The world will change

安里紬(小鳥遊絢香)

第1話

 今日は私にとって、特別な日だ。いや、そうなる予定だ。


 瑠璃色の青空が広がり、白い雲は小さなアクセントのように浮かんでいる、そんな麗らかな春の日。今日は私の二十六歳の誕生日だ。


 そして、今、向かっているのは彼の家。

 付き合って、約三年になる彼氏、すめらぎ侑李ゆうり二十九歳。

 私が務める会社に四年近く前に転職してきた人だ。


 黒い髪は本人の性格を表すかのように真っ直ぐで、硬いかと思いきや、触るとサラサラしていて、指通りもいい。

 凛々しい眉に、二重のぱっちりした目。その目はよく見ると、綺麗な琥珀色アンバーだ。

 それは光を反射すると、吸い込まれそうなほど美しい色になり、ついつい見蕩れてしまう。

 背は高く、一見細身に見えるが、実は筋肉質であるところも、私の心を大いに刺激してくれた。

 しかも、見せるための筋肉というよりは、使うための体幹から鍛えられた筋肉というのが、より美味し……かっこいい。


 誕生日にはレストランなんかで食事がしたい?

 優雅に夜景の綺麗なバーでお祝いされたい?


 いいえ、私はゆっくりのんびり二人きりで過ごして、穏やかな一日にして欲しい。そう希望したら、侑李は自分のマンションに招待してくれた。


 侑李は落ち着いた穏やかな人柄で、常に優しく微笑んで、皆に分け隔てなく接する余裕を持つ、完璧とも言える男である。そんな侑李を、私は独り占めしたい。

 外にいれば、その整った容姿は嫌でも人の目を引く。会社でもものすごい人気で、競争率は半端なかった。誕生日くらい、多くの人からの視線を気にしない日にしたいものだ。

 素敵な一日になることを願いながら、実家住まいの私がたどり着いたのは、侑李のマンション。広すぎず狭くもない、二人で暮らすにはちょうどいい広さの部屋である。

 誕生日にプロポーズしてもらえるのでは、と期待している私は、一緒に暮らす想像までしてしまう。

 一度も実家を出たことがない私にとって、大好きな彼と送る新婚生活は薔薇色だ。


 玄関のチャイムを鳴らすと、ほとんど待つことなくそれは開けられた。


「おはよう、花菜はな。誕生日おめでとう」


 口元を緩めた笑顔は、思わず鼻血を吹き出しそうな程、爽やかでかっこいい。


「侑李、おはよう。ありがとう」

「入って」

「うん」


 いつもは何も置かれていない玄関に薔薇が飾られていることに気付いて、その気遣いにとくんと心臓が跳ねた。

 靴を脱ぎ、侑李に続いてリビングへと入る。部屋だって、普段はあまり物のないシンプルなものなのに、今日はあちらこちらに花が飾ってあった。


「わ、綺麗な花」

「花菜の誕生日は、やっぱりいっぱいの花に囲まれていて欲しいと思ったんだ。ちょっと気障だったかな」


 頭を掻きながら照れたように視線を彷徨わせた侑李に、勢いよく抱きつく。


「ううん、すごく嬉しいよ!ありがとう。こんなにたくさんの花を用意するのは大変だったでしょう?」


 ふわりと薫る侑李の匂いは草原ような、爽やかな匂いだ。イメージと違わないその匂いを胸いっぱいに吸い込み、がっしりとした胸に頬を擦り寄せた。


「花菜のためなら、このくらい全然大変じゃないよ。ほら、そんなにしたら擽ったいよ」


 クスクスと笑う侑李の胸から顔を上げ、腰に手を回したまま上を見上げた。

 目を細めて優しく微笑む侑李が、私のことを見下ろし、背中に回した腕でぎゅっと抱きしめ返してくれる。


 ああ、もう、何これ。

 かっこよすぎて身体が溶けるかもしれない!

 大人だ。大人の色気がダダ漏れの男が、今は私だけを映してるよ!


 もだもだと悶えている内心を、私はものすごい忍耐力で押し込めて、ニッコリと微笑み返した。


 それから、侑李は私の頭をポンポンとあやす様に叩き、指を絡めてソファーまで誘導してくれた。

 私の隣に腰を下ろした侑李は、絡めたままだった指を使って、私の手の甲をスルスルと撫でる。すっかり火照っていた私の身体が、ますます熱くなる。

 やだ、もう、会ったばっかりなのに、ここまでの時間だけでも幸せだ。結婚して、毎日一緒にいたら、あっという間に私の心臓はリズムを乱して、壊れちゃうんじゃないのかな。


「じゃあ、少し待っておいで。今、ランチの用意するから。僕の手作りで、本当に良かったの?」

「それが、良かったの! 侑李のご飯、美味しいよ。私には特別なものだもん」

「そう、それならいいんだけど」


 ディナーじゃなくてランチにしてもらったのは、少しでも長くいたいから。夜は一緒に作ってもいい。

 侑李のスペシャルランチを食べて、ゆっくり映画を観たり、お話したり、なんなら愛を深めてもいいんだけど……とにかく、二人きりを満喫するつもりだ。


 そして、夜には、待ちに待ったプロポーズを引き出したい。

 そんな野望をおくびにも出さず、私はキッチンで効率よく動いて、料理を仕上げていくイケメンを眺めて、ホクホクと胸を温めた。


 その後、程なくして侑李の料理は完成し、温もりを感じさせる木目調のダイニングテーブルで、二人向き合って、美味しいランチを食べた。


 おなかがいっぱいになった私達は、再びソファーに並んで座って過ごした。

 ゆったりとした時間の流れと、隣から伝わる侑李の温もりと匂いを満喫していた時のことだ。


「花菜」


 侑李が突然、ソファーから降り、私の目の前に跪いた。ピンと伸ばされた背筋と真っ直ぐ向けられた真剣な眼差しに、私の緊張もうなぎ登りに高まる。


 昼間だけど、遂に、遂にその時が来たのか……!


 煩いくらい走り出した心臓は、私を置いてどこかへ行ってしまいそうで怖い。


「僕と結婚してください」


 ストレートな台詞がきたー!


「はいっ! 喜んで!」


 どこの居酒屋だ。


 でも、私は自分のそんな残念な返答に気付くはずもなく、私の返事を聞いて破顔した侑李に目を奪われた。


「ありがとう。じゃあ、着いてきてくれるね?」

「はい!……え? どこに?」

「もちろん、僕の故郷にだよ。もう帰らなくてはいけないんだ。これ以上、故郷を不在にするわけにはいかなくてね。でも、花菜を手放すなんてことはできないから、結婚を受け入れてくれて嬉しいよ」


 そう言って、侑李はいつもと変わらない優しい表情で、私の両手を握り、左右の手の甲にそれぞれ柔らかい唇を軽く押し当てた。

 そんな王子様のような仕草が似合い過ぎて、私の身体も心も雁字搦めにされてしまう。


 でも、ちょっと待って。誤魔化されてはいけない。何か予定外のことを言ったな、と何度か瞬きを繰り返してみたが、侑李は冗談を言うような人ではない。


「えっと、そこは遠いの?」


 もちろん侑李となら、どこでも生きていけるが、両親と離れるのは些か寂しい。それに今の仕事だって、急には辞められないだろう。


「そうだね、遠いけど大丈夫だよ」

「遠い、んだ。そっか、でも、侑李となら大丈夫だね」


 寂しいとは思うけど、侑李と離れるなんて考えられないから、心を決めるべきだろう。それに準備期間にしっかり親孝行して、里帰りだってすればいい。今生の別れでもあるまいし。

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