ああ、あれは一目惚れだったんだ

@SHEX

第1話

 じきに桜の季節もおとずれようかという三月下旬。

 俺は初めて一人暮らしをする友人の引っ越しを祝うために、下高井戸へと向かっていた。

 新宿から電車に揺られることおよそ十分ほど。京王線は幾度か利用したこともあるが、下高井戸で降りるのは初めてだ。かろうじて学生街であるという知識くらいはあるものの、土地勘はまったくない。スマホの地図アプリだけが頼みの綱である。

 見馴れない街並みにすこしわくわくしながら細い路地を抜けて、友人の新居を探す。高校を卒業したこの春、十年来の悪友である瀬野せの弘明ひろあきは、内定していた大型電器店の社員寮に昨日さくじつ転居したばかりだ。


「駅から五分くらいか……いいとこ住んでやがるな」


 見えてきたのは四階建ての小綺麗なマンション。薄茶の塗装は最近塗り変えたのか、陽光を反射してきらきらと輝いている。シックで落ち着いた色合いの建物だ。

 途中のコンビニで仕入れた、コップに注ぐと泡立つ麦飲料の入ったビニール袋を片手に、社員寮の中へ入る。狭いエントランスを素通りし、エレベーターに乗って友人の部屋――305号室の前に立つ。引っ越したばかりだからか表札はまだ出ていないようだ。呼び鈴を押すと、ほどなく扉の左手に据えられたインターホンから、女性の声が響いた。


「はい」


 一瞬意味がわからず思考がお留守になってしまう。しかしすぐにピンときた。友人の部屋から返ってきた女の声。ならば考えられる可能性はひとつしかない。

 弘明のやつ、引っ越しそうそう社員寮にオンナを連れ込みやがったのだ! とんでもない勇者である。


「あの……どちら様ですか?」


 だまりこんでしまった俺を不審に感じたのか、インターホンからすこし険のある声が聞こえてきた。


「あー、すいません。ちょっと弘明に代わってください」


「ひろあき……?」


「はい。――あ、俺、弘明の友達で小林っていいます」


「はあ……?」


 ……なんだ? みょうに話が噛み合ってないような……。ちょっと不安になってきた。


「ええと……弘明、いますよね? 瀬野弘明」


「……だれ?」


 心底困惑した声の調子で理解した。……部屋まちがった。

 いや、部屋番はちがってないはずだ。表札は出てないが305というプレートが扉に付いている。建物自体をまちがえたのか。


「あ、すみません! 俺、淀屋橋カメラの社員寮とまちがえちゃって……」


「え? ああ、もしかして男子寮と勘違いしてたの?」


 男子寮!? てことは、ここ女子寮なのか?

 俺の動揺がインターホン越しに室内へ伝わったらしく、くすりと抑え気味の笑い声が聞こえてきた。室内からフローリングの床を駆ける、軽い足音が響く。そしてすぐに扉が開かれると、そこには上下紺色のスエットを身につけた、生活感あふれるお姉さんが立っていた。俺より二つ三つ年上だろうか。どうやらすっぴんらしく化粧気もなく、セミロングの黒髪は無造作に後ろで束ねられている。


「男子寮はね、あっち」


 にっこりと微笑んだお姉さんが、サンダルを引っかけて玄関から出る。

 とくべつ美人というわけではないのだが、性格の良さがうかがえる温かな笑顔である。


「ここからじゃ見えないけど、その雑居ビルのちょうど裏側に建ってるの」


 お姉さんは通路の手すりから身を乗り出して、左手に見える建物を指差した。俺の前を通りすぎた瞬間、形のよいつむじが目にとまった。かなり背が低く、ちょこちょことサンダル履きで歩く姿がなんとも可愛らしい。


「あっ、ちょっとだけ男子寮のはしっこが見えてる。ほら、あれ」


「ああ、すぐ近くなんですね。ありがとうございました。行ってみます」


「どういたしまして」


 にこにこ笑顔のお姉さんが、ばいばい、と手を振る。俺はなんとなくこのまま立ち去るのがなごり惜しくて、コンビニ袋からクラッカーの箱を取り出した。友人宅でおつまみにチーサラを作ろうと思って買い込んだものだ。


「これ、よければ。……えっと、部屋まちがえちゃったおわびに」


「はあ……」


 お姉さんはクラッカーと俺の顔を見比べて、すこしへんな顔をする。しかしすぐ、うれしげに白い歯を見せた。


「ありがと。ちょうどお腹へってたんだ」


 なにげに餌付けが有効なようだ。やはり可愛らしい。


「あ、そうだ。わたしね、本店の家電売り場が担当なの。ちょっとは安くできるから、電化製品買うときは淀本店にきてね」


 見かけによらずちゃっかりしたお姉さんである。別れ際にさらっとセールストークをぶちこんできやがった。



 さっそく明日にでも行ってみよう。なんか買うものあったっけ……



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