかけてはいけないときの母親だと察した少年は、また景色を眺める。

 ――それにしても、真夏に雪?


 急に道が拓ける。

 少年の瞳に映ったのは煙突。

 不規則な長さの無数の煙突が地面から生え、低く唸るような音と共に煙を吐く。

 その不揃いの円筒たちに既視感を覚えた少年は、その正体を直ぐに理解する。

 ――パイプオルガンだ!

 そう、少年が礼拝で通っている教会のパイプオルガンだった。


 そのうち、少年は馬車に降り注いでいるのは雪ではなく灰なのだと理解した。


「この音、巷では『出発の音楽』と言われていましてね――遺灰が天に向かえるように、煙突全体が送り出しているように聴こえる、ということなんですが、機械の稼働音に過ぎませんからね……、おっと、私は敬虔な教徒ですよ!」


 ここは灰舞うァバの街。

 降り注ぐ夥しい遺灰を巻き上げ、駅馬車は進む。

 

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